地租改正後の農村

地租改正当時日本総人口三三〇〇万人のうち、八四%が農民、七%が華士族、商工民其他九%という人口構成でしたので、農業を主幹とした経済情勢であったことがわかります。新政府は幕府と同じように地租を財政の基礎としようとしました。後進日本資本主義の発展のためには、地租はなお封建的な収奪とさえいわれるような高率のものでした。しかも地租金納はいまだ自給自足経済下にあった農民をいきおい貨幣経済に突入させる結果となって、大きな波紋をえがき、金納地租は量的に見て封建的年貢の継承に何ら変らないものでしたから、農民の負担は並大抵でありませんでした。明治政府は農業の発達を著しくゆがめつつ農民の多大な犠牲のうえに、資本主義の保護育成を断行したわけです。

農村に於ける封建的な諸制限が全く廃除され、地租改正によって土地所有権が認められるに至って農村ははげしい変動の渦中にまきこまれました。地租改正において耕作権(土地用益権)を認めなかった政府は、地主の兼併した土地をはっきりと地主の財産として所有権を認めました。これらの土地は売買質入の形で兼併されたものですが、表面では禁止されていましたので、いろいろの慣行でこうした土地の移動はなされていました。しかし占有権を認められるにすぎなかったことです。又小作についても現在の小作関係より複雑で、長い慣行のもとに幾多の小作形式があり、あるものはどちらが地主か小作人かはっきり決定できないような形式のもありました。ところが地券が一筆毎渡されるとなると土地所有者たる地主を決定しなくてはなりません。こうして一刀両断のもとに地主と非地主を分離しましたから、幾多の意外な事件も起りました。結局、富める者勢力ある者に有利な結果がもたらされたことは想像されます。

当時小作地は全耕地の二五〜三〇%とみられていますから、大部分の農民は尚自作農でしたし、ひとまずは自由な小土地所有者となり得たといえましょう。しかし多くの自作農民の地位は極めて不安定で、凶作とか旱魃という災害と米価の変動という危険にさらされていました。そのうえ年々の地租は金納ですから、当時自給自足の状態にあって収穫の三割以上を現金に換えることは、余裕のない自作農にとっては重い負担でした。かれらは一寸した災害や米価の変動にもたえられなくて、土地を売り又は高利貸から借金して土地を抵当に流すか、いずれにしても小作農に陥るか都市に流入したのです。

一方富裕な土地所有者は今まで不安定であった土地の所有権を確認され、余裕があればいくらでも買入れることも自由でした。しかも小作料は収穫の五〜六割にも達する現物納がなされ、地租は一定率の金納でありますから、米価の上騰によって小作料に対する地租の割合は少くなっていくのでした。地租改正によって利益を得たのは地主でした。しかも政府は地主擁護の政策をとったのですから、この傾向は更に進められたようなものでした。国家自体がまたたくまに莫大な官有林野・御用林野を獲得して全国の六〇%以上の面積をもつ巨大地主となったのですから、むりからぬことです。

明治初年の国家・地主・小作人の取前表

年  次 国家 地主 小作人
明治  六  年 34 % 34 % 32 %
明治七〜九年
平均
13 % 55 % 32 %
明治  十  年
減租
18 % 50 % 32 %
明治十一〜十六年
平均
10 % 58 % 32 %

地租改正の結果は農民の生活に余裕を与え、農業を発展させることでなく、農民の負担は封建制のままで、かえって土地が農民の手から離れて地主の兼併にゆだねられるという皮肉な結果になりました。封建時代にはきびしい搾取がなされた反面、封建的な農民保護といいますか、あらゆる方法をもって農民の絶対数の確保に努めましたので、地租改正時代のような混乱はまずありませんでした。結局明治初年の諸制限廃除で農民に与えられた自由は土地の売却放棄、無一物になって離村しようと貧窮にあえごうと自由勝手だということで、この解放期に際して地租改正は農村民にとって未曾有の危機ともなりました。

年 次 総反別に対する
小作地の割合(%)
総農家戸数に対する
小作・自作戸数の割合(%)
明治六年 31.1 % ──
十六 36.75 〃 60.59 %
二十 39.34 〃 67.83 〃
二十五 39.99 〃 ──
三十五 44.60 〃 ──
四十一 45.40 〃 66.73 〃
大正三 45.50 〃 68.27 〃
45.99 〃 68.97 〃
昭和二 45.78 〃 68.72 〃
47.33 〃 68.83 〃
47.10 〃 68.90 〃
 

地租改正当時全国耕地の三〇%近くを占めていた小作地は、十年後には四〇%近くに増加しています。土地を失った農民を労働者として吸収するだけの近代産業の発展がなかった当時として、これら農民はわずかの土地を競い合って高額の小作料を徴集されつつも農村から離れることが出来ない運命にありました。明治二十〜三十年代にかけて海外移民・北海道移住が異常な関心をもたれ、相当数の移民が実施されたのは、こうした農村の袋小路からのがれようとする切実な念願の象徴とみてよいでしょう。

特に明治十年西南の役の軍費として、換紙幣を濫発した結果、物価の暴騰はひいて農村に於ける米価、地価の暴騰を来し、富裕農民をぐっと進歩させました。しかしこのインフレーションの反動として明治十三年から十八年に至る不換紙幣の整理・緊縮財政は、たちまちにして極端なデフレーションとなって米価・地価の急激な下落となりました。そのため地租の負担は農民にとって耐えられない問題となりました。農民の窮乏は甚しく小農民の多くが土地を喪失してしまいました。インフレ・デフレを通じて土地は地主の許に集中して、寄生的な不耕作地主(小作米収入のみで生活する地主)化していく地主の急激な成長を見ました。

明治十四年の土地売買口数九十余万口、その借金額一億四〇〇〇万円にのぼり、しかも一口の借金額は平均七一.六円であったということが、何よりも小農の貧窮化と小作農化を物語っています。 明治十七〜十九年の三ヶ年間に地租五〜十円を納むる府県会議員選挙権者の数は八十四万人より七十二万人へと激減しています。これらの小農の耕作面積は五〜八反程度とみられますから、それ以下の小農においては貧窮は想像にあまることです。

久留米誌に「明治十八年降雨久しく下層社会の者は各地頗る困難し、間には餓死せし者もありき。是時 飛飯・蛍飯・鏡飯等色々の雑飯を食する者多かりき。(洗町小誌)」「明治二十三年春霖雨、米価騰起して窮民殆ど飢渇に陥り救助施行二回。」とあり、当時の市民の惨状もうかがわれます。

大城村に於て大城・乙吉・乙丸・赤司四ヶ村三三五戸の農家に於て、明治九〜十八年の十年間に土地の移動口数六八七口、一年平均八七筆にのぼっています。全九ヶ村六二七戸にはこれに倍する移動数でしょう。土地喪失の理由は売却によるもの質流れのものが相半しています。

地租は量的に減少して近代性を整備して行きましたが、小作料は依然として現物で高額でしたので、フェスカは「日本二於テ発達セシ小作法ハ決シテ農業ノ進歩ヲ助ケス。却テ之ヲ妨グルモノトス……コノ小作農業ノ幣タル地租苛重ナルノ害ヨリ甚シ。」と警告を発しています。

当時の農民の窮状は惨憺たるもので「農業意見」に「方今負債山ノ如ク祖先伝来ノ不動産等ヲ売却スルニアラザレバ之ヲ負債ノ抵当トシ旧時ノ生活ノ地位ヲ保ツ能ハサルモノ多シ。甚シキニ至リテハ草根ヲ掘採シテ食料ノ資トスル惨状ヲ見ル。」とあります。

マイエットによれば明治十六〜二十三年迄に地租及び地租割等滞納のため強制処分を受けた者三十六.七万人。しかも滞納額総計一一,四万円、一人平均三十一銭であるのに、その為土地を官没或は競売に附されて被った損害は合計三一五.五万円、一人平均八.三円となり、その損害高は実に滞納金高の二十七倍にあたると述べています。

明治二十六年度郡長会議の協議内容として「本年度旱害虫害加フルニ十月十四日暴風十七日洪水ニテ非常ノ損毛ト相成今後細民ノ活路甚タ苦慮スルト雖良法モ無之依テ其方法ハ各村々二於テ充分協議ヲ遂ゲ稲石斗上納分二ヶ年間三割去同節倹ヲ続行致シ規約方法ハ其町村適宜布設スベシ。」とあり、虫害による凶荒は飢饉状態を呈し、大城村に於ては地租補助及備荒備蓄の万全を期しているようですが、それとてもこれを救済することできませんでした。

「高利貸と租税制度とは到るところにそれ(零細土地所有)を零落せしめねばならぬ」(資本論)とあるように、小農民にとって高利の負債と土地抵当は避けがたい運命にあり、地租改正より日露戦役に至る三十年間に農村には大多数の中小農民と極く少数の大土地所有者即ち地主という階級分化を将来しました。かくて全耕地の約五〇%が小作地に全農家の約七〇%が小作関係のもとに立つという結果に至りました。高率の物納小作料こそは明治の小作制度の癌として後長く農業の進歩をさまたげました。しかもこの小作制度は地主対小作人関係に封建的な残渣を持ち込むことになりました。

幸いに残された明治九年〜十八年間の大城村内(大城・乙吉・乙丸・赤司)の地方名寄帳によって当時の大城村の状況をさぐることにしましょう。土地売買口数八六七口、一戸平均二.六口にのぼっていますが農業生産の第一の資本であ る農地の売買は深刻な農家経済の必迫を物語るものですが、下表による土地所有表によってもわかるように、一反歩以下の小農が四六%に及んでいることに驚かされます。

土 地 所 有 表
(大城・乙吉・乙丸・二〇六戸)

土 地 面 積戸数全戸数に
対する割合

町 0〜 0.1 0.1〜 0.5 0.5〜 1.0 1.0〜 1.5 1.5〜 2.0 2.0〜 3.0 3.0〜 5.0 5.0〜10.0 10町以上

戸 96 49 24 15 7 8 4 1 2

  %   46   23   11   7    3   4   2   1   2

また、明治十八年度の地租額一覧表によってわかるように、地租一円以下即ち水田にして一反以下田畑にして二反強という零細農が四八%も存在し、なかには家屋宅地のみという農地皆無の農家も相当数見ます。これらの零細農はほとんど小作関係によって辛うじて農村にとどまり得、わずかに副業・兼業・賃労働によって生計を保持し得ているといっても過言ではありません。従ってその経済生活の必迫化は想像にあまることです。この傾向は日清戦役後も上昇を辿っています。

地 租 額 表
(大城・乙吉・乙丸・赤司三三五戸)

地租額戸数全戸数に
対する割合

  円   0〜 1   1〜 3   3〜 5   5〜 10  10〜 15  15〜 20  20〜 30  30〜 50  50〜100 100〜200 200〜300

戸 161 65 22 26 21 11 11 12 1 2 1

 %  48  19  7  8  6  3  3  3      

明治十八年当時は水田耕作こそ農業経営の中枢をなして、小作関係も水田に於て大きな意義を持っていました。まだ畑作に於ける商品的作物など問題にならなかったからです。小作料収入だけに寄食できる最小限度は水田四町歩(全国平均)で、これを所有すれば足りた大正時代に比べて地租改正当時はその三倍内外の水田所有を必要とし、 幕末にはその三倍を必要としたといわれていますから、明治十八年代の二、三町歩の地主はとうてい小作料に寄食できる存在ではありません。自家経営を主体として過剰の僅かの土地が小作地であったと見られます。五町歩に於てもまた自家経営を相当重視しなければならなかったでしょう。そうしてみると、水田のみで寄生地主として存在できる地主は極く稀なことになります。当時の地主というものがいかなるものであったかが想像できます。この層の農業経営は家族労働のみでなく作男・奉公人・日傭取といったものゝ労働によってなされました。

水田二十一.三町歩を所有した大城村最大地主はすでに幕末に田畑総面積二十六町余、小作人一五三人を算えていますので、地租改正前に土地兼併の段階を経ているわけです。しかし地主の入庫小作米一〇四七俵のうち八八二俵は藩主への年貢として上納しなくてはなりませんでしたので、地主の手許には一六五俵が残されるという結果になります。 (光安文書による) 耕地二十六町歩を兼併した地主は幕末としては、稀にみることなのですが、それにしても地主所得は案外にすくないものであったことがわかります。明治初年大城村に際立って所有面積の大きいものとして北部方面に田畑約三十町歩弱、南部方面に田畑約二十町歩弱の二戸をみるのみですが、この層に於てはすでに小作料収入に寄食できる状態にあったものと推定されます。

水田二町歩以上の土地所有者表 
明治十八年度 (大城・乙吉・乙丸・赤司三三五戸)
所有面積戸 数全農家戸数に
対する割合

20町歩以上 5〜6 町 3〜5 町 2〜3 町 計

1 戸 4 戸 3 戸 15 戸 22 戸

1.2 % 0.9 % 4.5 % 6.6 %

その他の中小地主は相当面積の自家経営を継続していましたが、米価暴騰による収入の急増加によって、自家経営を廃止しても尚余裕を生じる段階に至って漸次小作米に寄食する方向になったものでしょう。地主が農村に於ける第一線から後退して不生産的な寄生地主化したのは日清戦役時代からおそくて日露戦役時代といわれています。明治三十年代よりは他町村の地主及び商工業関係者の土地兼併がはじまって、大城村内に約十町歩にのぼる面積となっていますが、こうした不在地主の手が急激にのび始めたことがわかります。この時代に至りますと、さきにかかげた二町 歩以上水田所有者表の内容も一変して、地主の所有面積ははるかに上廻ったことでしょう。かくて農村に於ける地主はゆるぎないものとなったのです。日本に於ける地主は明治以来実に花やかな七十年の歴史を辿りました。農地改革前の地主をもって過去を云々することは大きな間違いであることがわかるでしょう。

明治政府のとった封建的な農業政策に対しての農民の反抗は明治初年全国に起った烈しい農民騒動となり、その数二百数十回を算えます。農民のかかげたスローガンは地租軽減・徴兵令反対・小作料廃止・借金棒引などで、近くには筑前一円を渦中にまきこみ四四〇〇余戸の焼討・打崩しとなった筑前百姓騒動がよい例です。特に明治九年の新地租反対の二つの大騒動は日なお浅い政府の心胆を寒からしめ、明治十年西南の役の風雲急なるや政府はやむを得ず、地租を一〇〇分の三から一〇〇分の二.五に軽減する措置をとりました。「竹槍でどんと突き出す二分五厘」とはこれをさすものです。しかしすでに農村には地主対小作人の対立が芽ばえ、農村内部構造が大きく二つに分化しようとする傾向にありました。地主・商人・高利貸に対する農民の憎悪が深まってきたことは急速に貨幣経済にまきこまれた小農民の苦悩を物語っています。自由民権運動は明治初年から華々しい活躍を続けましたが、農民の反抗運動がこれらの影響をうけたことは少なからぬものがあります。

明治初年の農民騒動はその目的を主として地租軽減にもつものですが、地租の比重が一般的に軽減されてくるに従い小作争議へと転化していきました。明治三十年代に小作人組合の結成全国二十二を算える程度でまだ組織としては弱いものでしたが、小作制度に対する批判は別方面から烽火があげられました。即ち明治三十六年発行の平民新聞は土地国有を主張し、三十七年に西川光次郎の「土地国有論」続いて末延道成・大井憲太郎の「土地国有論」等は農業の進歩をさまたげる小作制度に対する痛烈な批判の書です。

横山源之助著「日本の下層社会」には日清戦役後の小作制度の特性として、

(一) 小作種類の極めて複雑なる事。

(二) 小作年限の甚だ不規則なる事。

(三) 小作料の比較的高貴なる事。

(四) 小作料は米納を普通とせる事。

(五) 解約処分は概して無造作なる事。 等をあげています。

そして小作条例設定の急務を説きつつ次のように結んでいます。
「要するに本邦農制の不統一は小作制度の確立せざるに原因するもの多し、余輩は生産社会の秩序と多数農民の幸福を進歩せしむる為 め、経世家の此問題に注意せんことを熟望して已まざるなり。」農地問題の解決こそは日本の農業の発展進歩の鍵なのですが、これが政治上に問題としてとりあげられなかったところに政府の農業政策のあり方がうかがわれます。

識者のきびしい批判も改革案もよそに当の農民の団結はまだその緒についたばかりで、小作争議・農民運動が発展して全国的なものとなり政治的なものとなるのは、第一次世界大戦時代に至ってからのことです。明治末年までに結成された小作人組合は四十一、組合の種類も

(一) 共同貯金及び農事の改良発達を目的とするもの、

(二) 小作条件の改善及び農業の改良を目的とするもの、

(三) 地主小作人間の協調及び農事の改良発達を目的とするもの等で改良主義的なものでした。

明治三十五年浮羽郡川会・竹野・柴刈一帯を中心に小作米減額運動が決裂して、小作人の地主宅襲撃等の小作争議が起りました。その余波は大城村一帯にも及び小作地放棄等の挙にでましたが地主の団結、官憲の圧迫のまえに敗北の運命となりました。

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