農業の発達
近世三〇〇年間にも農業の進歩発達は相当進行したことは、すでにのべたところですが、個立的封鎖的な各藩環境
のもとにある農村として、その進歩発達にも地域的にまちまちで関西にくらべて奥羽方面は著しく後進性をもちまた
同じ藩内にしてもさまざまな発達段階にあったようです。三井郡一帯はその進歩のテンポも早かったことでしょうが
長く祖先伝来の偕習・慣行によった農法が継続されるといった一般的な傾向は否めませんでした。明治時代に至って
も、農具・生産技術ともに近世に引続いた状態であったことは古老の親しく体験したことでしょう。
地租改正事業が一段落を告げるころより、政府をはじめ地方における勧農政策が具体化されるに至りました。特に県
の積極的な勧農策を見逃すことはできません。即ち明治十二年勧業試験場が福岡に設置されたことをきっかけに、農
学校の設置・米麦共進会・種子交換会・養蚕業奨励・品種改良・農業物品評会・農具の改良・螟虫駆除法・肥料の改
良・農談会等長い慣習と祖法墨守の農業経営を打破する警鐘のひびきともいえましょう。つまり西洋の農業技術をと
りいれその進歩改良を目ざすもので農業の近代化の線に立つものというべきです。しかし当時の農村はまだ近代化の
線とおよそ距り遠い後進低滞の状態にあり、たヾわずかに農村の知識階級の地主層にこうした新しい試みをもつもの
もあったくらいで、一般にまだ深い関心をよび起すまでに至りませんでした。また士族授産の目的で帰農した士族の
近代的農業のこころみも多くは失敗に終っています。時期未だ到来せず、先覚者の歩みの悲しみを経なければなりま
せんでしたが、中にはすぐれた成果を挙げたものもあります。
明治二十年代に及ぶと全国的に零細小農が圧倒的に増加して、全農家の七0%近くまでが小作関係に立つ状態に至
り、農村は未曾有の変動に際しました。これは農業の発展上ゆゆしい問題なのですが、政府及地方に於ても農地問題
等については何らの対策もとることなく、積極的な解決策もすすめられず、現状を肯定したうえに農村対策はすすめ
られました。科学五十年史に「過小農技術の官僚による指導」時代とのべているのもこれをさすのです。
福岡県に於て明治二十年農業組合設置手続を発令、各郡ともにその成立を見ましたが、時いまだ熟しなかったのか
数年を経ずして萎靡不振に陥りました。そのため二十七年その善後策として農業組合法に代るに農会法を以てし、農会
の自律性を尊重してその成立を奨励しました。大城村に於ては二十八年大城村農会開設の件が議決され設立の運びとな
りました。初代農会長に武谷和五郎就任、その後長く大城村農会の農業経営上にもたらした啓蒙指導はその足跡大な
るものがあります。村農会は県及び郡農会の最末端の指導機関として村内の農業の改良発達を図るもので明治三十五年
度より実際面に活発なうごきを見せています。 町村農会の事業として下のごときものを掲げています。
一、耕地整理・排水工事奨励の事 五、病虫害駆除予防の事
二、稲種精選の事 六、農事調査の事
三、苗代改良の事 七、模範農場実習生奨励の事
四、重要作物立毛品評会の事
県農会の指導内容として
一、農業教育に関する事 一、農事副産物の発達に関する事
一、農業談話会の事 一、農具改良に関する事
一、害虫予防駆除に関する事 一、農業経済に関する事
一、田区の改良交換に関する事 一、水利排水に関する事
一、農産品評会に関する事 一、種苗肥料に関する事(以下略)
郡農会の事業として
一、 各郡農会に於て模範農場を設置し其郡に於る重要農産物及副産物を
栽培し、 尚蚕業実習所及樹園を設置して模範を示すこと
二、模範農場に実習生を募集し、農事若くは蚕業の実習を為さしむること
三、模範農場に必要な技術者を置く事
四、耕地整理排水工事の模範を示す事
五、農事調査の事
六、種苗配布の事
県より郡、末端としての村農会の統一された機構のもとに、農業の改良進歩に与えた指導及び啓蒙は 実に大なるものがあります。米作は依然として農業生産の中心をなすものですが、 明治二十年代以降の著しい進歩として
(一) 塩水撰の普及
(二) 正條植の普及
(三) 二毛作の増加
(四) 肥料の改良、緑肥栽培、堆肥増製、石灰節用。
(五) 深耕
(六) 害虫予防駆除 等みなそのたまものです。
この間県の勧業試験場は県農事試験場と改められ、農業の改良進歩の先頭にあって幾多の輝かしい 行績をあげ、その影響するところ大なるものがありました。
明治二十年より三十四年に至る間の主なる研究行績をかかげてみますと
一、 塩水選実験(明治二十年)
二、 場内土壌分析( 〃 )
三、 養蚕研究所開設( 〃 )
四、 農談会開始( 〃 )
五、 場外委嘱試験開始( 〃 )
六、 筑後螟虫(三化螟虫)の研究( 〃 二十二年)
七、 稲株切断の案出( 〃 )
八、 農事講習会開始( 〃 二十五年)
九、 稲二化性三化性螟虫の命名( 〃 二十七年)
十、 稲螟虫駆除試験を三井郡(上津荒木)に開始( 〃 二十七年)
十一、緑蚕上簇及同絲質研究( 〃 三十年)
十二、浸種用水研究( 〃 三十一年)
十三、稲螟虫卵蜂の研究( 〃 )
十四、稲葉枯病、稲萎縮病試験開始( 〃 三十四年)
農会設立以前の資料として、明治二十五年度御井・御原・山本三郡組合の歳出予算四四七〇円の 約十一%にあたる、
五二二円が勧業費として組まれ、
事業内容として
(一) 良種及改良農具買入費
(二) 農産物品評及種子交換会
(三) 農談会(春秋二回)
(四) 町村立毛共進会補助
(五) 染藍改良
(六) 幻燈による農事改良の啓蒙 等があげられ、翌二十六年度に至って螟虫駆除補助費が予算化しています。
これによって、農会設立以前の三井(御井・御原・山本)郡に於ける農業の改良進歩についての指導の一端がわかります。
浮塵子駆除法は幕末すでに筑後に一般化していましたがなお明治二十六年秋の浮塵子害は収穫半減という惨状を呈し
ました。螟虫駆除については究明されず、螟虫被害は惨状を呈することも多く凶荒の一因をなしていました。しかし
農民は気候の変化によって発生するものと誤認し、その駆除法についてはさして関心がもたれない状態でした。明治
初年八女郡江口村益田素平は螟虫の予防法を研究し、その駆除法の啓蒙につとめ功績大なるものがあり、明治二十六年
大刀洗村井手忠次郎の螟虫予防についての提唱は大きな反響をもたらし、「螟虫駆除予防法手続」の告示となって具
体化しました。筑後方面の螟虫被害は甚しく、螟虫駆除試験費補助は明治二十六年県議会に於ても重大化しました。
識者によって啓蒙されつつも一般農民にはまだ関心が低かったのか、大城村会に於て「螟虫駆除予防法の施行」が一
たん議決されたのですが、次回に於て否決される憂目に至り、郡吏の出張によって解決した勧業事件(明治二十六年)
もありました。しかし明治二十九年度にいよいよ実施の運びとなり、苗代田の殺虫燈に点火された田園風景はいたると
ころに展開され、田園の夜景はまた美観だったことでしょう。当時の農民の眼にはどう映じたことでしょうか。かっ
て明治十三年のころ三潴郡に於ては農業技術員の螟虫駆除予防法に対して反対の農民騒動が起ったという笑えぬナン
センスさえあったくらいですから。また明治二十九年上津荒木には螟虫駆除予防の模範田も設置されました。浮塵子
駆除予防法及び螟虫駆除予防法は郡に於ても町村に於ても厳重に施行継続されて今日に至りました。しかし螟虫駆除
法違犯者数は後年明治三十七年度に於ても郡内二十六名を算えていますから、農民の啓蒙は長い年月を要したといえまし
ょう。
さきにのべた大城村会における大城村農会開設の議決は明治二十八年度、翌二十九年度村予算にはじめて村歳出額の五
%にあたる勧業費一〇四円が組まれています。これは螟虫駆除予防の実施をさすもので、長い啓蒙時代を経て漸く実
践活動の時代に入ったことを物語っています。大城村農会会則に 「一、本会ハ専ラ農事ノ改良進歩ヲ企畫シ、村内農業
者ノ団結ヲ図リ福利ヲ増進スルヲ以テ目的トス。」とあります。
明治三十七年度の事業内容を見ますと、害虫駆除・試作・農談会・品評会・種子購入・塩水撰・蚕業奨励ですが、以
後継続発展して大正に至っています。苗代田整地・正条植は明治二十四年ごろより漸次行きわたり、農会の指導啓蒙の
結果、大城村に於ては三十八年度に完全普及。籾種塩水撰は明治十八年県試験所に於て発案され奨励のもと、本村に於
ては四十一年度に完全普及。村に於ける苗代品評会・深耕競犁会・立毛品評会等も三十七年度より開催。三十九年度よりの
肥料共同購入は度々の勧誘にもかかわらずその成果をあげていません。かくして明治三十年代に於ける農会の活動は
農業生産分野に食いこんでその血肉となり、日々新なる成果をあげつつここに農業技術の近代化はその時代としては
高い水準に達しました。
この間三井郡に於ては明治二十年度より農産物品評会が例年開催され、三十五年度には三井・浮羽・朝倉三郡聯合品
評会へと発展して、多大の示唆をあたえました。二十九年度郡の臨時歳出として勧業補助費二四四〇円、その内容として
郡農会螟虫駆除試験地補助・螟虫駆除補助・立毛共進会補助・桑苗購入費補助・蚕種業組合補助。
郡農事講習所は二十九年度より例年北野に開設され、農村子弟を対象として農業の改良の指導、特に肥料の研究・重要
農作物の栽培法・病虫害駆除予防法等について実地講習が行われました。こうした気運はやがて郡立三井農学校の創立
へと発展しました。創立は明治四十年度です。
明治三十八年三井郡農会補助交附規程の施行により、農業奨励者旌表・共同苗代田設置費補助・原種田設置費補助、町
村模範田設置費補助・競犁会褒賞費補助・蚕業補助費等の細部にわたる交附規程も実施され、輝かしい成果をあげる
に至りました。
明治四十二年種牡馬交尾規程施行により、在来種の馬匹の品種改良が普及し、畜力の需要に応じるまでに至りました。
全国的にみて明治時代の農業の改良進歩は各方面に顕著な成果をもたらし米麦の反当収穫増加は見るべきものがあ
ります 〜 技術面の進歩についてはさきにのべましたが、これに加うるに品種の改良と肥料の進歩普及はこの収穫増
加の大きな原因というべきです。
米の反当り収穫表 |
石
鎌倉幕府租法 1.000
貞享田租法 1.290
明治6年(地租改正) 1.600
明治16年 1.900
大正11年より昭和 2.568
8年迄12ヶ年平均
|
栽培技術の進歩についで、農具の改良発明も忘れることはできません。工業上の発
明とは比べものにならないとしても、脱フ機には見るべきものがあります。近世の
継続であった千歯から足踏機・電動機・発動機による脱フ過程の進歩は私どもの体
験した生きた歴史です。
改良農具の輸入発明・犂・鍬等の進歩改良、運搬具の改良発明等々。かくて農民一
人の水稲生産高は明治初年に比して二倍以上に増加しています。
品種改良については政府をはじめ地方に於ても特に奨励補助につとめましたが、明
治三十六年ごろから稲麦の人工交雑に着手し、四十三年以来純系淘汰による品種改良は
きわめて顕著な成績を示し、かくて得られた増収率は平均一〇%といわれています。
明治に入っても自給自足の肥料状態でしたが、明治十年ごろより石灰が使用され、二十四年頃より大豆粕がさかん
に使用しはじめられました。しかしその中軸をなすものは堆肥・厩肥・緑肥・糞尿等の自給肥料でしたので、農家の
労働がこの方面に多大に消費されました。肥料給源地としての秣場は依然として重要であったわけで、草刈は農民の
日課でした。 明治三十四年三井郡町村是によりますと、まだ自給肥料中心で化学肥料は「将来の部」に大いに喧伝啓蒙
されているにすぎません。しかし明治四十一年大城村の金肥消費の状況調査によれば、大豆粕、生大豆、油粕類、魚肥
類・過燐酸石灰・硫酸アムモニヤ、配合肥料(人造肥料)が掲げられています。即ち肥料面における革命は明治三十五
〜四十年間にあるものと推定されます。自給肥料の長い歴史をたどった農民にとって、化学肥料の出現はまさに青
天のへきれきともいうべく、農業生産に与えた影響は異常なものといえましょう。化学肥料のうちでも過燐酸石灰は
すでに明治二十一年より工業的生産にいっていますが、二十六年郡の記録に人造肥料(過燐酸石灰)の使用が討議されて
いることからして、肥料の革命も日近きを思わしむるものがあります。
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日本農業の発展・時代区分 湯浅光朝著「科学五十年史」に據る
第一期 1868年(明治1)から1889年(明治22)まで. 原始蓄積時代。
(a)地租改正(1873年・明治6)封建的収奪といわれる地租が国家財政の
中で大きい比重を占めていた。
(b)没落的中小土地所有者の農民騒擾は自由民権運動に発展した。
(c)商品生産が拡大された。輸出産物として農産物の重要性が増した。
(d)農具の輸入、その改良が行われた。
第二期 1890年(明治23)から、1914年(大正3)まで.
過小農技術の官僚による指導。
(a)封建的労働搾取を基底とする過小農経営が支配する。
(b)官僚の力による農業技術の発展と指導。農科大学(明治23)、農事試験(明治26)
に全国六ヶ所、農学校の設置。
(c)綿花輸入関税の撤廃(1896年 明治29) 耕地整理法や農会法の発布(明治32)
(d)1907年(明治40)ごろから農業危機の萌芽が見られる。〜 農村の家内工業がほと
んど消滅し、養蚕、 果樹、蔬菜などの新しい商業的農業が興った。
(e)肥料取締法(明治32公布、明治45改正)。合成アンモニア法の工業化がすすむ
(1913年 大正2)
第三期 1915年(大正4)から1925年(昭和4)まで.
国家権力による地主的土地所有の補強。
(a)1915年(大正4)米価調節調査会ができる。
(b)1918年(大正7)米騒動 〜 これが農業危機の本格的開始点となった。
(c)化学肥料工業が急速に発展した。肥料改良奨励規則の公布(1921年、大正10)。
(d)危機の対策〜「小作制度調査委員会」(大正9)、「小作制度調査」(大正12)、
「小作調停法案」(大正13)などができた。
第四期 1930年(昭和5)から1945年(昭和20)まで.
国家資本主義的農村支配。
(a)1930〜31年、昭和大恐慌。農村の窮乏はその極に達した。
(b)農林省に肥料課が設置された。(昭和5)。国際窒素カルテルと内地硫安業者との内
協定ができた。
(c)「耕種法改善指導要綱」(東北地方凶作防止打合会、1934年、 昭和9)
「農地調整法」(1938年、 昭和13)。
(d)太平洋戦争(1941年、 昭和16)以来、応召、徴用による労働力不足の問題、
共同作業、農機具の改良。
第五期 1946年(昭和21)から現在まで. 農地改革
(a)封建農業の基礎であった小作制度の変革、地主的土地所有制度の廃止 〜
ここに1000年以上も圧迫されつづけてきた農民は解放されることになった。
(b)農業技術の転換。
(c)国土綜合調査および開発計画が進展中である。
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農業の技術的発達
(農商務統計・農林統計及び農業技術協会「明治以降における農業技術の発達」による
農業の技術的発達に関する事項 |
年次 / 反収 |
0.70(石)1.00 1.50 2.00 2.50 |
◎ 「神力」選抜さる(明治10年)
◎ 留井戸式排水法確立
◎ 「神力」西日本・東海に普及し始める
◎ 田区改正時代
◎ フェスカ「農業改良按」出版さる
◎ 「愛国」選抜さる(宮城県)
◎ 市町村制の施行と共に草刈場等の 入会山林町村有となる
◎ 蒸汽ポンプによる揚排水始まる
◎ 太一車(除草機)始まる
◎ 暗渠排水始まる
◎ 「亀の尾」選抜さる
◎ 「坊主」選抜さる
◎ 清国より大豆粕輸入多くなる
(魚肥と交代)
◎ 推進力豪農の不在地主化に伴い行政 機関に移り始める
◎ 「愛国」関東地方に普及す「亀の尾」 東北地方に普及す
◎ 旧耕地整理法制定
◎ 短床犂始まる
◎ 硫安輸入始まる
◎ 過燐酸石灰の使用増大す
◎ 「神力」西日本・東海に普及す。
「坊主」北海道に普及す。
◎ 「銀坊主」選抜さる(富山県)北陸
山陰・朝鮮に普及す
◎ 「旭」選抜さる(京都府)
◎ 耕地整理法制定(「耕地整理」制度
確立
◎ 硫安の国内生産始まる
◎ 農事試験場確立期
◎ 暗渠排水期(特に九州・中国)
◎ 廻転脱穀機普及し始める
◎ 「福坊主」選抜さる(東北に普及)
◎ 「旭」神力に代って西日本・東海に普 及し始める。「陸羽132号」選抜
◎ 農業用石油発動機導入さる
◎ ゴム臼式籾摺機始まる
◎ 動力耕転機入る
◎ 「陸羽132号」亀の尾に代って東北に 普及し始める。
◎ 農業用電動機導入さる
◎ 「愛知旭」選抜(東海・四国に普及)
◎ ゴム臼式籾摺機・畜力除草機始まる
◎ 「千本旭」選抜(愛知県)
◎ 動力脱摺機普及し始める
◎ 「農林1号」選抜(東北・北陸に普及)
◎ 動力脱穀普及し始める
◎ 動力精米機普及し始める
◎ 硫安大豆を凌駕
◎ 「冨国」選抜(北海道に普及)
◎ 「農林6号」選抜(兵庫県)
◎ 動力耕転機岡山県に普及す
◎ 「農林8号」選抜(関東に普及)
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品 種
土地改良
品 種
土地改良
技術指導
品 種
肥 料
土地改良
農機具
土地改良
品 種
品 種
肥 料
技術指導
品 種
土地改良
農機具
肥 料
肥 料
品 種
品 種
品 種
土地改良
肥 料
技術指導
土地改良
農機具
品 種
品 種
農機具
農機具
農機具
品 種
農機具
品 種
農機具
品 種
農機具
品 種
農機具
農機具
肥 料
品 種
品 種
農機具
品 種 |
明治15
16
17
18
19
20
21
22
23
25
26
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29
30
31
32
33
34
35
40
41
42
43
44
大正 3
4
9
10
11
12
13
14
昭和 元
3
4
5
6
7
10
11
12
13
14
15
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