大城村の農村としての地理的位置

大城村一帯は筑後川の氾濫による土砂の堆積作用が繰返されて、今日に見るような海抜十〜十三メートルの沖積 層が形成されたのです。旧参謀本部地図をひらいてみますと、海抜十メートルの等高線がどういうふうに本村をめ ぐっているか興味ふかい問題です。

低いはずと思われる筑後川沿岸よりも内部に入った仁王丸・赤司地方が低く、本流河畔の方が高いことがわかります。 これは堆積作用が河畔に近いほどさかんであるためです。大城村一帯に移住し開墾をすすめた祖先は洪水対策という 宿命的な歴史をたどってきました。 そのため比較的洪水の被害の少い高地を求めて村落をつくりました。戸数の少い村落にしてもいくつかの姓氏をもつ 村民によって構成されていることは、村落の開発ということが至難のわざで単に一戸や同族のみの集団では不可能だ ったわけです。姓氏を異にするものは別系統の氏族で、村づくりはこうした諸民族の協力によってはじめて可能だっ たのです。
また協同の必要から洪水対策から村落は集村的な形態をもっているのが大城村一帯の村落形式です。現在 の各村落の位置と洪水時の状況をみれば、祖先の村づくりの計画と構想がうかがえます。そしてまず水田が求められ たことでしょう。しかし中世に於ては大城村一帯水田には恵まれない条件下にありました。ただ天水をたのんで可能 な限り水田を開発したことでしょう。
そして水田経営が最も有利に展開できる方向へ開墾がすヽんで、各村落の凡そ の区劃ができていったことでしょう。古い村落、新しい村落の農業経営上の条件はそれぞれちがっていたことでしょ うが、人工的な灌漑技術が進歩して床島用水竣成後一斉に水田化してからはいつの間にか歴史の古い新しいというこ とのけじめもつかなくなって、現在に見る各村落の状態となったことでしょう。

筑後川の堆積作用によって本村一帯の地質は肥沃な第四期壌土をもっておおわれ、古来久留米藩内において最も肥沃 な地と称され、わけても旧大城村は藩内第一と讃えられました。筑後川から遠ざかるにつれて地味は低くなっていま す。かかる地質地味のため耕作に容易で収穫多く、米作においても品質はやや劣るといいながら反当生産額ははるか に高いものでした。自給自足を主体とした肥料の時代ですから、肥料による増産という点に於ては限度があり、収穫 はかかって地力如何にありました。かかる時代に於ては地味の肥瘠は農業生産上抜くべからざる条件でしたが、この 点大城村一帯最も恵まれた条件を備えていたわけです。

明治八年地租改正時の大城村一帯の状況を示す地価取調帳から幕末の大城村をうかがってみることにしましょう。 次の表は地目別の面積一覧表ですが、水田に比して畑の面積はわりに広大で三対一の割合です。これをもって当時の 農業経営がどんな状況であったか想像がつきます。

明治八〜九年大城村地価取調帳の地目別面積一覧

宅 地 山 林 柳 刺 秣 場
  町
302・7
119・4 30・6 4・6 2・9 2・3 2・7 18・0 1・0

又現在ほとんど姿を消した藪林十八町歩、山林柳刺の五町歩・池堀の七町余歩、秣場一町歩等によって封建時代の村 落耕地をとりまく自然の景観も想像されます。 当時の治水対策では筑後川畔のうっそうたる藪林は防水林として必須条件であったでしょうし、山林柳刺五町歩も当時の技術では 耕地化できず、又耕地化しても悪条件でその経営も継続できなかったでしょう。堤防決壊の結果潰れて池沼化した赤司池外の池沼 面積七町余歩も、当時としては処置なく放置されたことでしょう。

筑後川敷も広大な面積にわたりますが、自給自足生活にとっていろいろの恩恵をもたらしてくれたことでしょう。当時の農業 経営に欠くことのできない採草地(秣場)として、又砂礫川石採取地として、漁猟地として、薪炭採取地として。 また可能な限り開墾しつくされた今日と違って、藪林、山林、池沼、原野等三十余町歩にわたる未開墾地をもった 大城村一帯の自然の景観はもっと緑深いうるおい豊かなものであったことでしょう。四季とりどりの風景が展開され 牧歌的な雰囲気であったことでしょう。狐狸の棲息も人間に身近く、鶴、鴨、雁、雉の渡り鳥が田園、池沼に訪れて 「田鶴タヅさわに鳴く」という古歌の風景も随所に展開されたことでしょう。銃猟のさかんになった明治以来これらの禽 獣は急に影をひそめてしまいました。

 米は貢租として主力を注いで作付されましたが、主食の米も当時の農民にとっては常食できるというものはありま せんでした。まず農民の念頭から離れないのは年貢が皆納できるかどうかという問題でした。
「百姓は考えもなく米 食を飽満することは保健のうえからも悪い、なるべく雑飯をとれ。」と臆面もなくいましめているくらいですが、実際 米飯を飽満させ得るかどうか、一ヶ年の主食も欠乏のまま雑穀の補充で辛うじて食いつなげるといったのが食生活の 真相でした。特に筑後川畔の大城・中島・千代島一帯水田に恵まれず、ほとんど粟を主食としたことは周知のことです。

米の裏作としての麦は農民の貴重な食料として最大限度作付けされましたが、栽培技術の幼稚な時代のこととて、 生産高ははるかに低いものでした。 畑作として麦、粟、陸稲という主食、貢租としての大豆が第一に考慮されて極力増産されました。夏成銀を裏作にか け収穫の三分の一の収納発令は、惣郡反対の声となり享保の百姓一揆となって爆発しました。夏物成の徴収こそは、 わずかの余剰をも搾取して生きることの不安ともなったからです。藩に於ては定銀高二五〇貫と定めて幕末まで継続 しました。

蔬菜類の商品化は現在では極めて高いのですが、当時は自給自足、自家消費ていどが栽培されました。物作の里芋は 主食の補充として大きな存在でした。 自給自足経済の農村とはいえ、現金収入の必要は年を追うて高まり、後半期に於ては商品的作物の栽培が農民の関心 の的となってきました。
特に大城村一帯は菜種、藍、紅花ハナ、櫨等の栽培に適していましたので、ひろく栽培され藍・ 紅花ともに品質優秀といわれました。菜種、藍、紅花、櫨について具体的な生産額等の資料がありませんが、藍は大 城、千代島、中島一帯に間作として栽培できる有利性のため相当面積にわたったことでしょう。藍は玉藍を製して国 内は勿論九州各国へまた遠く大阪市場へ回送され、筑後藍の名を高からしめたものです。紅花は日比生一帯の地質が 適し藍とともに染料として燕脂カタベニを製して輸送しました。「日比生は名所で紅花どころ」と俚謡にのこって いるのは当時のさかんな紅花栽培の状況をうたったのです。

菜種は濕田にも栽培できる利点をもち本村一帯にわたってひろく栽培され、地方の小規模な製油工場によっても製油 されましたが、久留米・博多へも輸送されました。櫨は幕末に至り急激に増植され、大城村一帯藩内に於ても櫨実の 産額の多い地方となりました。
嘉永七年の豊田家記によりますと大城十ヶ村櫨実収穫一七〇五斤とあり旧大城六〇五 斤、大城十ヶ村で前年に比較して七三七斤の増額となっています。即ち久留米藩成産方の奨励補助によって短日月 のうちに生産額の増加となり藩中第一の産物となり筑後蝋の名は全国に称讃されるに至りました。櫨は明地であれば 道傍にも堤防にも原野にも栽培される利点をもっていますが、当時の櫨紅葉風景の美観も想像されます。

その他煙草、綿花等も栽培されましたが、地質に適しなかったのか商品化は低く自給自足の域にあったようです。衣 料の自給は当時農家労働として、特に婦女子が専念しましたが栽培から収穫・紡績・織布という加工過程まで一手に なされたのですからその労は大変でした。綿花は南部方面の畑作に、北部方面の島畑に栽培され開花期は白雪とまが う風景を展開したといいます。

以上のべたような商品的農作物は藩の特産物として奨励された藍、櫨の如く、玉藍、生蝋として全国的に喧伝され 大阪市場を賑わし、筑後米とともに名高いものもありました。
貢租の米作本位の生産の農民も商品的農作物への関心 が高まらずにはいられませんでした。貨幣が農村にもひろく行きわたるようになれば尚更のこと、現金収入の道とし てできるだけ多く栽培しようと努めました。商品的作物の栽培が盛んになるにつれて金肥の使用率が高まってきまし た。金肥使用をもってしても利潤が大きかった結果です。こうして自給自足経済が変換してくるのでした。

生産面についてのべましたが、続いて交通面についてみますと、道路の完備していなかった当時として筑後川・陣 屋川が輸送路として最も利用されました。貢米はじめ日田地方・浮羽地方の物産が筑後川を唯一の輸送路として、帆 船、川船の航行がさかんでした。沿岸の船端、塚島等は当時の船つき場として河港的な存在でしたし、筑後川関係の 船乗漁猟を兼ねる農民もありました。
河川は川筋見廻役の管下にあり、制限された利用範囲ではありましたが、大城 村にとっては一大動脈として利害をともにしました。軍事的な意味からか自由な渡場が許されませんでしたが、大城 (船端)と勿体島を結ぶ大城済は秋月裏街道の一要衝として古来重要な渡船場でした 〜 当時三井郡には神代・宮 陣・大城・片ノ瀬の四渡船場あるのみでした。

当時の本村関係重要道路とては現在の県道がこれにあたり、大城済と本郷を結ぶ秋月裏街道がこれに加えられます。 久留米札辻よりはじまる一里塚は各街道に建てられましたが、本村関係では 札辻〜 府中〜十郎丸〜 赤司〜 本 郷線にのぞみ、赤司堤防上に遺構がのこるのみ。
三井郡の重要街道としては坊ノ津街道(秋月〜本郷〜松崎〜 府中〜 羽犬塚)・ 豊後街道(久留米〜 追分〜 田主丸〜 吉井)・ 筑前街道(久留米〜 松崎〜乙隈)の三街 道があります。当時は輸送は主として駄馬・人足によりその程度のほども推定できます。近国往来札の名によっても わかるように筑前・肥前への自由な往復が許されませんでしたので、旅行の自由な範囲はせいぜい藩内に限られ狭い 小天地に生涯を閉じていったのが農民の大多数でした。

久留米藩令によれば大荘屋組中より一人宛の伊勢参宮許可の条項もあり、遠く他国に旅行することも極めて稀なこと でありましたので、農民の地理的観念の程度もうかがわれます。鎖国日本の唯一の窓長崎のニュースは外国の情勢を 伝えてくれるものとして驚異と新鮮さにあふれていました。幕末になって伊勢参宮の制度の枠がゆるめられ、近畿方 面の見聞談を親しく耳にする機会もふえたことでしょうが、参宮に際し水盃を汲み交わし村はずれ遠くまで見送り、 陰膳に旅の安寧を祈ったというのもさこそと察しられます。
天保年間伊勢参宮船が周防灘で沈没し、大城村関係にも 非業の死をとげた人々がありましたが、鎖国三〇〇年の歴史はすっかり日本人のこころを卑屈に消極的にしてしまい ました。ペリーの来航が日本の隅々まで、「黒船来る」と騒がれ、戦々競々として心胆寒き事件であったこともうなず かれます。

宝暦年間より久留米藩に入った富山薬種商の活動は見逃すことのできないことで、富山藩の殖産事業として全国的に 触手をのばしその成果をあげました。今日でも富山反魂丹の名は耳に親しいものですが、当時の村民は春秋に訪るる 商人の諸国咄がいかに待たれたことでしょう。

封建時代の農民の活動の世界は地理的にも狭小であり全野にわたる諸制度に尚更狭められ、わが故郷を唯一の天地と 甘んじ「血食ケツジキ」即ち家の存続と祭祀にはかない諦aをこめ、祖先代々の田畑に鍬して過労の生涯をかけたのでした。


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