|
村 落 | 教師名・職業 | 教師歿年月日 | 寺子の区域 |
---|---|---|---|
船 端 | 平野謙山(医家) 平野宗山(医家) |
明治17.8.4 明治43.7.20 |
舷 |
日比生 | 古賀則勝(僧侶) | ― | 土居・日比生・宮司 |
筒 井 | 平木家種(浪人) | 明治25.4.8 | 筒井・乙吉・乙丸・鏡 |
千代島 | 田口利貞(獣医) | 明治30.10.27 | 千代島・中嶋 |
赤 司 | 池辺半五郎(庄屋) | 赤司 | |
赤 司 | 宮崎武雄(神官) | 赤 司 | |
仁王丸 | 山本萬右衛門 | 慶応元、8.18 | 仁王丸・稲数・塚島・筒井 |
学制令は全く晴天のへきれきともいうべく、全国津々浦々に学校設立のニュースが湧きたちました。大城村関係の小学校設立については「設立明治六年 大城小学校。教員一名 生徒数男九十二名 女十九名 計百十一名 主宰者片岡平四郎。」(三潴県小学校一覧)とあります。日比生柳園塾は私立小学校「柳園学校」と稱して再出発しました。明治十二年学校令発布、続いて十九年小学校令の発布を見ました。小学校令は四ヶ年を義務教育としましたが、土地の状況により三年簡易科を置くを得というm書があります。福岡県では県令をもって町村小学校設置区域及位置を定めました。大城村関係次の三校の設置をみています。
簡易科 大城小学校(大城) 明治六年設立。
同 千代小学校(千代島)
明治十七年設立。
同 赤司小学校(赤司) 明治十二年設立。
高等科は義務教育でなく、當時善導寺村に三井川北・山本各十七ヶ村(八町村組合立)をもって設立、後長く継続して四十二年に解散廃校となりました。大城村の義務教育はそれぞれ設立年月日の異った三簡易科小学校によってなされ後、大城・千代小学校合併。大城・赤司両小学校を存続して長い歴史を経過するということになりました。
「大城小学校沿革史」を参照しつつ大城村小学校教育の概観を表にまとめてみましょう。
年 次 | 大城小学校 | 赤司小学校 |
---|---|---|
明治5 | 学制令領布 | |
6 | 大城小学校創立 | |
12 | 赤司小学校創立(池辺氏附属倉庫を校舎とす) | |
17 | 千代小学校創立 | |
20 | 千代簡易小学校と称す 3学年3学級編成。4学年は 金島校に委嘱。 |
赤司小学校簡易と改称 |
24 | 教育勅語騰本下賜 | 学制改正により修業年限を4ヶ年とす。 |
28 | 大城小学と改称す(大城・千代両校合併)金島校へ 委託せる4学年を収容し4学級編成。 |
|
31 | 新築計画 | 新築計画 |
33 | 分教場假設4学年を収容す。大城尋常小学区を設置 | 赤司尋常小学区設置 |
34 | 大城字丁畑に校舎を新築移転す。 | |
35 | 聖影下賜 | |
36 | 修学年限2ヶ年の補習科を附設す。 | |
40 | 校舎増築 | 赤司字宮後に校舎を新築移転す。聖影下賜 |
41 | 義務教育延長による校舎増築 | 同上 |
43 | 高等科併置 | |
大正2 | 大城尋常小学区廃止 | 赤司尋常小学校廃止 |
3 | 大城・赤司両小学校合併。大城尋常高等小学校と称す。小学校新築計画。赤司元校舎使用。 | |
6 | 赤司元校舎を假教場として使用を延期継続する。 | |
11 | 校舎名義変更、大城第1・第2(赤司)として校舎を維持す。 | |
14 | 大城小学校舎建築準備積立金開始 | |
昭和3 | 現在地に大城小学校新築移転 | |
25 | 講堂新築 |
三井郡一帯にも数多くの尋常・簡易小学校がありましたけれど、多くは一町村一校という線に整理されました。しかし大城村に於ては事情が異るのでした。即ち大城・赤司両地区にそれぞれ出発を異にした三小学校の創立を見、市町村制実施後も両小学校の併合をみることなく、それぞれ三小学校をもって大城村の教育がすすめられたところに、学校問題は後長く村政の重大な問題として、ときには波瀾をよびまた癌として遺されたのでした。村政面に於ける教育の比重は極めて大きく、約三十余年にわたる二小学校竝置、続いて十五年にわたる両校舎継続使用という歩みをもった大城村教育問題も昭和三年現校舎新築に及んで漸く大団圓をとげるということになりました。以下学校教育問題の跡をたどってみましょう。
大城村と統一されてより、明治三十一年大城尋常小学校を一校とする一般村民の輿論は村議会に於ても議決され、 校数のみ大城・赤司二校とし、新築計画がなされました。大城は三十四年、赤司は四十年校舎新築の運びとなりました。これよりさき大城・赤司両学区の設置がなされ、区会條例によって教育全般を両学区に於てそれぞれ負担するということに決定しました。村歳出豫算より教育費が姿を消しているのはこのためですし、教育関係はそれぞれ学区議録にまとめられています。教育行政が村政から独立してなされることは望ましいことといえば望ましいことでしょうがその後学校問題は村政上また村民の感情のうえからも幾度も持上らずにはいませんでした。義務教育六ヶ年延長により六学年編成となるや、善導寺外七ヶ町村組合立の善導寺高等小学校は廃止され、大城尋常小学校に高等科を併置することになりました。明治四十三年のことです。
学年\校名 | 大城小学校 | 赤司小学校 | 合 計 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
学 年 | 児童数 | 学級数 | 児童数 | 学級数 | 児童数 | 学級数 |
1年 | 64人 | 1 | 49人 | 1 | 113人 | 2 |
2〃 | 78 | 2 | 35 | 1 | 113 | 3 |
3〃 | 58 | 1 | 40 | 1 | 98 | 2 |
4〃 | 63 | 1 | 37 | 1 | 100 | 2 |
5〃 | 74 | 2 | 32 | 1 | 106 | 3 |
6〃 | 54 | 1 | 43 | 1 | 97 | 2 |
計 | 440 | 8 | 236 | 6 | 676 | 14 |
学年 | 生徒数 | 学級数 |
---|---|---|
1年 | 30人 | |
2年 | 19人 | |
計 | 49人 | 1 |
明治四十五年大城・赤司両学区廃止、両校合併の件が議会で重要問題としてとりあげられましたが、赤司学区会の不賛同をもって実現しませんでした。その理由として、
|
大正二年郡告示により学区制廃止となるや大城赤司両学区合併問題はいよいよ重大段階に至りました。大城村会に於ては合併問題議決、新校舎改築の計画もなり、
「本村ハ各村落トノ通路殆ド完備シ殊ニ郡道ハ部落ニ沿ヒ縦横ニ貫通シ、交通至便ニシテ生徒ノ通学ニ不便ヲ減スルコトナキヲ以テ、校地ヲ大字大城字北後ニ変更シ村一校ニ併合セハ教育ノ発展上并ニ経済上ニ於テ有利ナルモノト認ム」という村長中垣平太郎の提出書があります。
大正二年度の村議会に於て合併問題について六回にわたる議題を連続し、ついに郡参事会員の仲裁申込みがなされましたが、それに対して次のような回答が議決されています。
|
|
かくして幾多の波瀾をかもしつつ持越された学校合併問題は一村一校のスローガンをここに漸く実現する日が来ました。村財政の合理化のうえに、教育運営の統一化のうえに大きなプラスであったでしょうし、合併問題に空費された多くのマイナスを補って余りある大きな希望がよみがえりました。
|
|
|
---|