耕地整理

耕地整理は明治の農村の進歩性を代表するものの一つです。明治三十二年耕地整理法が発布され、県においては翌三十三年国庫補助金を主として耕地整理奨励にあて、各郡一個所宛の模範耕地整理地区を設置する計画をしました。
翌三十四年県内三ヶ所(そのうち一つは三井郡宮陣村)に模範地区を設置しました。耕地整理は開墾事業についで農地拡張・生産額増加の原因をなしました。こうした情勢下にあって大城村でも南部地区に大城金島両村合同の耕地整理が計画されました。
続いて西部地区千代島及び中島の耕地整理も計画されました。

南部地区においては三十六年七月、耕地整理組合が結成され(総代武谷和五郎・大久保禎蔵)耕地整理発起上申書が提出されました。筑後川放水路を暗渠をもって通過してくる床島用水の水量も不足が憂慮され樋管の新設の計画が樹てられ、放水路南北堤防掘鑿についての請願書が提出されました。三十七年一月耕地整理の認可の運びとなりましたが、途中計画変更のため再申請がなされ、四十年認可、いよいよ工事に入りました。

耕地整理設計書に「本整理地区ハ筑後川ノ沿岸肥沃ナル平地ニシテ、明治参拾年本川治水ノ為放水路開鑿ノ結果孤島ノ形ヲナシ且ツ大城金島両村ノ境界犬牙錯雑シ殊ニ水源口壱ヶ所ニシテ用水分配困難少カラス、其面積ハ拾八町九反壱畝八歩ノ内参拾六町六反四畝拾四歩ノ畑其ノ他山林等散在シ作物ノ生育ヲ妨ケ耕作往来ノ不便亦尠カラス。土地ハ極メテ臍腴ナルモ傾斜少キ広地ニ僅ニ貮千六百九拾間ノ溝渠ヲ掘鑿セルノミニシテ剰ヘ完全ナル排水溝ニ欠クルヲ以テ濕気ノ停滞甚シク二毛作ニ適セサル面積多大ナル(中略)道路行通運搬ニ不便ナル言語ニ盡シ難ク畑地散点ハ耕作ノ不便少カラス且肥料ノ流失スル虞甚シ是本地ノ整理ヲ発起シタル所以ナリ。」とあり、整理によって得べき利益として

(一) 生産力の増加
(二) 労力の節減 〜 一反歩労力平均三七人より二五人へ節減
(三) 増歩 〜 一・五町歩余
(四) 土地売買価格の増加 〜 畑その他地目総計三七町歩余の水田化による価格増加。
    等があげられています。

工事内容は
(一) 地盤盛立並に切下作業 〜 低濕田七町歩の乾田化、各所に散在した島畑計二五・七町歩の除去水田化。
(二) 耕作道路作成 〜 幅一間四分の本道を南北に直通、東西支道は八〇間毎に車輛の交叉に適すべき
    幅員をもたせる。
(三) 溝渠 〜 灌漑本溝二線、支線は耕作道路に沿うて掘鑿。排水溝は道路の中間に掘鑿、道路溝渠
    勾配千分の一。
(四) 畦畔及溝縁、
(五) 区劃形状 〜 田区は南北四〇間東西一五間の長方形二反歩宛に区劃、牛馬耕に便ならしむ。等等。

整理工費予算二七、七七四円、着工後二〇〇日以内に竣成の予定でしたが、中途の設計変更その他工事遅延のため竣成は四十二年に至りました。かくして水田不足の南部一帯も、三七町歩の美田化によって農業生産上劃期的な飛躍をとげる日が来ました。延亨水帳によれば大城村南部一帯五町余の水田しか存在しなかったというのに、この開発のめざましい跡には驚くばかりです。

地目変換・開墾的整理を中心とした初期の耕地整理は南部地区・西部地区の整理計画がすすんだ四十年ごろから、排水路整理事業を中心としたものに発展し、その有利性が一般に認識され、大きな関心がもたれました。
千代島地区・中島地区耕地整理の発起申請は明治三十九年度、南部地区に続いて行われています。千代島地区の設計書に「本整理地区ハ筑後川沿岸ノ平坦ナル耕地ニシテ、西北ハ陣屋川ニ接シ其幅員四拾貮尺内至四拾八尺ニシテ流域極メテ屈曲甚シク、南ハ一帯ノ畑ヲ隔テテ筑後川ニ接続シ其惣面積拾七町五反五畝拾壹歩ノ内田反別四町七反八畝貮歩ハ最モ低田ナリ。畑地ト雖モ反別拾貮町四反九畝拾参歩ノ内、九町壹反八畝余歩ハ甚敷低地ニシテ土地ハ概ネ臍腴ナルモ洪水ノ際ハ陣屋江川ノ溢水、筑後川ヨリ陣屋江川ヘノ逆流此地区ニ浸入シ数日間停滞シ作物ヲ害シ田畑共ニ二毛作ハ勿論夏作ノ収穫拾ヶ年平均六分作ニ過ギス。剰ヘ田区ノ高低甚シク灌漑上大ニ水利ノ不足ヲ免レス。(中略)地区全部ヲ水濕ノ被害ナキ乾田ニ改良シ優良ナル地力ノ利用ヲ活動セシムルニ至ラシムレバ、生産力ノ増加ヲ来シ労力ヲ軽減セシムルコト少々ニアラザルナリ。」とあります。

千代島中島地区の整理計画書に「本整理地区ハ筑後川沿岸ノ平坦ナル耕地ニシテ南東ハ本川ニ接近シ西北ハ田面ヨリ高サ拾五尺乃至五尺堤敷幅員参拾六尺乃至拾八尺ノ控ヘ堤防ヲ以テ包囲セラレ其惣面積拾九町七反壹畝貮拾四歩ノ内反別六町四反余歩、其内四町参反余歩ハ最モ低田ニシテ本川ノ増水僅々拾五尺余ニシテ此地区ニ浸水シ其滞水容易ニ流出セシムルコト能ハズ。為ニ二毛作ハ勿論一毛作ノ収穫拾ヶ年平均殆ンド五分作ニ過ギス(中略)剰ヘ田区ハ灌漑水路不完全ニシテ不便ヲ極メ、耕作道ハ狭隘迂回シテ車道ニ適セス。(以下略)」とあり、三地区ともに類似した地理的条件をもっているようです。即ちともに筑後川洪水には第一に被害をうける地域であり、田畑山林等の交錯した地域で、床島用水の最末端に位置するため、低地帯でありながら旱害もうけ易い灌水不足地帯であることです。

かかる不適条件下の農村は近世の農業技術の限度ではまず救済できませんでしたので、「粟どころ」といわれた畑作地帯として明治に入ったのでした。明治の農業の進歩は開墾事業に耕地整理にと眼がむけられ、近代技術のもと短日月のうちに美田化しました。筑後川畔の「粟どころ」といわれた畑作中心地帯は明治より大正初年にかけてほとんど水田化した幾多の例があります。

南部地区の整理竣成四十二年、千代島地区(委員長内田政太郎)・千代島中島地区(委員長福田芳太郎)三七町余の整理竣成四十四年。水田の増加生産力の増加というばかりでなく三地区にとっては洪水対策としても整理の成果見るべきものがあります。大城村において明治三十六年より四十五年にかけて水田五四町歩という著しい増加面積を示しているのは明治のシンボルでもあった耕地整理の結果です。


明治初年以降の大城村の耕地面積増加表

年次 合計

明治 9   19   36   42 大正 6    8   14 昭和 5   17   19

   町 306.2 303.7 312.6 364.5 366.0 380.0 381.2 384.4 402.7 400.0

   町 120.4 121.2 116.5  61.5    −    −  64.8  64.8  62.2  62.8

   町 423.0 424.9 429.1 436.0    −    − 446.0 449.2 465.3 463.6


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