租税制度
藩の財政がかかって貢租のうえにあることですから、貢租関係は民政の中心をなしていました。さきにのべた本百
姓(高請百姓)こそは貢租の負担者として藩主にとって重要な存在でした。本百姓は一定の耕地に結びつけられいろ
いろな禁令制限のために永代百姓の地位を離れることができませんでした。
藩に於ては検地帳にのる耕地の生産高に対して課税しましたが、村単位で決定されました。ちょうど供米制度の今日
の農村に似ています。しかも連帯責任制度をとっていますので、徴税は徹底的に行われ、その完遂はかかって村役人
(荘屋・長百姓等)の責任にありました。
税率は一定していなくて各藩の専制独断にゆだねられて、まちまちでした。全国的にみて初期に於ては四公六民(藩
主四割・耕作者六割)から五公五民、後期にあってはぐっと税率が大きくなって検見取りの過酷な搾取さえみていま
す。久留米藩の貢米は荒凶の年をのぞいて三十〜四十万俵が確保されていますし、天保五年の記録に貢米とあります
から、表高二十一、八万石よりみれば五公五民より重く、内検高三十六万石よりみれば三公七民にあたります。久留米藩で
は元和九年の内検高を基本にして徴税しておりますから公儀の二十一万石と異った基本にたち、課税方法はとても複雑
でした。
そのうち承応元年に検地があり、土免に改められています。即ち地味の肥瘠を閲して地味に応じた貢租率を定め豊凶
を平均して徴税しました。
正徳三年再び検地があり、土免を止めて春免と改められています。春免は定免に異ならず、凶年に際しては検見の上
三分の一上納、三分の二作得と定めています。正徳検地は農民の反対を押切って断行されましたが、一歩を曲尺六尺
五寸方三〇〇歩を一反としましたので検地による石高増加四,八〇〇石といわれています。農民が産土神に参集して検
地反対の示威をなしたというのもうべなるかなです。
延享五年田畑水帳(土地台帳)が全郡村調成され、持主名・字・高・畝・歩・上中下(九等又は五六等)地位を分け
位に応じた高を盛付け、徴税の基礎が確立し、明治に至るまで襲用されました。大城村関係では乙丸・大城両村の延
享水帳が現存しています。
享保十七年全郡村の田畑位附帳が調成され、延享水帳の発展したもので、地位に応じた貢祖(物成)を盛付け、田畑
一反の平均斗代を定めました。
次にかかげるもの平均斗代の最高最低です。
本地田方 (最高米八・八斗、 最低二・一二斗)
本地畑田 (最高米八・五斗、 最低一・九二斗)
本地畑方 (最高大豆四・八斗、 最低〇・三二三八斗)
開田方 (最高米八・六斗、 最低〇・四斗)
開畑田 (最高米八・八斗、 最低〇・六斗)
開畑方 (最高大豆四・八斗、 最低〇・二斗)
以上のような貢租収入法により、さきにかかげたように享保十七年より明治三年迄三十〜四十万俵の収納額となっ
ています。以下租税の内容についてのべましょう。
(一) 正租(年貢〜田租・畑租)
田租は米納、畑租は大豆納が旧例でした。貢租賦課は毎年十一月免極め同時に村々免租帳を大荘屋に下附し、大荘
屋は荘屋に伝え、庄屋は長百姓立会い免算用と唱えて貢租を算出し、農民一人一人に免札を配布しました。生葉・竹
野・山本・御井・御原五郡は船積で、その運賃は村方負担とし米は十二月二十五日を期限としました。貢租米の貯蔵庫
は久留米に三ヶ所ありましたが、遠隔の地は郷場と称した倉庫に収納し、三潴郡一帯は各郷場より若津港倉庫に運送
しました。これは大阪廻船へ渡すためでした。
大城村一帯では北部方面は陣屋川・筑後川を利用し、筑後川沿岸は筑後川を積下しました。当時河川は唯一の輸送路で
あったからです。
未納者処分は正徳四年郷村掟に「年貢皆納なき内は庄屋百庄自分相対借銭等固く返済すべからず」とあり、未納の分
は一時庄屋等にて立替えて、ともかくも期限内には完納さしました。収穫期より貢納期までの農民の多忙察するに余
りありです。
年貢には次のような附課納入があり、貢納額は実際ぐっと増加しました。
(1) 口米(欠米のないように準備米として米・大豆ともに一石につき4升)
(2) 直納米(洪水・土木修繕費・大荘屋荘屋給等)
(3) 縄・空俵・厩藁籾糠・馬土飼料
夏成銀というのは裏作の麦・菜種を対象としたもので、享保十三年三分の一収納三分の二作徳と決定しましたが、
郡中不服を唱えて蜂起享保の一揆の原因となりました。以後金納として継続しました。
(二) 雑税(税率は一定せず金納物納。)
(1)営業税(酒造業はじめ約六十種に及ぶ)
(2)工業税(大工はじめ十種)
(3)物産税(櫨税はじめ六種)
(4)小物成(受山・受野等四種)
(5)漁猟税(筑後川運上はじめ九種〜例「受池運上 御井郡赤司池運上 六十二文五十目収納ス」)
(6)舟船税
(7)雑税(近国往来札はじめ八種)
(三) 高役(国役・高掛物といった労役提供 代納も認められる)
以上が貢租の内容ですが、農民の負担は正租のほかに物産税・小物成・雑税といった面、高役等の労働提供を加え
ると、収税の五〇〜六〇%にも達しました。封建的搾取といわれる所以です。即ち農村行政は全く徴租のためにあり
という感でした。農民が額に汗して働くのは自分自身のためでなく、封建的藩主のために働くのであってしぼられる
だけしぼりとられる運命にありました。
藩主はあらゆる制限禁令をもって農民をしばりつけ、貢租確保の三〇〇年の歴史を、農民は凶荒と飢饉にさらされ乍
ら、かろうじて年々の生産をくりかえし、最低の動物的生活を支え続けました。
「百姓は財の余らぬように不足なきように治ること道なり。」
「ごまの油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり。」
「百姓は愚なるこそよけれ。」
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