くずれていく農村の自給経済

たびたびのべたように封建経済の基礎をなすものは米でした。中世には河北荘八〇〇町などといって領地の面積をもってあらわしていましたが、検地以後近世に至って武士階級が農村から分離して城下町生活をするようになり、土地から完全に切離されて家録一〇〇〇石などというような俸録制をとるようになり、官僚化し常備兵団化してしまいました。農村に於ても高十石の本百姓とか、年貢五石とかいって米単位をもってあらわす米経済に移りました。藩主は現物の米を収納しましたが、すでに城下町の消費生活に入っていますので、貨幣経済に足をふみ入れています。いわば米の経済と金の経済に片足ずつつっこんだ形の生活という矛盾をもっています。時代がたつにつれて都市の商業活動がさかんになり、この二重生活は収支のバランスを破りがちになりました。即ち一定の財源に対しての支出の厖大化は彼らの経済を刻一刻窮地に陥れていくのでした。

貢租の米は久留米に於ても商品化されましたが、大部分は若津港より玄海・瀬戸内をめぐって大阪に廻送され、大阪に於て商品化されました。結局大阪商人の手にゆだねられなければなりませんでしたので、大阪・江戸の米市場の相場は藩主にとっては何よりも切実な問題でした。近世初期に於ては城下町や商業都市の繁栄策をとったのに八十年後の元禄時代にはすでに商業のめざましい発達ひいては商人の勃興によって、経済的には商人の掌握下になってしまいました。都市の消費生活を続ける以上、藩主や武士階級は商業への依存なしには経済生活の維持ができない状態になり、今まで士農工商といって身分的には最下級と賎しめていた商人の勢力がぐっと頭をもたげてきました。幕府のとった参勤交替サンキンコウタイ制度も藩主の経済的負担を重くするばかりで元禄時代を峠にして、幕府及び各藩の財政はその場しのぎの連続という破綻ハタン状態に陥っていきました。即ち時勢はすでに米経済から貨幣経済へと移っていったのです。    

商人の勃興、商業の発達によって後期には城下町のほかに大阪(約四十万人)をはじめ、地方商業都市・港湾都市の発達が著しく、自給自足を主体とした各藩の個立的封鎖的な封建的経済もくずれていくよりほかにありませんでした。

各藩に於ては新田開発を奨励して米産額の増加をはかったり、特産物に専買制をとったり藩財政の緊縮政策をとって、 財政の立直しにつとめましたが、その効果も仲々思うようにあがらず、文化文政時代になりますと、藩の財政は大阪商人の大名貸しによって辛うじてつながるという状態に陥りました。天保年間各藩の廻米四〇〇万石のうち三〇〇万石は、大阪商人より借りた六〇〇〇万両の利息米として引去られたといわれています。

久留米藩に於てもこうした時勢の推移に例外であり得る筈がありません。人別銀の徴税が享保百姓一揆の大きな原因となったのですが、藩財政の苦しさが見えはじめ、宝暦年間以来財政補充のため貢租以外の諸収納の方法をとっています。記録によれば在方へ才覚銀を要求したのは安永四年がはじめてですが、在方調達銀・在町調達銀の徴発は相継いでなされました。宝暦四年の百姓一揆の大きな原因となった人別銀徴税は米価下落によって大阪商人の借銭返済ができないための補充として企畫されたものでした。在町在方よりの献納金も藩財政補充として役立ちました。

(例〜文化年間一〇〇貫及五〇〇〇両を手津屋正助献金) 文化十二年の藩財政予算をみますと年貢三十八万俵のうち二十六万俵が大阪廻米となり、いかなる操作を試みても六一三貫の赤字予算となっています。文政六年参勤交替の旅費が底をついたので在方より大荘屋の才覚によって五〇〇〇両を献金、いそぎ江戸へ持参して帰国の旅費にあてるという事件も起りました。文化文政より調達銀徴発は度数をまし二十回に及んでいますが、文化年間借財の問題で大阪商人の直訴がなされるということもありました。「勝手方(藩財政)差支の儀仰出し」はしばしばなされて藩民の協力を強制しています。勝手方改革案が実行にうつされ、ついで天保十三年家中・在町・寺社一統藩内に大倹令を発しました。大倹令は五ヶ年の期限をもってなされ、藩内緊縮政策のもとに営々窮局打開につとめ、その効果が大きかったのでつヾいて五ヶ年再発令、延期されました。大倹令の内容は藩財政の緊縮と藩民の生活全野にわたっての微に入り細に入った倹約と戒示で、封建的権威をもってその実施の完璧を期しました。発令下の農村生活を想像するだけでも耐えられない重苦しさと暗さが感じられますが、今に古老に語り継がれていることです。

かくて封建制は財政面のみをもってしても、すでにどうにもならない段階に至ったわけです。末期の諸改革も効を奏せず各藩ともに余命いくばくもなしといった運命となり、明治維新へと急転直下時勢は推移していきました。

商業の発達・商人の活動は単に各藩の財政を動揺させたのみでなく、その結果は貢租その他の負担となって農民の肩に転嫁させられていくことになりました。後期になります重税につぐ重税で、農民の窮乏が著しくなり、人口の低滞・農村の衰頽・百姓一揆という現象があらわれ、封建的支配者に対する積極的・消極的な抵抗がいろいろの社会問題となり、支配階級の心膽を寒からしめました。久留米藩に於ては正租収入総額にさしたる変化がありませんから、貢租の面に於ては租法が維持されて重税という傾向など認められません。それを補うものが、雑税その他調達銀等の面で藩民にのしかかってきたことは百姓一揆に於ける百姓の訴願内容によって推測されます。

城下町久留米は初期に於ては都市繁栄策がとられて隆盛に赴きました。元禄年間人口八,七六四人、幕末安政年間人口一一,二〇八人を算していますが、藩内商工業の中心をなしました。久留米の総人口の約三割が武士階級と推定されますので、藩内物産の集散地というのみでなく、これらの武士階級の消費都市でもありました。

「郡ハ農業専一ナルヲ以テ郡中制札場十五ヶ所及準場所十七ヶ所ニハ新規商業ヲ許シ村ハ在来ノ外之ヲ許サス」(久留米小史)「元来郡ハ専農トシテ、在来ノ外商業ヲ新ニ起スヲ許サス。只郡中衛アル場所三拾ニヶ所ニ許シ、他ニ許可ヲ与ヘス。只農ヲ郡ニ勧メ商ヲ市ニ盛ニスルノ旨趣ナリ」(久留米藩租要略)によってわかりますように、米経済の基盤となる農村をあくまでも自給自足の自然経済下にあらしめようとし、「金の経済」化することを極力防止しようとする方針でした。

農村に於て特に商業を許した区域を在町ザイマチ(郷町)と称し、三井郡には本郷・小郡・府中・草野・北野等があり町とよばれていました。在町は農村を相手とした商業区域で、特定の商業が許可されました。草野町市日二・四・八とあり、高三〇四石ですから、町とはいいながら農業経営を主体とした地域であり、商業活動の内容の制限に加えて限定された期日に商業が行われたものと推定されます。(寛政元年筑後上三郡取調手鑑による。)北野天満宮門前町としての北野新町は元禄年間に「北野新」の村名をもって今山村より独立していますから、そのころ特定の商業区域として形成されたものでしょう。

小商人について「村は不具病身者に限り終身之を許し他に許さす」とありますから、農村に商人の居住を禁じ続けたなかにも、こうした特殊な境遇のものには終身許すようになったものでしょう。宝暦二年の藩法令にある「在方小商人制」はこうした傾向が著しくなったので、その影響するところが大なるための対策とも見られます。いずれにしても、幕末に至っては農村に一、二戸の小商人の存在を見ているようです。これは明治五年の壬申戸籍の職業欄でもうかがわれます。在町及び農村の商人の活動こそ、自給経済下にあった農村に大きな変化をもたらしたのです。大体農村に於ては自給自足の生活が維持されて、貨幣をもって購入するものは塩・鋳物類・陶器類・薬品等の限られた範囲のもので、他はほとんど自給していました。また大工・左官・畳師・鍛冶・桶籠師・屋根葺・紺染といった職人も専業のものでなく副業的な存在でした。かれらも農村にあっては百姓として取扱われる農民なのでした。

農民を最低生活に結びつけ、極力商品貨幣経済の侵入を防ごうとしても、流れる潮のごとく強い力をもって商品が貨幣が侵入してきました。昔は藁で髪を結い、びん付油など用いることもなく、板敷、むしろ敷の住居に不足も感じなかったでしょうに、人間の欲求として、元結で髪を結いびん付油もつけたいでしょう。むしろ敷より畳敷がよいにきまっていますから、農民の生活の向上は当然の筈なのですが、武士階級よりすればこれは奢侈増長と見ています。しかし徐々に衣食住全般の生活向上を続けて、商品の魅力というものに農民の関心は高まってきました。農具に新しい千歯・唐箕・唐臼等が使用されるようになり、肥料に魚肥が使用されるとなれば、もはや貨幣なしには生活ができなくなり、在町商人や村の商人等との流通経済にふみ入れざるを得なくなりました。また菜種・藍・紅花・櫨等の商品的作物が栽培されるようになれば尚更のことです。

商品的作物の仲買商とか製油・製蝋・造酒業等は農民と特に関係がふかく重にこれらの商人との間に於て農民の利潤が多く吸収されていくのでした。また窮乏した農民にとって貨幣化できるものは田畑だけしかありませんが、高い利子を拂って借金するものが多くなり、これらの田畑が質流の形で富農や商人的富農や商人の手許に集っていきました。田畑に対するいろいろの制限や禁令も裏面に於ては破られて、働く農民の手から、商業資本・高利貸資本のもとに兼併されていくという、今までかって経験しなかったことが農村一般の現象となりました。寛政享和時代より特に著しい現象となりました。

酒屋・油屋・蝋屋・質屋・紺屋等の屋号をもつ家はこうした過去を物語っているものですが、土地を兼併したこれらの層が地主とよばれるもので、藩主対本百姓という単純な縦の関係を主体とした農村に地主というものが介入してく ることになりました。各藩に於ても中間の地主層をできるだけ抑圧して地主の発生を防止する策をとりましたが、この傾向は幕末より明治にかけて更に著しい現象となって地主の勢力を見逃すことができなくなりました。幕末には全国耕地の二〇〜二五%がすでに小作地化していると見られています。
こうして本百姓から小作百姓・水呑百姓といわれる貧農へ没落するものが増加していく反面、十町歩以上の土地を兼併した地主が出現して、ひとしく本百姓として継続した農民の間に階級的なものの兆候があらわれはじめました。金・金・金 かっては小判一枚の金貨に全村民珍らしがって拝見に来たという自給経済はすでに過去のもので貨幣なくては生活できなくなってきました。

幕末弘化三年すでに大城村に小作米一〇四七俵の地主の出現をみていますから田畑三十町歩に達したことでしょう。慶応二年下作方村見立合扣張(光安文書)によれば数ヶ村にまたがる田畑計二十六・七町、三五六筆にわたっています。一村の田畑は一村の農民によって耕作されるのが普通であった当時に、数ヶ村にわたる小作関係が生じつつあることがわかり、土地兼併の進行状態がうかヾわれます。また近郷の在町商人の土地兼併の兆候も見えてきました。かくして、自給経済の農村に商業資本・高利貸資本の侵入はとどめる術もなく数少い大土地所有の地主と数多い貧農の出現という跛行的な現象が、農村全般にあらわれました。小作人層は貢租と小作米という二重の負担にみじめな境遇に陥らざるを得ませんでした。

農村の墓地は氏族の発展分布を知る手がかりとなるもので、家紋とともに記録のない近世の農村の血縁的集団の一証ともいえましょう。しかし大城村一帯の墓地には元禄年間以前の墓標は極めて少いものです。これは葬送の儀が鄭重に行われるようになり、一般農民の墓標を永久にとどめようとする人情からで、抑圧されたなかにも農民の生活が向上していったことの象徴ともいえるでしょう。寺請制度以来、各寺院には過去帳・減人帳が整備して戸籍との関係が密接でした。元禄以後になると各墓地にも多く、殊に墓標の結構のすぐれたのもあり、ひとしく農民といいながら貧富の差がひどくなってきたことを証するともいえましょう。    


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