大城村の養蚕業
外国貿易の発展と共に生糸は最も早くからその市場を海外に見出し、輸出品中第一位を占めました。そのため養蚕
業の有利性は全国的に桑園反別の激増をもたらしました。明治二十年の下の表によってもそれは明かです。
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公租其他 |
栽培費 |
収穫代価 |
利 益 |
桑園一反歩
田 一反歩
畑 一反歩
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円
0.891
1.854
0.864
|
円
8.434
6.570
6.578
|
円
14.444
10.116
8.669
|
円
5.119
1.692
1.227
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福岡県に於てもすでに明治十五年養蚕業奨励のため関東に留学研究生を送りその啓蒙につとめましたが、栽培技術
とちがって高度の技術が必要であり、生産資本も容易でなく隆盛に至りませんでした。また投機的な企業をこころみ
て潰産するものもあらわれ一般に低調でした。郡において明治二十九年勧業補助費として臨時歳出五〇〇円を桑苗買入
補助・蚕業組合補助にあてているところからして、この時代に至って農民の養蚕熱が高まってきたことが推測されます。
明治三十二年大城村より桑苗代金補助願(四名)が提出されていますし、村農会の事業に蚕業費が組まれたのは三十七
年です。三十四年郡に蚕業巡回教師の配置をしてその指導にあたり、養蚕講習会が開催されています。蚕業補助費交附
規定の実施は明治四十一年、その内容として復習的共同稚蚕飼育所設置補助・共同殺蛹器新調費補助・蚕病消毒費補助・
桑苗栽培費補助・蚕室改造費補助・蚕種共同購入費補助・模範桑園設置費補助等。かくて養蚕業は本格的な歩みを
もって短日月のうちに盛況にむかいました。
大城村において舷にはじめて共同稚蚕飼育所が開設され、四十五年には村内に養蚕戸数二十、収繭額五〇石を算する
に至りました。繭販売市場は四十四年より開設されて有利な現金収入の道として農民の関心をさらってしまいました。
大正三年の村農会事務報告に「副業トシテノ養蚕業ハ逐年奨励セシタメ着々盛況ニ向ヒツツアリ。」とあります。
大正五年大城村蚕業組合が組織され、組合長に原口左太郎就任、郡蚕業組合の指導のもとに輝かしい歩みをふみだ
しました。桑苗購入六五〇〇〇本、筑後川畔の畑地・村落内の宅地に至るまで一変して桑園と化す日が訪れました。
大正末年には村内桑園二十八町歩に増加し畑地の四〇%以上に及びました。
村蚕業組合の事業内容として次のごとききものが含まれています 〜 消毒薬品蚕具の共同購入・蚕業技術員雇入れ・
桑苗視察並に共同購入・桑苗接木講習会・蚕種家視察・蚕業談話会・婦人団の製糸場視察・屑繭整理講習会・繭品評会・桑園品評会・蚕業雑誌購読。
大正七年 大城村蚕業戸数及掃立枚数一覧
部 落 |
戸 数 |
掃立枚数 |
土 居
舷
乙吉丸
筒 井
千代島 中島
塚 島
仁王丸
赤 司
稲 数
計
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戸
16
17
3
13
16
24
24
9
17
139
|
枚
198
254
31
132
96
348
142
50
68
1,319
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当時大城村の養蚕戸数一三九、明治四十五年の二十戸から七ヶ年間に七倍に増加、
はじめて桑苗代金補助願が提出さ
れた明治三十二年より二十年を経ています。 農民にとって全くの未知の世界のことで
あり、養蚕経営に対する真剣な研究がこの結果となったものでしょう。 春蚕より晩
秋蚕へ年に数回掃立が継続され、過労の連続ではありましたけれど、短期間に収繭
できる有利性が繭相場の好調の波にのって副業としては比類ないものでした。村全
生産価格の十三%を占める大正十四年の収繭価格から十四%を占める昭和三年。
しかも養蚕戸数は全戸数の二十五%にすぎなかったのですから、副業としていかに有
利であったかはのべるまでもありません。
世界的な生糸市場の暴落により養蚕業の有利性がうすれるにつれ、養蚕戸数も昭和
三年の一七〇戸を最頂として年々減少、昭和十一年養蚕戸数が一〇五戸に減少、養蚕
収入は村生産物総額の四%に凋落しました。見わたす限り桑園と化した筑後川畔一
帯はふたたび畑地へと転換していくのでした。 |