大城村の誕生
「明治以後の地方行政は急速な近代化を使命とした明治政府の極端な中央集権過程に対応して、地方自治団体の自
治的な側面を制限し、これを官治的なものたらしめることにあったといっても過言ではない。即ち府県市町村という
地方団体は一方では国の行政区劃として、他方では地方団体として二重の性格を担っていたのであるが、この二重は
地方団体の自治の権限が次第に縮小され国政委任事務が地方団体固有の事務を凌駕するという形で均衡を失っていた
のである。この結果、国家として日本の急激な発展は、地方団体に古い諸関係の重荷と、日本近代の負担とを二重の
形で負わせることになったのである。」といわれています。
このような出発をもって地方行政と地方自治はどのような歩みをしたことでしょうか。明治十一年より府県は地方自
治団体としての性格を賦与されましたが、自治に参与できたものは限られていましたし府知事・県令の権限が強かっ
たのです。町村は明治十一年郡区町村編成法により国の行政区劃たることが明確になり、十三年には区町村会法が公
布され、区町村の最も自由な自治活動が行われましたが、十七年区町村会改正以後、上部機関の統制が強化され、次
第に自治を制限される方向にむかいました。
明治二十一年市制・町村制の公布によって、市町村の法人格・条例制定権が法認されるとともに立法行政についても
制度的に整備されましたが、選挙権には一定の制限がありました。明治二十二年明治憲法発布とともに市町村の成立を
見るに至りました。
かかる情勢下に大城村の誕生をみることになりました。明治二十二年町村合併調書をみますと、
村名 | 田 | 畑 | 宅地 | 池沼 | 山林 |
原野 | 雑種地 | 計 | 人口 | 戸数 |
大城 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
31 | 31町 | 986人 | 167戸 |
36 | 55 | 8 | ー | 7 | ー |   | 110 |
乙吉 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
1 | 1 | 88人 | 14戸 |
13 | 2 | 1 | ー | ー | ー | ー | 17 |
乙丸 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
1 | 1 | 67人 | 10戸 |
23 | 3 | ー | 1 | ー | ー | ー | 30 |
赤司 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
8 | 9 | 867人 | 160戸 |
81 | 6 | 7 | 2 | 4 | 1 | 5 | 110 |
稲数 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
2 | 2 | 332人 | 63戸 |
46 | 2 | 3 | ー | 1 | ー | 1 | 55 |
仁王丸 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
3 | 3 | 336人 | 65戸 |
53 | 5 | 2 | ー | ー | ー | 1 | 62 |
塚島 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
12 | 12 | 280人 | 52戸 |
16 | 1 | 1 | ー | ー | ー | 1 | 20 |
中島 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
11 | 11 | 189人 | 35戸 |
6 | 4 | 1 | ー | 2 | ー | ー | 15 |
千代島 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
2 | 2 | 425人 | 80戸 |
26 | 29 | 4 | ー | 1 | ー | ー | 61 |
計 | ー | ー | ー | ー | ー | ー |
74 | 75 | 3581人 | 646戸 |
305 | 111 | 31 | ー | 20 | 2 | 9 | 486 |
〔註〕 地目別面積の上は官有地、下は民有地 官有地計75町 民有地計486町
一、現今固有村何レモ資力ナク独立自治ノ目的ヲ達スルヲ得ズ。且戸長役場所轄区域ニシテ、
地形民情ニ於テモ故障ナキカ為メ、其請願ヲ取リ、合併シテ有力村ヲ構成セントス。
二、赤司村ハ、明治八年地租改正ノ際、赤司村・山須村・乙丸村ノ内ヲ合テ、赤司村ト改称ス。
三、大城ノ称ハ歴史上ニモ散見ス。且大村ナルヲ以テ其ノ名称ヲトリ、大城村トナサントス。
四、九ヵ村ヲ以テ一団体トスルモ、将来交通ノ不便等ヲ感ゼザルノミナラズ、地勢風俗ノ如キモ、
異別ナキヲ以テ、人民ノ折合至極宜シ。村役場ハ現今大城村ノ内ニ設置アリ。
爾後モ変更セザルヲ適当トス。
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以上の調査によって市町村制実施当時の現在の大城村の村勢が想像されます。この町村合併による新しい有力村構成
へのうごきは、すでに述べたところですが、政府の強力な地方政策と地方の輿論の合流するところにこの実現が将来
したのでした。当時大城村の戸数六四六戸、人口三、五八一人。農業を主体とした大城村は九ヶ村合して生産高五、二二四
石(明治二年石高調)。 有力村とはいえ、地方自治の発展には幾多の難関が横たわっていたことでしょう。
「地形民情ニ於テモ故障ナキガ為メ」 「地勢風俗ノ如キモ異別ナキヲ以テ、人民ノ折合至極宜シ。」とありますが、
農業経営上南部地区・西部地区に畑作主体地帯があり、この点地理的条件に南部北部に相当の差異がみとめられます。
しかし農業経営上同一用水組合下にあり、宗教的にも密接な氏子集団関係をもち、血縁的にも関聨がふかく、封建制
下にも北野組管内の歴史をもっていましたし、明治以来すでに二十年の同一管轄区域にあり、大城村構成へのあゆみ
は順調に進捗したことでしょう。
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