筑後川改修と大城村

大城(大木)の地名起源に関係のある山本村観興寺縁起によれば、一夜の豪雨に筑後川の氾濫となり、霊木の漂着を見るということになっていますが、大城の地名起源は筑後川の洪水に深い関聨をもっています。筑後川北畔に位置する大城村は筑後川に臨接する長さ三十三町にわたり、古来筑後川と利害をともにした歴史を辿ってきました。

千代島・塚島・中島の村名も筑後川と浅からぬ関係を物語っています。"嶋"というのは川敷の荒地を開墾したところをよぶもので、その昔これらの村落が筑後川の川敷内であったことが推測されます。筑後川の築堤は大体三〇〇〜三五〇年昔と推定されますから、築堤によって筑後川が一定の川敷に定流するするようになる以前、あるいは大城村一帯が広漠たる川敷であったかもしれません。大城村一帯海抜十〜十三メートルにわたる低地帯あることからもうなづかれます。また各村落の小字名に至っては筑後川に関係ありと察せらるるもの枚挙にいとまなしという夥しさですが、大城内の土居・舷などはその好例です。筑後川に直接しない北部一帯にしてもみな陣屋川流域にあることですから、筑後川との関係を抜きにして大城村を論ずることはできません。

また本村内の筑後川堤防以外の地は四十二町歩、これは村内官有地の五〇%にあたり、大城村全面積の八%にあたります。(明治十九年土木調査) 第二次改修工事によって相当面積が堤外地に編入されましたから、現在ではもっと上回る面積でしょうが、面積の点からも大城村と筑後川との関係の深さがうなづかれます。
今日の如く道路の完備してない時代には久留米と本村を結ぶ交通路として又貢米その他物資の輸送路として、筑後川及び支流陣屋川の価値は実に大きいものでした。明治十年町村地誌草案に「筑後川 川幅百十〜百二十間、深度三〜二十五尺、船筏運通宜シ。」「鳥巣江川 川幅五〜八間、深度二〜七尺、緩流 通船ヨロシク堤防アリ。」とあり、当時の河川状況がうかがえます。また「塚島村 船十三艘(五十石未満荷船九艘、漁船三、渡船一。)」「千代島村 船一艘(五〇石未満荷船。)」「中島村 船一艘(漁船)。」「塚島村 船乗漁猟五戸。」とあります。即ち筑後川に生活手段を求める家もあったわけで、この草案には「大城村」がのっていませんが、大城村関係全体ともなれば船数・漁 猟戸数ももっと上廻ることでしょう。

筑後川航行最大船についての調査(三潴郡誌による)

地名 距離 船脚 石数 摘要
自河口
至若津
里 町
1.30
尺 寸
14.0
 石
3320
満潮の時蒸汽力又は帆を張り漕行く。河口より隈町までの時間25時間。
自若津
至久留米
5.30 4.5 120 潮汐の進退につれ帆を張り或は艪にて漕行く。
自久留米
至善導寺
3.00 2.0 32 帆又は艪
自善導寺
至杷木
7.10 1.5 20 同上
自杷木
至隈町
3.18 1.0 8 舳舵にて漕下す。上りは網曳なり、隈町より河口?の航行時間18時間。

大城済についてはすでにのべましたが「元禄八年御郡中品々寄」に「御井郡大城済ハ御領内ノ小道済 川幅百弐拾間 船一艘。」とあります。明治に至って大城村に赤岩済、塚島村に塚島済が増加しました。堤外の秣場は各村共有の占有をつづけ明治年間まで農業経営上重要な存在でした。床島堰の竣成が本村再生の重要な契機となったことはすでにのべましたが、以上をもってしても筑後川は大城村開発の歴史のうえに大きな糧となったのでした。

しかし大城村一帯の沃土形成のためには、例年の如く洪水の災害をもたらさずにはいない筑後川です。しかも本村一帯に及んで川床の勾配が緩く(1/1000)流速度も遅く(一時間一里余)、典型的な大蛇行をもって還流していくのでした。そのうえ小石原川・巨瀬川・陣屋川の支流の合流点にあたっていますので、ひとたび洪水となれば浸水時間も長く、他地方に比して大きい被害をうけざるを得ませんでした。したがって古来筑後川の洪水は本村にとって一刻も脳裡から離れることはできませんでした。長い経験から特有の洪水対策がなされています〜
例、
(一) 部落は高地 に形成され、屋敷を一際高めにしてある。
(二) 床は高く洪水時及洪水後の処理に有利であること。
(三) 水棚や中天井の設備。
(四) 穀倉は屋敷のうちでも最高所であり浸水を免れるまでの高さに基礎が固められていること。
(五) 天井裏への通路穴を天井に設けていること。
(六) 洪水用の船、筏の設備等 〜 かくして打続く洪水災害にさいなまれつつも、その復旧に又
     水害克服に、治水対策に、祖先以来たゆまぬ努力が続けられました。

筑後川洪水史は大城村の歴史であり、筑後川治水史はとりもなおさず大城村開発史といっても過言ではありません。洪水史はまとまったものがなく断片的ですが、天正二年より慶応二年までの二九五ヶ年間に洪水総水九十三回、うち被害大なるもの五十四回(五年に一回平均)、被害甚大なるもの十六回(十八年に一回)に及んだことが記録されています。中でも元禄十五年・宝永五年の洪水は久留米藩総石高の三分の一以上の損耗を来し、享保五年には耳納山山潮崩壊七十ヶ所に及び山容改まると記録されていますし、幕末嘉永三年の洪水は田畑荒蕪六〇〇〇町歩に及んでいます。

 文政四年より弘化二年に至る二十五年間に一丈以上の洪水一九〇回、年平均七回が算えられています。下の表は田中政義文書を摘録したものですが、当時の浸水状況をうかがうことができます。大城村一帯の村落は浸水を免れぬ最低地に編入されています。「最低地ノ三  仁王丸・中島・千代島。」「最低地の四  大城・乙吉・乙丸・赤司・山須・稲数・塚島」(久留米藩旧租要略による)


御井・御原・山本三郡水入反別一覧
 (調査年月日不明・久留米平井文書)

  洪水・水位(1丈) 1丈5尺 1丈8尺 2丈
御 井
1.225

3.108

3.601

3.696
御 原 135 531 667 737
山 本 72 449 623 674
合 計
1.432

4.088

4.890

5.107
 




古老の悲愴な経験談として語り継がれる明治二十二年七月の洪水は実に古今未曾有といわれ、瀬下の水位二丈・八四五、流水量一秒間に四十九万立方尺(日田郡長谷の流下水力)に達し、局部においてはこれを上廻る水位を示しています。(宮陣三・二丈、大橋三・一丈)



この洪水は昭和二十八年六月の爆発的な洪水と軌を一にしそれに加うるに二十日余にわたる洪水状態を継続していることです。そのため、三井郡一帯の田園の荒廃耕作物の水腐は夥しい被害となりました。次の表はこの洪水の被害状況を示したものです。


(福岡県水害調査委員所報県下八郡被害状況)

  県 下 8 郡
冠水町村 96村水棚破潰 1.486ヶ所
冠水家屋 24.693戸瀦水破潰 23〃
家屋全流 1.262〃山  崩 19〃
家屋半流 849〃破  船 47〃
家屋破損 8.168〃冠水耕地 19.577町
死  亡 52人沈没荒地 3.369〃
負  傷 71〃林樹倒折 48〃
家畜流亡 12頭穀類流亡 58.602石
道路破損 1.758ヶ所
(延長・78.532間)
飢民受飯者 70.326人
(其延長・18.936円)
橋梁破損 1.424ヶ所  
堤防決壊 2.422ヶ所
(延長・37.093間)
  


大城村の被害状況は次にかかげる新規荒地負免租願によって推測できます。当時本村耕地は田畑計約四二五町歩であったのに二三〇町歩の沈没荒地を生じ、翌二十二年度に漸く六十八町歩の免租明をみています。しかし三年、五年、十年と長期の免租願の面積も少からず、その復旧がいかに苦難にみちたものであり生産の癌になったかは想像に余ることです。
当時はまだ機械力の利用なくほとんど人力による復旧であったので限度を越えた労苦と忍苦のうえに辛うじて復旧されていくのでした。明治三十四年六月の洪水も二十二年につぐ被害甚大なものでした。明治以来の荒地免租願・再荒地免租願・新規荒地一筆限帳・水腐新規一筆帳等によって、耕地の荒廃復旧のあとをたどってみると、これはまさしく水とのたたかいともいうべく、大城村開発の歴史はまさにかくの如きものであったでしょう。

明治22年洪水による
新規荒地免租願(大城村)

部 落 合 計
大 城
 22.99

 6.47

 29.50
乙 吉  11.12  0.06  11.18
乙 丸  20.65  0.06  20.71
赤 司  76.19  2.18  78.38
稲 数  39.48  0.19  39.67
仁王丸  28.37  0.04  28.41
塚 島   1.29  0.35   1.64
中 島   3.39  1.92   5.31
千代島  15.16  0  15.16
合 計 218.67 11.29 230.00



免租年期 合 計
10年
8.73

1.27

10.00
9〃 6.40 6.40
8〃 0.06 0.06
7〃 26.54 26.54
6〃 0.62 0.62
5〃 49.77 49.77
4〃 2.23 2.23
3〃 61.08 61.08
2〃 66.74 5.58 72.32
1〃 1.50 1.50
合 計
218.67

11.29

230.00


筑後川の傾斜

玖珠川本流  0.0085 日田―杷木  0.0017 杷木―山田  0.0015 山田―塚島  0.0008 塚島―瀬ノ下 0.0003 瀬ノ下―河口 0.0001

 

筑後川洪水の原因として次のごときものがあげられます。
(一) 水源地の地質 安山岩・砂岩・輝岩等の堅固な火山岩よりなり、滲透力が乏しく、
     したがって流水率が大きいこと。
(二) 上流の河床の急勾配に比して中流下流の勾配が極めて緩く流水量は筑紫平野に
     氾濫する傾向であること。
     流速度一時間五里という上流と流速度一時間一里強という中下流とのバランスがとれない。
(三) 支流の水源地帯の地質も花崗岩・秩父古生層で滲透力が弱く流水率が大きいこと。
(四) 筑後川に関係ある各藩に於て自領を守るために築堤護岸制水を競ったことは、
     かえって洪水害を倍加した結果になった。

したがって筑後川治水改修はこれらの原因を追求して、その解決策をうち立てることが必要であります。以下治水改修の歴史をたどってみましょう。

筑後川の築堤によって一定の川敷に筑後川が定流するようになったということは、流域一帯にとってはまさに劃期的なことであったわけですが、明確な記録がありません。肥前の成富兵庫の筑後治水についてはすでに人の知るところですが、千栗堤防はかれの企画によるものですから、すでに400年昔といえるわけです。しかし久留米藩に於ては、丹羽瀬母の出現までには特記すべきものがありませんので、頼母の活躍時代をまず一つの目やすとされます。潅漑堰方面にも非凡な技術を示し、稲吉・大石堰の開鑿を断行、袋野水道も彼の設計によるものです。また藩内筑後川の制水護岸及び築堤工事の設計監督はほとんど彼によってなされています。頼母荒籠の名とともに彼の治水功績は永久に忘れることはできません。

寛文九年夏大洪水上郡村々竹野郡早田村ナト別テ沈崩ス 此之後所々土居出来。」(石原家記)「慶安二年正月山本郡蜷川村ニ新川ヲ堀リ土居ヲ築ク」(家訓記得集)等の記録からみて、最初から連続堤ができたのではなく、必要に応じて不連続の築堤がなされやがて連続堤に発展したものでしょうか。いずれにしても河川改修以前の旧堤防築堤は丹羽頼母級のすぐれた治水土木家なしにはできないことです。以上からみて三〇〇年昔、どんなに古くみても三五〇年にはならないでしょう。

久留米藩の治水土木に先だって、慶長年間の領主田中吉政の筑後川改鑿計画は善導寺より筑後川の水を引入れ、高良山下を経て三潴郡を貫き山門郡塩塚川に注ぐ大運河計画でしたが、当時の土木治水技術では不可能でした(山門郡誌による)が、久留米洗切より瀬ノ下に至る間の河川改鑿は慶長九年はやくも完成しています。

久留米藩は治水改修に力を注ぎましたが、さきほどのべた丹羽頼母等の出現によって一躍治水改修に関心がもたれはじめました。当時の治水は高水工事・護岸水制、低水工事の三方面にむけられ、殊に水運を重要な運輸機関とした時代の要求として、つねに一定の水深を保持すべく低水工事にも考慮されていたことは今日としても注目すべきことです。

洗切改鑿に続いて、三井郡関係では元禄元年の蜷川新川改鑿、享保十年の鯰久保新川改鑿が竣成しています。

西部・嶋南部を経て鎮西橋河上にと大蛇行をしていた筑後川を、現旧河道へと改鑿したものです。そのため大城村内の耕地が川敷地として数十町歩潰えましたし、嶋名は河南部に位置することになりました。現在に於ても旧河道跡は「川田」と呼ぶ低濕地でその名残をとどめています。具体的な資料が手許にありませんので、改鑿状況がよくわかりませんが総郡出夫により敢行、築堤工事も続けられています。宮司・日比生を経て船端に至る堤防はこの際竣成したものではないでしょうか。

鯰久保ナマズクボ新川改鑿については大城村との関係も千代島・中島に限られて、村内の耕地が川敷地として潰されることなく、むしろ旧河道が耕地化して千代島・中島地区に編入されているくらいです。即ち現在避病院附近より中島・千代島西部を経、北野天満宮南傍から陣屋川旧河道をたどって鳥巣村東にめぐる蛇行を、現河道に改修したのです。石原家記に「宝暦三年御井郡高良鳥巣村の上に田村有、百二三十年まで有之。筑後川第一水当の所にて段々洗崩川下に相成由 尤鯰久保と申所右田村の内の田、只今少々相残 高良鳥巣に属し候由。」とあり、極端な蛇行ゆえに筑後の浸蝕作用甚だしく河畔の村落も姿を没しようとする状態にあったことがうかがわれます。

「鯰久保川掘替一件扣」(有馬文庫史料)によれば、古北木塚河岸の新堤三〇〇間の築堤及び護岸制水によって、鯰久保一帯の浸蝕一方ならず田畑の川成・洗剛少なからず、また北野赤司方面の洪水時の被害も夥しく、その打開策として新川改鑿をこゝろみたもので北野組大荘屋秋山善左衛門の請願提出は享保十年六月、新川敷として潰れる九町余の田畑については北野組で責任をもつことを約し、人夫の件については総郡出夫二七、四四五人(そのうち御井御原両郡七四五三人、北野組七四五二人出夫)・杭木一二〇〇本・明俵七二〇〇俵・縄七四束・山石八十坪〜新川掘窄・堤防除去・古川堰塞にわたる工事を渇水期の十二月を期して敢行、十四日間という短日月を以て竣成しました。 床島堰関係の功労者本荘主計・野村宗之亟等この新川改鑿にも活躍していますが、これらの記録より当時の治水技術を知ることができます。

改鑿後五十年安永年間には旧河道跡、旧川敷跡の開墾もすすんで鯰久保開が有祖地に編入されたことが記録にあります。洪水毎の堆積作用によって旧河道跡も短日月のうちに耕地化したのでしょう。
河川改修・治水技術は元禄・享保をもって最高水準に達し、以降はその継続状態にあったといわれ各流派による治水法を堅持しましたが幕末に至って之に加うるに学理的な計画がなされるに至りました。しかも三井郡よりこの劃期的な研究計画がすすめられたことは忘れることができません。即ち治水家田中政義の功績です。

田中政義は北野組大荘屋、今山村楢原平左衛門の素志をついで筑後川治水・改修の急務をしばしば藩に訴えました。嘉永四年三井郡合川村より三潴郡草場村迄の新川改鑿の計画を樹て、筑後川一〇〇分の一、一〇〇〇分の一の模型をつくり、水理の実験を重ねて、藩に改修計画を提示しましたが、藩に於ては工事莫大のためその実現を見るに至りませんでした。藩は現流路による改修計画に改めるように命じましたので、政義は三ヶ所の放水路開鑿を計画しました。即ち草場より思案橋に至るもの、高野より小森野に至るもの、安武村辰ノ口より同村住吉に至るものです。しかし当時の藩財政ではこの治水工事も成功できませんでした。

明治時代に至り政義は佐々木正蔵・田中新吾(ともに現味坂村)と共に政府に筑後川改修の促進を請願しました。明治十五年県治史料に「筑後川治水害堀割之事〜筑後川水害ノ義ハ旧来名状スベカラザル景況ニテ、治水ノ方法旧藩来積年熱心ノ者アリ 御井郡合川村ヨリ三潴郡草場迄ノ間新川を開鑿シ、暴張ノ際落水ノ便ヲ取ランコトヲ出願ナスニヨリ、主務省上申ノ末土木局ヨリ一応出願実査ノ義指令相成居 然ルニ右水害ニ付テハ、治水費トシテ一昨十三年金壹万圓別途下給ニヨリ、同年度ノ修繕ヲナシ、現今本流域測量中ニシテ、実測ヲ了セバ必ス落水所掘割ニ着手ノ筈ニ有之シ事。」とあることからして、新川改鑿計画は新時代の脚光を浴びていよいよ実現の段階にまで至ったのでした。しかし政治的財政的な当時の情勢ではついにその実現には至りませんでした。

佐々木正藏・田中新吾ともに県会議員となって筑後川、遠賀川の治水工事の県費支弁を唱えてその実現に努め、のち佐々木正藏が衆議院議員として活躍するに及び、国営による淀川・木曽川・筑後川の三大河川の改修工事を可決させました。佐々木の努力がむくいられたわけです。

明治十六年河口より日田郡隈町に至る河川測量がなされ、十七年筑後川を四県土木直轄となし、十九年土木監督所を設置、二十年四月第一次改修工事実施の運びとなり、明治三十六年工費二六七万円をもって完成しました。低水路改修を目的としその内容は河身の拡張・放水路の設置を中心にしたものでした。即ち金島・小森野・天建寺・坂口の四放水路の開鑿です。かって田中政義は放水路改鑿を計画してその実施に至るばかりでしたが、第二次改修工事は田中政義の計画と全く符合しているのです。奇しきえにしというべきです。近代技術の最高水準をもってのぞんだ国営直轄工事に先行すること幾十年、政義のいかに適切なものであったかがわかります。この改修工事の促進をむちうったのは二十二年の大洪水の惨害でした。
二十二年郡市町村長会議に於て洪水救済策として

(一) 筑後川改修区域を拡張すること。
(二) 同期限を短縮すること。
(三) 同工事拡張の経費は其の一半は国庫の支弁を請い、其の一半は県債を起し之を補填すること。
(四) 工事費の増額をなすとともに旧慣土木法改正の端緒を開くこと  等が議決されています。

かくして地元民の一致団結した改修捉運動は実を結んで工事の進行となったのでした。
金島大城放水路の開鑿は明治三十一年竣成しました。放水路敷地となったのは金島村が大部分で大城村はわずかに三町歩余が潰れたのみでした。
かつて寛政二年久留米藩本荘星川の求めにより、ときの農学者佐藤信渕は「筑後川治水論」を講じましたが、
水害の原因として

(一) 大城、小森野その他の蛇行による流量の低滞氾濫をあげてこれを天造といい、
(二) 肥前側の築堤護岸による下流三潴郡一帯の洪水氾濫を人造といっています。

これらの原因を追求して解決策を見出すための努力はつとに識者によって真剣になされて明治に至ったのでした。
田中慶介の「筑後川水害論」によれば解決策として、

(一) 高島・鏡の新河道改鑿
(二) 草場・小森野間
(三) 市上・白口川・黒田草場間の三放水路改鑿  をのべていますが、

明治三十一年の金島大城放水路改鑿と符合しているのも注目すべきことです。

第一次改修工事完成後も明治三十八年・大正三年・大正十年と打続く洪水の惨害から決定的に免れることができませんでした。政府に於ては大正十二年七月第二次改修工事を開始し十五ヶ年をもって竣成の計画でした。高水防禦を目的とした工事で、工費一二〇〇万円をもって、その工事内容は、

(一) 千年村以下河口に至る幹川六十一、九粁及支流十六 粁にわたる改修
(二) 不規則な堤防の改増築
(三) 河状更正、河積拡張
(四) 洪水防禦 
(五) 支流への逆流防止(水門設置)
(六) 金島・小森野・坂口・天建寺放水路の改鑿等。

大正十二年地元大城村に於ては改修工事特別負檐として一五、〇九八円の據出を議決しています。また第二次改修によって川敷地として買収された民有地二五八筆。
第二次改修工事は十五年間計画でしたが、遷延して龍頭蛇尾のたとえの如く、幾多の不備の点を残しつつ竣成の形となったことが、本年六月の大洪水惨害をもたらした一因をなしたのです。

筑後川洪水及治水年表

西紀 年号 洪水状況 治水、潅漑状況
806 大同 元 太宰府管内水旱疾疫、田園荒廃せる為、筑後
国1ヶ年田祖を免ず(類聚国史)
 
938 天慶 元 洪水。日田郡大原神社・広園寺流失。  
1384 至徳 3 洪水。玖珠郡浸水三旬余にわたり、人畜難を
山獄に避く。溺死者800余人。田畑の損害甚し。
 
1601 慶長 6   洗切瀬下新川開鑿。
田中吉政の新川開鑿計画〜善導寺より高良
山下を経て山門郡塩塚川に入る8里余の新川。
  寛永年間   肥前千栗堤防を築く。(成富兵庫)
1627 寛永 4 洪水。洗切瀬下3度浸水。五穀不熟。蝗害。 安武堤防を築く。
1647 正保 4   稲吉堰成る(丹羽頼母)
1652 承応 元   三潴郡草場村荒築成る(丹羽頼母)
1659 万治 2 霖雨洪水。田畑荒廃、飢饉。幕府検察使来る。  
1664 寛文 4   大石長野堰成る(丹羽頼母・五荘屋)
1668 寛文 9 大雨洪水。上五郡堤防筋悉く決潰、被害甚大。  
1673 延宝 元 大雨洪水。沿岸堤防決潰、人馬漂流多し。 袋野水道成る(丹羽頼母)
1676 延宝 4 大洪水。  
1681 天和 元 洪水。飢饉、幕府検察使来る、救米。  
1688 元禄 元   蜷川新川開鑿。
1702 元禄 15 霖雨洪水。春より閏8月迄洪水都而33度に
及び被害甚大、田畑損耗藩内14.3万石。救米。
 
1708 宝永 5 洪水。下浜倉流失。水損耗17.1万石、救米。  
1712 正徳 2   床島堰成る(草野又六・五荘屋)
1720 享保 5 洪水。生葉竹野両郡山津波、田畑荒地9500
町歩、水損耗10.8万石。救米。
 
1723 享保 8   小森野新堤防を築く。
1725 享保 10   鯰久保新川開鑿。
1732 享保 17 洪水。蝗災。飢饉、餓死藩内1.1万余人。幕
府より1.5万両を借る。
 
1751 宝暦 元   幕府筑後川筋普請を命す。
1779 安永 8 大雨洪水。久留米市街、城内浸水、市街軒下迄浸水。  
1790 寛政 2   佐藤信渕の筑後川治水論。
1791 寛政 3 洪水。損耗11.1万石。救米。  
1794 寛政 6   筑後川筋普請成就を幕府に届出ず。
1802 享和 2 洪水。耳納山筋山津波。救米。  
1814 文化 11 洪水。損耗7万俵。救米。  
1816 文化 13   枝光より大善寺に至る新川開鑿出願(楢原平左ェ門)
1838 天保 9 大洪水。城門流失、柳原遊園全壊、久留米市街浸水。  
1850 嘉永 3 大洪水。沿岸田畑荒廃、耳納山に難をのがれ
民野草を食し僅に飢餓を免る、救米。
合川村より草場村に至る新川開鑿出願(田中政義)
治水掛を置く。
1851 嘉永 4 洪水。上五郡被害甚大、救米数度に及ぶ。  
1853 嘉永 6   放水路開鑿計画〜小森野・草場
坂口三放水路(田中政義)
北野村より弓削村に至る排水溝開鑿(田中政義)
1871 明治 4   田中久重の治水建白〜放水路開鑿計画。
1872     5   合川村より草場村に至る新川開鑿計画出願。
(田中政義・田中新吾・佐々木正藏・堤恕一)
1874     7 暴風雨洪水。被害甚大。  
1878     11 洪水。三潴県内損耗8万石。  
1879     12   治水明細書提出(田中政義)
1880     13   新川開鑿出願再提出。
内務省より治水工費1万円下附さる。
治水家佐々木正藏・田中新吾県会議員となる。
1883     16   内務省筑後川実地調査を開始す〜河口より
日田に至る河川測量。
1884     17   筑後川改修計画に着手す。
量水標設置。
1885     18 大洪水、瀬下水位2.5丈。三井郡浸水総反別
5994町歩。
筑後川改修計画成る〜河口より床島に至る
14里間の河身改修。出水防禦。
1886     19   筑後川改修案〜20年より28年に至る9ヶ年
計画による平水の疏通・出水防禦計画。
1887     20   第1次改修工事に入る〜小森野浜にて起工式を挙ぐ
工事中止論騒然たり(県会議長・上座下座両郡佐賀県)
工事促進運動を展開す(佐々木正藏・田中新吾)
1888     21   山県内務大臣視察。
1889     22 大洪水、瀬下水位2.845丈。被害総額557万円。 筑後川改修促進運動筑後一円にみなぎる
1890     23   佐賀県側の改修工事反対運動騒然たり。
治水家佐々木正藏国会議員に当選〜治水会を
結成し治水建議をなす。治水法案制定さる。
1891     24   県下5大河川県費支弁案可決す(田中新吾)
国会に於て木曽・淀・筑後川3河川の改修直轄可決
〜筑後川改修直轄事業となる(佐々木正藏)
1894     27   高水防禦工事拡張計画成る。〜29年より
35年に至る7ヶ年計画。
1896     29   国会に於て改修工事費追加予算可決す。〜
総額270万円。
1900     34 霖雨洪水、瀬下水位2.297丈、三井郡浸水
総反別5409町歩、被害甚大。
 
1903     36   金島、小森野、天建寺、坂口4放水路開鑿成る。
1907     40   第1次改修工事竣工式を挙ぐ。
1921 大正 10 大洪水、瀬下水位2.345丈。  
1923     12   第2次改修工事開始〜15ヶ年計画。
1935 昭和 10 大洪水、瀬下水位7.15米。  
1949     24   金島放水路を本流として開鑿す。
1953     28 大洪水、瀬下水位8.97米。  

備考、洪水は近世に一一一回、明治以降二九三回(瀬下一丈以上)の記録あり、そのうち被害甚大なるもののみ載せ他は略す。治水方面はつとめてこれを載せたり。参考文献名は略す。


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