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近世の農耕技術は機械の応用はなされず、手工的技術の段階にあり、零細面積に集約的な農耕であったので莫大な 農民の労働量が必要でした。自給自足の肥料作成に加えて役畜の利用も長い慣習のもと、制限されていたので過重な 労働が農民の肩にかかっていました。こうした情勢のもとにあって技術面に相当の進歩がみられます。
灌漑面では初期に踏車の発明をみています。水田を主体とする当時の経営からして大きな収穫です。有馬藩各郡水掛 総反別調に「打水」とあるのは「用水溝ヨリ大溝渠ニ入リ、而シテ大溝渠ヨリ、打桶ナル器具ヲ以テ、田ニ灌漑スル ヲ云フナリ。当今ハ踏車ヲ以テ灌漑ス。」即ちこれで、三潴郡一帯打水灌漑四三〇〇町歩に及んだ当時、踏車の発明 は潅水面に於て革命的なことであったでしょう。久留米藩に於ては三潴郡大莞村の猪口万右衛門の多年の苦心の結果 の発明によるもので、踏車は一名「万右衛車」とも呼ばれました。(猪口万右衛門は安永六年発明す。)三井郡一帯 の打水区域にも直ちに使用されるに至ったことでしょう。又中期ごろから水車による春米法も一般に普及しました。
農耕具として新に備中鍬の発明を見ていますが、その他に特記すべきものなく、型も幼稚であったので牛馬耕も現今 のごとく普及していませんでした。
水田中耕除草には蟹爪(雁爪)の発明があります。「畿内西国に昔より用いざる国なし」と記録にありますけれど、 元禄時代にはまだ久留米藩には発明されていません。 御井郡国分村笠九兵衛(安永九年歿)の蟹爪発明に対して、藩に於ては多大の援助をしています。 水田中耕除草は平鍬によって又手によってなされていたもようですから、蟹爪の発明は見逃すことはできません。
脱穀調製面には千歯・千石トオシ・唐箕・唐臼等が元禄時代に出現して、調製過程の革命がなされました。千歯発明 前には扱箸(コキハシ)とよぶ幼稚な器具によって脱フしていましたので、おびただしい 労働力がこれに消耗されていました。しかし千歯の出現は扱箸に数倍まさる能率ぶりでしたし、木臼にかわる唐臼の出現 によって脱穀は三倍の能率をあげ、選別方面の唐箕・千石トオシ等の発明にしてもその効果は大きなものでした。 貢租納入をま近にひかえ、日の短い秋の収穫作業に対して、これらの新農具の出現はまさに驚異的なことでありました。 農業経営におびただしい労働力が必要であったので、近世初期には多数の家族・下人を抱えた大農的経営がなされていま した一般の傾向もこうした技術の進歩によって分化して小農経営に移ったといわれています。
肥料面については自給自足を主体とし、金肥即ち干鰯・鰯鰊の〆粕・油粕等の使用量が漸次増加して明治に及びま した。「有馬藩旧租要略」によれば、肥料として人糞・石灰・刈草・樹葉・干鰯・油粕・焼酎粕・大豆粕類があげら れています。明治三十六年三井郡町村是によっても、厩肥・堆肥・紫雲英・刈草・人糞尿・屋根萱・油粕等があげられ て、化学肥料はまだ出現していませんので、近世に続く自給自足肥料状況でありました。刈草をそのまヽ水田に敷込 む刈敷及び厩肥・堆肥が近世の支配的な肥料状況でありましたので、山野 の草木の確保こそ地力の維持上抜くべからざる問題でした。 大城村一帯の川敷・堤敷・柳刺等の秣場こそ肥料の面から重要な存在であったわけです。しかしなお不足しましたので 耳納山の芝草刈りもさかんに続けられ、飼馬によって遠路運搬されました。
害虫駆除法としては虫送りが一般に行われ、後期には浮塵子駆除として石灰・鯨油が使用されました。享保十七年の
大凶慌はうてのこ虫と称した浮塵子の発生によるものでしたが、柳河方面に油を注いで駆除につとめたことが記録さ
れていますから(石原家記による)、この時代鯨油の使用が伝って来たのでしょう。害虫駆除法としての鯨油使用を
発見したのは寛文年間遠賀郡水巻村の蔵富吉左衛門ですが、筑前一圓に普及したのは天明年間、続いて近国筑後に伝
わりました。寛政年間には久留米藩内にすでに普及しています。(米府年表)
しかし旧来の虫送りも依然継続され
のちには農村のレクレーション的な傾向をもつに至りました。明治初年まで大城村一帯にも行われていました。筑後
一円に被害の大きかった螟虫駆除については明治に至ってはじめて具体化され、適切な対策はなかったようです。
その他商品的作物の栽培がさかんになるにつれて農産加工的な面に新しい分野がひらけてきました。近世五穀につぐ 重要作物とされた四木(桑・茶・楮・漆)・三草(紅花・藍・麻)は 中世より引続いて大いに増産されました。さき にものべましたが、文化年間北野大荘屋上瀧氏の玉藍製法発明や 天明年間東久留米村岡野左源次の製糖法発明。 また文化年間御原郡小郡町内山伊吉の伊吉櫨・竹野郡亀王組大荘屋竹下周直の松山櫨等の品種改良。幕末に久留米田 中近江は水車機・精米機の改良をしました。大発明家田中近江の幾多の業績のほんの一つにすぎないことですが、影 響するところは小さくありません。
以上が近世三〇〇年間の農業の進歩の概略ですが、明治時代に入ってもほぼ近世の継続であったことは古老の親し く体験したことでしょう。明治二十〜三十年代こそは新時代にふさわしい技術の改良の劃期的な時期にあたります。
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