飢饉

「百姓とごまの油は絞れば絞るほど出るものなり。」の搾取のもとに、あらゆる制限とたびたびの倹約令によって最低限度まで必迫した農民の生活は、実に貧弱な不安定な経済生活でした。そのため凶荒に対しては実に無力でした。

日本凶荒史によれば近世二七〇年間に一五四回の凶荒を算えています。久留米藩に於ては凶荒二十五回、約十一年間に一回の凶荒の襲来となり、飢饉状態に陥ったのは約五回。部分的にはもっと度数も多いことでしょうが、最も悲惨な結果に陥ったこれらの飢饉のなかにも、享保十七年の飢饉は古今未曾有の惨憺たる情景を展開しました。即ち餓死者一一,〇九八人を算し藩内総人口の七%(十四分の一)が十七年より明十八年にかけて飢饉の犠牲者として悲惨な最後をとげています。秋月藩に於ては藩内総人口の十一%二五〇〇人が餓死していますが、辛うじて死には至らなかった窮民の数は夥しいものであったでしょう。私たちは不幸中にも餓死を免れたものの子孫というわけです。

凶荒の原因は旱魃・洪水・虫害・霖雨等によるもので当時の技術水準では決定的な防止は不可能でした。享保十七年の飢饉は田植時の霖雨後、盛夏期の旱魃となり、浮塵子の発生おびたヾしく秋季にいっての天候不順という典型的な凶荒型の天候異変異と大虫害の合流したところの結果で、全くその対策もとり得ませんでした。そのため、収穫皆無の田畑が多く例年三十〜四十万俵を確保した貢租の入庫数は激減して八・三万余俵という実情でした。領内の食糧が底をついたのですから、封鎖的な藩経済では破綻せざるを得ません。隣藩飢うとも我藩飢えざることが善政の象徴であったのですから、各藩自領内の治安を慮って津留めを敢行、久留米藩内の絶対量をもって食生活を維持しなくてはなりません。かくしてさきにのべた如き惨状を呈したのです。そのため米価は四倍に暴騰し、在町は粟・蕎麦・芋大根、山辺は柿・栗・木実、里辺は芹・はぎ菜の類を食して辛うじて生命をながらえました。(石原家記による) 翌享保十八年は郡中に田畑の荒廃夥しく、田植総郡割付夫を出して漸く田植をすますという事態に陥りました。しかし飢にありとはいえ、武士階級に一人の餓死者も出していないところに封建制のからくりが秘められているのでした。    

藩に於てはかかる凶荒飢饉に際しては、度々救米を行い又凶荒に応ずるための圍穀も行われてきたのですけれども、もとより救済できる問題ではありませんでした。科学なき民の悲哀といいますか、適当な虫害対策を知り得なかった当時の水準ではいかんともすべからざることでした。しかも経済的に孤立的封鎖的傾向が強くて、貨幣も凶荒を救うに足らず、万両の黄金も餓民にとってはひっきょう泥土にひとしかったのでした。流通経済下の今日の農村恐慌と大いに異るところです。

農村を決定的に打ちのめすものは第一に凶荒飢饉でした。凶荒の襲来は後期に入ってむしろ度重なり、全国的にも天明・寛政・天保の三大飢饉には数十万の犠牲者さえ出しているくらいです。これは単に天候異変・虫害のみの問題でなく、封建制下のあくなき搾取によって、豊作の余剰が農民の手に残らず、いささかの不作も凶荒飢饉をもたらすという運命にあったことを忘れることはできません。

寛政年間藩内零落村九十四ヶ村の再興が計画され、延享年間豊後日田領の農民が困窮の果吉井へ逃散し来るもの八〇〇余人の事件など、当時の農民の窮乏はすでに常時化していたことがわかります。まして一度飢饉の襲来となれば、いかに惨憺たる地獄絵巻が展開されたかは想像に余りあります。

凶荒飢饉の襲来とともに封建農民を痛めつけたものは天災でした。筑後川の洪水は大城村にとって宿命的なものでのがれられない運命にありましたが、風害も悪疫流行もしばしば農民を窮地におとし入れました。記録に残る大風のうちでも文政十一年の風害は久留米藩内六,三三八戸の倒壊、八七八戸の半壊、死者一〇二名、負傷二一九名を算えました。また明治七年の風害は三潴県内一八,九〇二戸全壊、四,四二九戸半壊、社寺学校二九二棟、死者三九一名、溺死三六七名、負傷四八九名という数にのぼり、救助窮民十一万五千人という惨状を呈しています。建築方面についての封建的な制限はいきおいこうした風害に対する抵抗耐久を弱くして惨状を呈する結果となりました。そのため建築についても台風対策がなされ制限された範囲内で種々の方法が考えられました。防風林なども堀立小屋同然の農家にとってはなくてはならぬものだったのです。

悪疫流行は凶荒天災に際して猖獗をきわめて惨状を呈するのでした。伝染病に対する知識の低かった当時として、集団的な流行をみるのはやむを得ないことでした。馬疫流行の記録も多く、その対策も当時としては不可能でした。安政五年に若津方面から流行しはじめたコレラは当時最も恐怖とされたことで、またヽくまに藩内に猖獗をきわめ、「コロリ」と称され夥しい犠牲者を出しています。コレラは海外との交渉がはじまった幕末より全国的に流行をみたものですが、愴惨を極めて数十万の犠牲者を出しています。天然痘・赤痢・チフス・コレラ等の流行は、さなきだに窮迫した栄養失調的な農民を決定的に打ちのめしました。重税と凶荒・飢餓・天災にさいなまれつつ、辛うじて最低限の動物的な生活を続けた多くの農民の生活、封建的農民の運命の打濕った暗さは想像するだけでも痛ましい限りです。


次 へ
戻 る
ホームへ