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年次 | 棉作 | 養蚕 | ||
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戸数 | 反別 | 戸数 | 反別 | |
明治14 | 千戸 ― |
町 ― |
千戸 ― |
町 102,179 |
17 | 481 | 96,319 | ― | ― |
20 | 492 | 98,478 | ― | ― |
22 | ― | ― | 1,089 | 217,911 |
25 | 358 | 71,432 | 1,157 | 231,401 |
28 | 277 | 55,541 | 1,330 | 266,164 |
33 | 141 | 28,261 | 1,441 | 299,433 |
38 | 61 | 12.204 | 1,484 | 339,992 |
42 | 20 | 4,006 | 1,450 | 432,969 |
大正 6 | 11 | 2,393 | 1,860 | 485,735 |
8 | 12 | 2,468 | 1,942 | 522,521 |
13 | 9 | 1,845 | 1,890 | 537,388 |
昭和 3 | 3 | 732 | 2,216 | 625,674 |
伝説によれば、筑後藍は日本に於ける染藍の元祖といわれていますが、
藍作は近世より間作として有利で農民の関心の深い商品的作物でした。
筑後玉藍の名は遠く大阪市場を賑したものです。しかし製藍法が阿波藍
に比して拙劣であったので、明治に入っては衰微の一路をたどり、年を
逐うて阿波藍の移入が増加するという傾向にありました。
明治十六年筑後精藍組合を組織し、製藍法改良につとめましたので数年
を経ずして隆盛に赴き、二十六年には県下の重要物産の一つに加えられ明
治三十年代にはその極に至りました。特に三井郡一帯は久留米絣の本場であり、久留米絣の品質維持の為洋藍(ピ―
ア)の混用廃止を警告して正藍使用を継続しましたので、重要な商品的作物として特に関心が注がれました。しかも
大城村一帯は地質地味が最適でしたので数十町歩にわたる栽培がなされました。金島村鹿毛信盛が栽培者に肥料を貸
付け且製藍場を設け自ら指揮監督してさかんに奨励したことも藍栽培の隆盛にむかった一因でありました。
大正時代に入って欧米の安価なアニリン染料が輸入されるに及び藍栽培は急激に凋落しました。また久留米絣は農家
婦女子の家内副業として、さかんに織られ農家の経済をうるおすこと大でした。大城村内にも小規模の織物工場が経
営され十数名の内外の職工をもつものもありました。棉花栽培が凋落して家内工業が奪い去られた当時として最適
の現金収入の道でもあったのです。
櫨も凋落していく作物の一つといえましょう。筑後木蝋は幕末米につぐ重要産物として櫨栽培ははじめ一般農民の 関心をもった作物でしたが、内山伊吉・竹下周直等の品種改良によって急激に筑後一円にひろがり幕末(弘化二年) には藩内櫨実九六〇万斤、蝋丸数一九二〇〇(櫨実五〇〇斤潰し蝋一丸上り八〇斤を一丸とす)大阪長崎への出荷八 〇〇〇丸余。明治初年より蝋価の下落によって栽培凋落の兆候を示しましたので、県では極力櫨濫伐防止につとめま した。しかし明治二十年代に至っても、米につぐ重要産物であり、三十年ごろに至っても全九州の製蝋産額の半を福 岡県が占めるという盛況でした。小郡は製蝋業の中心地で日田蝋と並び立ち、「小郡銀」と称され、筑後金融界に於け る小郡の位置はゆるぎないものでした。明治三十五年ごろより洋蝋(パラピン)の輸入によって櫨栽培はあわただしく 凋落しました。
菜種は水田の裏作に好適でしたので享保文化時代より三井郡一帯に栽培され、筑後種油は関西方面にも輸送されま したが、明治に入ってその需要が減じるにつれて衰えました。幕末から明治初年にかけて船端・千代島方面には小規 模の製油工場が多く、当時としては利潤の多い企業でした。
粟も主食につぐ食料として広い面積に栽培されました。特に耕地整理以前までは一二〇町歩にわたる畑地があったのですから、 粟・大豆・麦といった作物の生産額は相当額にのぼったものでしょう。食生活が向上するにつれて下級食料品たる粟の凋落は当然のことでした。 また大豆も満州・朝鮮からの輸入がさかんになるにつれて、生産額を減じました。棉花・菜種・藍・大豆等の如く外国農業の圧迫をうける工業原料作物は、 一たび貿易がさかんになれば急テンポをもって凋落するものです。そして広い畑地をもつ大城村に時代の要求をもって一路隆盛に赴きつつあった養蚕時代が訪れました。
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