|
年次 | 村長 | 助役 | 収入役 |
---|---|---|---|
明治22.4 25年 26.4 29年 30年 31年 33年 34年 37年 41年 42年 大正 元 2年 4年 5年 7年 8年 9年 11年 12年 13年 15年 昭和 2年 3年 5年 6年 7年 8年 11年 12年 15年 16年 17年 19年 21年 22年 24年 26年 28年 28年 |
重富卯八郎 重富卯八郎 重富卯八郎 中垣 広吉 福田芳太郎 中垣正太郎 中垣正太郎 中垣正太郎 原口左太郎 原口左太郎 原口左太郎 中垣 等 中垣 等 中垣 等 中垣 等 中垣 等 中垣 等 中垣 一男 小坪 紋吉 小坪 紋吉 中垣 等 |
中垣 廣吉 中垣 廣吉 中垣 廣吉 福田芳太郎 田中 忠 田中 忠 田中 忠 原口左太郎 中垣 繁 楓 亀太郎 楓 亀太郎 楓 亀太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 野口 正樹 安元 章 安元 章 |
田中嘉太郎 吉塚 新蔵 永田 正運 永田 正運 中垣栄太郎 吉野弥次郎 中垣 雅 中垣 光太 中垣 光太 南島 市郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 小坪彦太郎 野口 正樹 野口 正樹 野口 正樹 野口 正樹 福島 荒太 楓 弘 |
明 治 二十二 年 度 村 会 議 員 一 覧
当選年月日 明治二十二年四月十八日
満期年月日 明治二十八年四月十七日
太田矢六郎・堀田寿作・原口樹造・福田芳太郎・武谷和五郎・内野藤助・光安平十郎(以上二級)
中敬次郎・田中正・中垣省策・中垣重吉・山田佐久馬・中垣伸平・吉塚万吉(以上一級)
,
年次 | 歳出 予算額 | 役場費 | 会議費 | 教育費 | 勧業費 | 衛生費 | 警備費 | 諸税及 負担 | 予備費 | 臨時費 | 其他 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
明治 22 | 円 557 | 円 547 | 円 - | 円 - | 円 - |
円 4 | 円 2 | 円 - | 円 10 | 円   | 円   |
26 | 1,740 | 582 | 15 | 706 | - | 26 | 11 | 372 | 28 |   |   |
29 | 2,121 | 666 | 12 | 764 | 109 | 45 | 3 | 522 | 0 |   |   |
31 | 4,803 | 1,307 | 27 | 1,283 | 120 | 127 | 3 | 1,513 | 65 |   | 358 |
34 | 5,882 | 1,596 | 52 | - | 270 | 134 | 3 | 3,694 | 135 |   | - |
37 | 5,498 | 1,614 | 38 | *- | 140 | 208 | 3 | 3,377 | 118 |   | - |
40 | 6,350 | 1,728 | 44 | *- | 15 | 172 | 3 | 4,136 | 136 |   | 116 |
大正 元 | 6,059 | 2,338 | 74 | *- | 15 | 105 | 3 | 2,189 | 216 |   | 1,119 |
3 | 9,491 | 2,508 | 106 | *- | 15 | 86 | 265 | 4,290 | 521 | 274 | 1,326 |
7 | 17,888 | 2,827 | 97 | 7,226 | 15 | 97 | 393 | 5,390 | 291 | 1,126 | 416 |
10 | 34,869 | 6,585 | 231 | 15,835 | 15 | 119 | 439 | 9,966 | 323 | 804 | 550 |
13 | 47,260 | 7,322 | 213 | 16,635 | 10 | 161 | 1,638 | 4,574 | 597 | 13,966 | 2,144 |
昭和 元 | 39,758 | 7,566 | 231 | 17,336 | 22 | 161 | 510 | 4,242 | - | 667 | 8,923 |
8 | 44,131 | 6,768 | 190 | 15,759 | 227 | 78 | 595 | 3,535 | 689 | 14,834 | 1,446 |
9 | 35,863 | 7,014 | 190 | 16,037 | 182 | 78 | 592 | 4,311 | 680 | 5,757 | 842 |
大城村歳出予算一覧表をみますと、明治二十二年より二十三年間は村事業と して特に掲ぐべきものがなく、役場費に九〇%以上があてられていま す。いわば地方自治体制整備の時代とでもいうべきでしょうか。
明治二十六年度に至って歳出予算は前年度予算の二・五倍強に膨張してい ますが、その内容として教育費(約四〇%)・諸税負担(約二一%) 役場費(約三五%)・衛生警備費(約二%)という割合になっていま す。教育費は最も重要な村歳出面であったのですが、以降三〇〜四〇 %程度がこれにあてられています。義務教育費は以来村財政の上に大 きな比重を占め、村政のうえにおける教育問題は極めて重要なことで した。
諸税及負担費は御井・御原・山本(三井)三郡組合町村税及地方税等 その他の村負担をさすもので、発足以来日なお浅く漸く軌道にのりか けようとしている各町村にとって、単独に遂行できない土木事業・勧 業衛生事業に対して三郡組合の強力な活動が要請されたのでしょう。
次にかかげる三郡町村組合の歳出予算によってもわかるように、土木・ 勧業・衛生方面の活発なうごきがみられます。特に土木費は約七〇 %を占めている状況で郡営事業が進捗しました。 諸税負担は以来歳出の三〇〜四五%にあたり、大きな比重を占めてい ます。
歳出 予算 | 会議費 | 土 木 費 | 勧 業 費 | 衛 生 費 | 予備費 |
---|---|---|---|---|---|
円 5,630 | 円 252 | 円 4,029 (71%) |
円 902 (16%) | 円 324 (6%) | 円 121 |
  |   | ◎修繕工費 3,815円 河川工費、 里道 橋梁、樋閘、溜池 堰□、 用悪水路 赤川用水費補助 器械費、 諸費 ◎得川改修測量費 214円 |
◎勧業会費 44 ◎勧業委員給 70 ◎農談会費 20 ◎良種買入費 15 ◎農具買入費 30 ◎品評種子交換会費 99 ◎製藍改良費 40 ◎蚕糸業組合補助 200 ◎立毛共進会補助 240 ◎螟虫駆除補助 144 |
◎伝染病予防費 40 ◎病院費 250 ◎医学士巡回諸費 27 ◎産婆試問会費 7 |
  |
大城村の歳入予算のうち、町村税の占める割合は八〇〜九五%です
が、町村税は最大の歳入部門であり、村民の負担にかかるものです。
次の町村税内容一覧表によってみますと、地価割戸数割・特別税反別
割の三者がその大部分を占めています。
年次 | 町村税額 | 地価割 | 特別税 田反別割 |
戸数割 | 営業税 | 所得税 賦課税 | 雑賦課税 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
明治22 | 円 561 | 円 340 | 円   | 円 154 | 円 40 | 円 27 | 円   |
24 | 545 | 300 |   | 180 | 40 | 25 |   |
26 | 1,403 | 498 |   | 820 | 54 | 30 |   |
28 | 1,634 | 542 |   | 969 | 75 | 48 |   |
30 | 2,713 | 977 |   | 1,536 | 79 | 90 |   |
32 | 5,324 | 1,625 |   | 3,315 | 234 | 150 |   |
33 | 6,991 | 1,456 | 1,193 | 3,762 | 230 | 350 |   |
34 | 5,114 | 1,461 | 1,193 | 1,785 | 275 | 400 |   |
36 | 5,099 | 1,583 | 1,193 | 1,587 | 475 | 260 |   |
41 | 6,460 | 1,410 | 1,637 | 2,788 | 400 | 225 |   |
大正元 | 7,436 | 1,840 | 1,458 | 2,571 | 555 | 300 |   |
5 | 11,517 | 1,738 | 1,492 | 7,289 | 197 | 450 |   |
10 | 31,069 | 7,248 | 2,726 | 17,835 | 767 | 1,292 | 1,200 |
昭和元 | 32,067 | 6,706 | 4,747 | 16,465 | 1,085 | 1,064 | 2,000 |
地価割は二十年代に於ては町 村税の約三〇〜六〇%を占め ていますが、土地所有者のみ に関係あって小作人には関係 ありません。特別税としての 田反別割は村財政の膨張に対 して明治三十三年度より特新設 されたものですが、地価割と ともに土地所有者のみに関係 あるものです。
戸数割は町村税の約二五〜 五〇%を占めていますが、時 代が降るにつれてその比率は 大きくなり明治末年四五%、 大正十五年五七%となってい ます。戸数割課税については 土地反別・地租額・営業税・ 建物・明確物件等によって課 税標準を決めて賦課されてい ますが、土地所有者の位置は極めて高く評価されていますから、戸数割の面においても土地所有者の存在は小さいものではありません。
等級 | 地方税 | 町村税 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
戸数 | 一戸平均 | 小計 | 戸数 | 一戸平均 | 小計 | |
1等 | 戸 1 | 円 1.20 | 円 1.20 | 戸 1 | 円 6.70 | 円 6.70 |
2〃 | 3 | 1.07 | 3.21 | 3 | 5.98 | 17.95 |
3〃 | 2 | 0.96 | 1.92 | 2 | 5.36 | 10.72 |
4〃 | 3 | 0.84 | 2.52 | 3 | 4.69 | 14.07 |
5〃 | 3 | 0.60 | 1.80 | 3 | 3.35 | 10.05 |
6〃 | 11 | 0.48 | 5.28 | 11 | 2.68 | 29.48 |
7〃 | 25 | 0.36 | 9.22 | 25 | 2.01 | 50.25 |
8〃 | 23 | 0.30 | 6.90 | 23 | 1.67 | 38.50 |
9〃 | 46 | 0.24 | 10.04 | 46 | 1.34 | 61.64 |
10〃 | 49 | 0.18 | 8.82 | 49 | 1.05 | 49.29 |
11〃 | 28 | 0.14 | 3.92 | 28 | 0.79 | 22.20 |
12〃 | 60 | 0.12 | 7.20 | 60 | 0.67 | 40.20 |
13〃 | 54 | 0.07 | 4.61 | 54 | 0.43 | 23.43 |
14〃 | 180 | 0.04 | 7.74 | 180 | 0.24 | 43.20 |
15〃 | 152 | 0.01 | 7.43 | 152 | 0.09 | 13.83 |
村負担 | 4 |   | 0 | 4 |   | 0 |
計 | 644 | 0.12 | 77.28 | 644 | 0.67 | 431.48 |
戸数割等級決定は毎年度の村会で重要な議題であったようすが議事録によってうかがえます。
聖代とたたえられた明治時代の農家の経済は極めて不安定で、経済のうごきに順応しにくかったのでしょうか、毎年
同一納税者の等級がたえず移動していることが記録されています。しかも中下層の位置が不安定であることは中小農
の没落を意味するものですが、最下位の戸数が著しく増加していく傾向にあり、明治二十六年度は一五等級であったも
のが、明治三十年代五〇等級に細分されて等位の決定をみ
ています。しかも上位に移動していく一群は少く、下位に
移動していく戸数の夥しい増加が注目され、戸数割の納入
が不可能に陥って滞納処分をうけている事例は毎年相当数
にのぼっています。上の表によってわかるように戸数割一〇
等級が一五〇戸約二三%にのぼっています。この面からも
当時農家の貧窮化がうかがえるでしょう。
明治三十年代に於ても地価割・田反別割の町村税に於ける
割合は四〇〜五〇%で依然として土地所有者の負担が大き
な分野を占めています。明治時代の土地所有者のうちでも
主として地主層の存在は村歳入に於て重要な位置にありま
した。明治時代の花型ともいうべき新興地主の村政に対す
る圧力といいますか、勢力といいますか、その影響すると
ころ推して知るべきです。
村会議員層、村役場吏員層、各
種団体役員層の出身及びその系列、こうしたものを見究め
てみるとき、自治の名のもとに村政はどういう道を辿らざ
るを得なかっかは想像されます。歳入は大部分が町村税であり、わずかに国庫交附金・地方税交附金・県費補助等
明治年間三%を見るありさまで、国税等の地方への還元度も低く、村財政はひとえに村の経済力如何にかかっていた
ようです。
明治二十三年に、府県制・郡制が公布されて立法・行政機関が整備されましたが、法人格は認められず、選挙権にも制 限がありました。府県制の改正により府県に法人格がみとめられたのは明治三十二年です。明治四十四年市町村制の改正 により市町村の権能及び負担が明確化され選挙権も拡大されましたが、自治の拡大とともに国の統制権も強化が相関 していきました。
大城村選出郡会議員一覧 | 大城村出身県会議員 | ||
---|---|---|---|
年 次 | 氏 名 | 年 次 | 氏 名 |
明治29 | 武 谷 和五郎 | 明治25〜29 | 武 谷 和五郎 |
30 | 武 谷 和五郎 |   |   |
33 | 田 中 嘉太郎 |   |   |
36 | 重 富 一 |   |   |
40 | 重 富 一 |   |   |
44 | 武 谷 糺之 |   |   |
大正 4 | 福 田 芳太郎 |   |   |
8 | 山 口 大 造 |   |   |
12 | 山 口 大 造 |   |   |
明治二十九年御井・御原・山本三郡合併して三井郡を構成しました。郡会議員は各村より一名選出(国分村のみ二名)、 郡政にたずさわりました。こうした情勢下に大城村も誕生以来、各方面に事業は進捗、村民の自治意識も啓蒙されま した。以下明治時代の主な村事業をひろってみましょう。
衛生面については、後進国の常として衛生思想が低く、悪疫の猖獗は なお跡を断ちませんでした。明治時代に入っても県下に九・二十三・二十七 ・二十八年度のコレラ流行を見、久留米地方に天然痘流行、明治二十九年 大城村一帯の集団赤痢の猖獗は眼をおおうものがありました。村政に おいても二十二年度より伝染病対策に重点をおき、種痘実施・伝染病隔 離・春秋大清掃の厳重な施行につとめました。二十八年大城・北野・弓 削三村組合立の避病院設置が議決され、明治二十九年現在地に避病院及び火 葬場の建設がなされました。墓地埋葬取締規則にもとづき、各村落に 共同墓地が新設されました。かくして文明国の恥辱ともいうべき伝染病も最小限度にくいとどめられる段階となり、 三十五年北野方面にコレラ流行を最後として四十年ごろより伝染病発生数例年村内一〇件以内という状態に至りました。
明治三十三年町村基本財産調査の結果、財産台帳が調製されましたが基本財産増殖については屡郡訓示を見ます。明治
三十五年大城村是調査費として七〇円が予算化していますし郡補助五四円があり、大きな期待がかけられました。郡是
にのっとって三井郡町村是の調製が計画されたのですが、当時郡是・町村是調製は県下一般の風潮でありました。
町村是の目的として
「 (一)町村郡ノ実力ヲ扶植シ進ンデ国家ノ実力ヲ養成スベキ基礎ヲ定メントスルニアリ。
(二)町村ノ将来ノ一大施政方針ヲ定メントスルニアリ。 」(八女郡町村是)
「 産業ヲ進メ民力ヲ養ヒ町村ノ実力ヲ養成スルハ、方今諸般ノ設備中最モ急要ナルヲ認ム。而シテ此目的ヲ達スルニハ、
先既往及現在ニ於ケル事物現実ノ情態ヲ審カニシ、町村経済ノ趨勢ヲ明カニ、之ガ暖急ヲ稽査シ之ガ得失ヲ講究シ、
各々将来ニ一定ノ針路ヲ定ムルニアラザレバ、到底完全ナル目達ヲ達スルコト能ハザルベシ 」(八女郡長田中慶介訓令)
とあって目的が奈辺にあるかが察しられます。
浮羽郡はつとに郡是・町村是の調製を見て地方自治の刷新にあたっていましたが、こうした情勢にあって三井郡に於
てもその実践に入ったのでした。
「抑々個人ノ覚悟如何ハ一家ノ興廃ニ関リ、一家ノ興廃ハ町村ノ栄枯ニ係リ、町村
ノ栄枯は延テ国家ノ強弱ニ繋ル。故ニ国家ヲシテ西洋各国ト対峙並立セシメ、以テ優等国民タルノ実ヲ保チ、毫モ衰
頽ノ憂慮ナカラシムルノ道、町村ノ事物ヲ調査シ其実力ヲ養成シ以テ其隆盛ヲ期スルノ外他ニ奇策妙計ノ存スルモノ
アルヲ見ス。而シテ事物其物ニ就テハ之ヲ既往ノ実蹟ニ鑑ミ、之ヲ現在ノ事態ニ察シ、以テ将来ノ規劃ヲ立ツルニア
リ。斯レ即チ本調査ノ起ル所以ニシテ、特に本郡会ガ多額ノ費用ヲ補助シ時日ヲ吝マズ、此目的ヲ達セシメント欲ス
ル所以ナリ。然レトモ事之ヲ論スルハ易ク之ヲ行フハ難シ。今ヤ実ニ空論ノ時代ニアラズ、丹心調査ノ結果ヲ重ジ、
一ニ村是ノアル所ニ向テ百搬ノ設備ヲ整ヘ、勇断果決着々之ヲ実行シ以テ其歩武ヲ進メンコトヲ希望ス。是即チ此書
ヲ編ム所以ノ大旨ナリ。見ルモノ幸ニ之ヲ空言死論ニ帰セシムルコトナカレ。社会ノ進運ハ亦永ク、吾人ト友タラザ
ルベケレバナリ。」
と三井郡町村是編纂の方針を打出しています。かかる方針のもとに二ヶ年の月日を要して編纂さ
れた村是ですが、不幸にも散逸して見ることはできません。
郡内の御原・大橋両村是によって村是の内容をのぞいて 見ましょう。現況調査之部として人口・戸数・職業別状態・農業の状態・土地・掛作・貸借・負担・財産・頼母子講 ・生産・消費・過不足・総決算がふくまれ、町村の実態調査なのです。「殖産行政ハ先ツ経済ヲ以テ第一ノ主眼トナ サザル可カラズ。」とあるように、急激な没落窮乏の道を辿りつゝある農村経済の実態を把握して、実態に即応した 解決打開策即ち村是の制定を企図しています。将来之部は調査の結果に基き村力振興及生産発達に関する大要をのべ たもので基本財産の養成・信用組合の設置・農会の活動・農場技術の改良進歩(灌漑・害虫駆除・肥料の適用・米麦 の増産・商品的作物の奨励等)・勤勉貯蓄・交通運輸等理想的な農村を構想して村民一致協力して目的の完遂に努力 することを決意しています。両村是とも大同小異ですから、大城村是の構想も推測されます。
「村是ノアル所ニ向テ百搬ノ設備ヲ整ヘ、勇断果決着々之ヲ実行シ、以テ其歩武ヲ進メン。」とうたった明治三十五年 あたかも日本に於ける産業革命は、繊維工業部門をはじめとしてついで重工業部門にもその達成をむかえようとして おりました。この時代は産業資本の確立期であり、わが国の資本主義が一応完成へとむかっていました。日清戦役後 東洋に於ける市場及び原料供給の確保のためには、必然的に日露戦役が将来されました。このころ強硬な大陸侵略論 は平和論を圧倒して、国民は一挙に軍国主義の渦中にまきこまれました。
「日露両帝国交渉事件ニ関シテハ人心漸く激昂ヲ来タシ居候哉ニ被認候処万一狂暴ノ徒アリテ外国人就中露国人ニ対 シ狼藉ノ挙動ニ出ル等ノ事有之候ニ於テハ外交策上其影響スル所少カラズ。実ニ憂慮ニ堪サル次第ニ付取締向殊ニ注 意スヘキ旨其筋ヨリ内訓相成」(明治三十六年十月三井郡長内訓)とあり、主戦論が野にみなぎり始めたことがうか がわれます。明治三十七年日露開戦となるや大城村より召集兵一四〇名を算し、日清戦争と異り動員計画の規模が大き く、村内五戸に平均一名という応召状況でした。戦場こそ遠い満韓であったものの、全国津々浦々に至るまで戦況ニ ュースは村民の切実な関心でありました。
戦時中通俗講談会、幻燈会等によって戦意の高揚が強力にすすめられ、続いて軍人家族の救護、戦死者遺家族の小 学校授業料減免取扱い、赤十字社事業の活動、軍馬の徴発、町村支部尚武会の活動、愛国婦人会発会、在郷軍人団発 会等、軍国主義的な組織が政府権力のもとに強力にすすめられ、平和な農村民が統制下におかれるに至りました。 大城村より戦死七名の犠牲者あり、戦勝のかげに遺家族の慟哭が秘められているのでした。
戦勝後の人心緊張を戒示する郡訓令がたびたび達され、勤倹貯蓄奨励に関する訓令とともに戦後の経済変動に対す
る対策もなされています。戦後の投機・事業熱は農村をも風徴して特に久留米を中心とする絣・縞等の綿織物中小企
業は雨後の筍のごとく簇出し、第一次世界大戦時代とともに当地方の織物業の盛況を呈しました。
投機事業熱に対する訓示、勤倹貯蓄の奨励策がとられ、戍申詔書の出現を見ています。青年団体組織の奨励は次代を
擔う青小年の育成に対する国家の期待がうかがわれますが、大正時代に入って町村ごとに青年会の組織が見られ、大
城村にも大正五年青年会準則に従って事務所を小学校に置き各部落に支部を置く青年会が結成されました。
「教育勅語、戍申詔書ノ趣旨ヲ遵奉シ、忠孝ノ大義ヲ体シ実際生活ニ適切ナル知能ヲ研キ剛健勤勉克ク国家ノ進運ヲ扶持スル
ノ精神ト素質ヲ養ヒ以テ健全ナル国民善良ナル公民タルノ素質ヲ得ルヲ目的トス。」と青年会の意図するところを示
しています。青年会は青年部・壮年部を含み、勅語、詔書を聖典とした天皇中心主義の教化団体でした。こうして次
代を背負う青壮年世代の農村民が組織化されて、やがて軍国主義の一翼を担う運命に陥りました。
この間教育問題は大城・千代両尋常小学校の合併につゞいて、明治三十三年大城・赤司両尋常小学校の学区制が採られ その合併問題は例年の村会議題として幾多の波瀾をまき起しつつ大正に入りました。教育問題に消費された物心両面 のエネルギーは決して小さいものではなかったようです。両地区の歴史的な環境、経済的条件、民情の差異などもか らんで円満解決の日まで相当の年月を要したのです。
筑後川第一次改修工事に於て金島放水路開鑿は当時としては未曽有の大工事でしたが、大城村の耕地の川敷地化は
数町歩にすぎず金島村に於て大きな犠牲が拂われました。洪水を科学の力によって制禦しようとする新しい治水策は
つゞいて郷土の切実な問題であり憂患であった支流陣屋川の水災軽減へと向けられ、全村一致の輿論は政治力と相俟
って陣屋川改修工事となって実現しました。その竣成は明治四十一年です。
南部地区・千代島中島地区の耕地整理事業は関係村民の大きな期待のもとに計画着工され四十一年竣成の運びに至りま
した。明治三十一年ごろ陸地測量部の測量が実施され、三角点設定の記録などもみられますが、三十八年筑後川沿岸官有
地占用については地元市町村より出願することに変更され、特に関係のふかい大城村として官有地成一筆限帳の調製
がなされています。
この間大城・赤司尋常小学校々舎及び村役場の改築がなされ、善導寺外七ヶ町村組合立の高等小学校が解散して、義 務教育の延長とともに尋常小学校に併置され、学区制度等による歳出の膨張のために、町村税として特別税田反別割 賦課の議決を見ています。
大城村会議録によってみる明治時代の村政のうごきは、大体以上の外に区長推薦の問題、郡会議員選出問題、戸数 割決定の問題、小学校教育関係、役場関係等を見るありさまで特記すべきものはありません。
明治二十八年度の「吏員名簿」をひもときますと、村会議員のほかに村税審査委員、村農会役員、郡農会評議員、勧
業会役員等があります。また御井・御原・山本郡教育衛生勧業事務及共有物件に係る町村組合会議員、善導寺高等組
合会議員のも見受けます。その他床島水利会関係議員・農業組合会委員・各区長・社寺惣代等一覧もあり、当時の村
政の一端をうかがう好資料です。
明治三十三年調正の大城村役場「吏員名簿」には村長・助役・収入役・書記の役場吏員の外に区長・村医・学務委員・
村会議員、郡会議員、善導寺外七ヶ町村学校組合会議員、大城村外二ヶ村水利組合会議員、北野弓削大城村組合会議
員、大城尋常小学区会議員・赤司尋常小学区会議員・村費臨時験査立会議員・村農会長・区長・区長代理等、当時の
村政に関係深かった故人の名がつらねられ、村政の一端をうかゞうに足る好資料です。村政は明治三十年代にあらゆ
る面に充実をみてきたことは、この二冊の吏員名簿によっても推察できます。
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