床島堰と大城村

古来河北の地は地味肥沃ですが、筑後川の河流が甚だ低く、洋々たる水は咫尺の間にありながら得ることができず せっかくの沃土も旱害にあうことが多く荒廃に帰していくという状態でした。
当時の大城村一帯の水田灌漑は小石原 川より引水した松木井手と称する用水より、赤司、山須、稲数、乙丸一帯に灌漑しましたが、用水の末端に位置して いるため水量も乏しく田植も容易でなかったもようです。その他の村落は天水を唯一の水源としていましたので、凶 荒に見舞われ飢饉に陥ることが多く、ために農民流離して各村疲弊の底にあえぐという状態でした。どうかして灌漑 用水を得たいというのが村民の多年の念願でした。

浮羽郡大石堰の完成によってその熱望は一層昂まり、これにならって一大水路を開こうと企てました。けれども工事 の地点床島堰附近は筑後川の川幅が広く急流であり、且筑前・筑後の国境にあること等によって、工事の困難折衝の 煩累などの問題がありますので、その挙に至らず遷延四十余年を過ごしました。
鏡村庄屋高山六右衛門・稲数村庄屋中垣清右衛門・八重亀村庄屋秋山新左衛門・高島村庄屋鹿毛甚左衛門が奮然厥起 して本工事の実現を企画し衆心を鼓舞してついに起工の端をひらくに至りました。宝永七年十月二十一ヶ村関係庄屋 連判の上、絵図・設計・願書を添えて六右衛門はこれを郡奉行本荘主計に提出しました。

設計の大要はつぎの十三ヶ条です。

(一) 筑後川を恵利堰の処にて堰止め、其一部に余水吐を作り、之を舟通しとすること。 (二) 堰の北岸より床島に向けて、一大溝渠を作り河水をこれに導くこと。 (三) 床島に水門を設け、その水門より吸収する水は一条の溝渠を流れて一二〇〇余間を 経過して江戸前に至らしめ之より漸次流を分ち曲折廻流して三十余村の田畝を灌漑 せしむること。(床島に水門を造ることは後に設計変更す。) (四) 新溝開通の暁は古田面積八百余町歩、新田面積七百余町歩を得る見込あること。 (五) 従来は上納米も不足勝なりしが、開鑿後は米大豆差引一ヶ年約七、〇〇〇俵の増米ある     見込あること。 (六) 経費約五十貫目を要すること。 (七) 比経費の五十貫目は藩府より借用し、年賦にて返納すること。 (八) 人夫凡八万余人を要すれども総て之を郡役にすること。 (九) 水道に要する材木乃ち松五六寸角長二間一尺もの五千二百六十三本、楠板長さ二間一尺     幅一尺、厚二寸もの一千六十五枚、六尺杭木二千九百七十本、竹八百六十本、     其他各種の用材は附近の官山より無代拂下を受くること。 (十) 領内の大工のみにて不足するときは他領より雇入るること。 (十一)石材運搬船二十五隻を要すること。 (十二)山石六百坪、割石九百八坪、石俵五万八千二百俵は御井山本両郡内便宜の山より     無償採堀すること。 (十三)諸品買入の為銀十貫目を前借すること。

ときの藩主有馬則維は六右衛門の願書を見て、工事監督(野村宗之丞・草野又六)を遣わし、官林伐採を許可し又銀 子を貸与し、将に着工しようとしましたが、筑前領民代表が十一ヶ村の庄屋連署の抗議書を持って藩に迫りましたの で、之を中止して空しく一ヶ年を過しました。
しかし六右衛門は目附役太田市之丞に内議すること数回、断然起工に決し正徳二年正月二十三日総郡出夫を命じ、河堰 工事、溝掘工事を同時に開始しました。 工事役割は次の如くです。

一、普請奉行         野 村  宗之丞 一、普請総裁判        草 野  又 六 一、御用手伝御用開   鏡村庄屋   (高山) 六右衛門             守部村庄屋  (秋山) 善太郎            一、溝筋諸品裁判    稲数村庄屋  (中垣) 清右衛門             八重亀村庄屋 (秋山) 新左衛門             大城村長百姓  (日比生)長右衛門 一、金銭支拂預役    高島村庄屋  (鹿毛) 甚右衛門              同  依   (鹿毛) 与三右衛門 一、書付絵図      大城村庄屋  (久富) 三左衛門 一、水道大工山方    高良村庄屋  (黒岩) 理左衛門             赤司村庄屋  (池辺) 吉右衛門             陣屋村庄屋  (上滝) 吉兵衛 一、会所諸受拂     千代島庄屋  (後藤) 市右衛門             石崎村庄屋  (稲吉) 彦右衛門 一、鍛治山方      鳥巣村庄屋  (田中) 三郎左衛門             十郎丸村庄屋 (田中) 庄左衛門             塚島村庄屋代 (内野) 惣 助

又六・六右衛門・善太郎等は附近に假寓し、毎日未明より現場に出て三五〇〇人の郡役夫を指揮しました。溝掘工 事は順調に進捗しましたが河堰工事は容易でなく、又六は非常に苦心して数十万の大石・近村の廃碑を集め、別に砂 礫の俵五十万を作り、一挙に沈めて堰塞を成功させようと三,五〇〇の役夫を総動員して目的を果しました。当時巡視 中の家老有馬壹岐をして「前代未聞の壮観。」と絶叫させたといいます。
床島水門は筑前領の抗議により設計変更して江戸前に造ることとし、数条の幹線溝渠数百条の支線小溝の開鑿に着手 しましたが、石堰、溝渠がほぼ成就して河水が漸く新溝に入りました。
しかし恵利堰の石堰は急激の工事で未完成の うえ漏水が多く、新溝の水量が不足しましたので、続いて佐田川を堰込れ水量を加え、江戸水道また完成して四月十 五日堰渠造築工事はおおむね竣成しました。起工よりここに八十余日を経ました。短日月のうちに稀代の大事業でし た。かくして其の歳二十八ヶ村落古田八百余町歩、新田約四百余町歩に灌漑し、新田は反当六、七俵を収穫したといわれ ています。

しかし御井御原十ヶ村もまた配水を懇願することになり、水量不足は瞭然たることですから、藩に於ては、恵利堰 の船通しを閉塞して下流中曽に改鑿、漏水、逸水を防ぐことを計画しました。しかしこの船通し工事は筑前領民のあ らゆる手段を弄した妨害にわざわいされましたが、晝夜兼行その竣成をいそぎました。
正徳三年春総郡出夫の恵利堰 改築に際して、石舟が流失大城村出夫喜一郎外の流死が記録にあります。かくて恵利堰改築につヾいて堰渠完成、漸 次新開田を増加し、御井・御原両郡三十八ヶ村に及ぶ灌漑状況に至りました。

正徳より享保にかけて堰渠・水門その他部分的な修改築は継続され、総郡夫により或は溝下関係によってなされまし たが、特に享保十一年の洪水による江戸水道破損のため、従来の松木井手を廃止して井手関係の守部・八重亀一帯も 床島用水下に統一されるに至りました。

藩よりの拝借銀十三,五貫は享保二十一年返済されました。享保十年より床島用水筋の取締りを北野組大荘屋秋山氏に 命じ、二十一年溝下諸式を上郷・下郷に分ちそれぞれの溝下で用水一切の経営維持につとめました。大城村は大部分が 上郷関係にあり、一部が下郷関係にあります。上郷関係溝下の諸記録によって用水の共同管理の状況がうかがわれま す。水利組合は灌漑関係町村によって継続され以来三〇〇年近き今日に至っています。

元文元年の実測によりますと、床島堰竣成翌年に古田八八七町歩余・新田(畑田)五四〇町余計一、四二七町余。 二十三年後新古田一、九三九町歩に増加し、現在は約三、〇〇〇町歩といわれています。水路総延長七七五三〇間、水道箇 所二八四ヶ所、橋梁五二〇を算しています。
床島用水による新田開発の過程をうかがうに足る資料として、乙丸村をあげます。延享水帳によれば乙丸村の本地高 (久留米藩初期の村高)田方、畑田計十一・七町歩一五六石余より延享年間田方、畑田計十七・五町歩二二六石余。明 治五年二十・七町歩二七九石余。面積に於ても二倍近い増加を示していますが、これはかかって灌漑の充実、既ち床島 用水による灌漑の結果です。
乙丸、赤司方面は床島用水以前に松木井手による灌漑区域でしたから、すでに近世初期に 十一・七町歩の水田の開発がなされていますが、それにしても二倍近い開発を見ています。まして仁王丸・塚島・千代 島・大城一帯のごとく天水を唯一の水源とたのんだ地域ではその開発は全く空前のものであったでしょう。
大城村の 大半の水田が床島用水の灌漑の結果開発されたのです。肥沃な地味地質をもった大城村が水田耕作地帯としてその真 価を発揮するようになったのも床島堰竣成後のことで水田面積・石高の増加は農村の戸数・人口の増加ともいうべく ここに郷土大城村は劃期的な飛躍と発展がもたらされました。

大石堰に続く床島堰の竣成は筑後川流域一帯を筑後の穀倉としてよみがえらせました。さきにかかげた各村石高表に よってもわかるように、大城十ヶ村高総計二、九九九の本地高より明治四年の改正高五、二〇〇石への増加ぶりからも うかがわれます。 近世後半期に入って全国農村の人口はむしろ低滞状態を続けているのに反して大城村一帯は全く逆な現象を呈してい ます。

筑後川沿岸一帯の米作中心地帯は筑後川の築堤によって、はじめて永年利用できる耕地と化したのです。そして水 田耕作維持のため不可欠の条件として人工灌漑及び水防治水の技術が要求され、ここに元禄より享保にかけて水の支 配技術の空前の進歩発達をみています。
かヽる技術の進歩発達なしに大河川の堰切・引水の大事業は到底考えられな いことですから、中世までは大城村一帯の水田耕作などまだ微々たるものであったでしょう。畑作中心の時代ではな かったでしょうか。
技術のめざましい進歩発達と郷土の祖先たちの切実な悲願が合流したところに、床島堰竣成という金字塔が短日月の うちにうち立てられたのです。大城村からは五庄屋の一人である稲数村庄屋中垣C右衛門をはじめ次のごとき民間功 労者を出しています。その功績に対しては満腔の感謝を捧ぐべきで、永遠に郷土の誉として讃えたいものです。

一、稲数村庄屋   贈従五位 中垣C右衛門 法名“釈了圓”   宝暦三年歿。  稲数光福寺に墓あり。 一、大城村庄屋   久富 三左衛門 法名“智渕傳徴居士”   明和五年歿。  筒井に墓あり。 一、赤司村庄屋     池辺吉衛右衛門 法名“照蓮院釈祐哲不退位” 享保十七年歿。 赤司栄恩寺に墓あり。 一、千代島村庄屋    後藤 市右衛門 法名“守眞院廓誉了然居士” 元文三年歿。  中村西方寺に墓あり。 一、大城村長百姓    日比生長右衛門 法名“證明院誠誉暁雲居士” 寛保元年歿。  日比生に墓あり。 一、塚島村庄屋代    内 野 惣 助 法名“釈円心”       享保十七年歿。 塚島に墓あり。 一、赤司村百姓   又 三 郎  不  詳。

明治十九年御井・御原・山本郡長川村作摩の申請により時の福岡県令は草野又六外五名の庄屋に
  追賞しています。

                         御井郡稲数村
                      故   中 垣 C 右 衛 門
生前筑後国御井郡御原郡ノ養水ニ乏シク常ニ旱害ヲ蒙リ地痩セ穀熟ラサルヲ憂ヘ故鹿毛甚左衛門外三名ト
カヲ協セ堅忍不撓以テ百難ヲ凌キ幾多ノ資財ヲ擲チ床島一大堰ヲ竣工セシメタル段公益偉ナリ依テ金参拾
圓追賞候事
明治十九年六月九日
         福岡縣令代理       廣 橋 堅 光

大正五年十一月十五日、陸軍特別大演習に天皇西下あり、六士に対して従五位を贈り、その功績は天下に顕彰され るに至りました。

大正二年築堰二百年に際し関係民を網羅して床島堰彰徳会を組織し、 つヾいて大正十四年十一月二十九日功労者を祭 神として大堰神社鎮座の運びに至りました。


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