大城村の教育

明治五年の学制頒布はつづいて頒布された徴兵令と首尾一貫する性格をもっているものですが、ともに富国強兵策の一環とみられます。その趣意は「一般の人民必すムラに不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す。」とし、従来の学問が身分によって独占された形であった身分差を否定し、四民平等の原則のうえに義務教育制をとったのでした。教育の目的を「身を立てるの財本」「其産を治め業を昌にする」という実学本位に改め、従来の教学的な性格から学問教育は人民の自主自発によって行わるべしという方向へ転換しました。そのため旧来の藩校・家塾・寺子屋教育の一切を廃して公立学校か私立学校(国家の認可を得たもの)に学ぶことを強制しました。全国的に学区制をしいて中央集権的な構想もとられました。しかもこの義務教育制は当時としてはおどろく程敏速に実施されました。

学制頒布の翌年小学校数一二五〇〇(公立八〇〇〇・私立四五〇〇)に及び六年後には就学率四一%というめざましい躍進ぶりでした。福岡県においては明治十八年就学率四八%から三十年六八%に上昇しています。しかし山間僻地にまで普及したのは当局の強圧的な手段がとられたためでした。当時農家の家族労働の一部を負担していたこれらの 児童を強制的に通学させ、その経費を負担させられるということは当時の農民としては思いもよらぬことでしたので、徴兵令とおなじく小学校廃止を叫ぶ農民騒動が各地に起りました。

ふりかって郷土をみますと、明治八年三潴県に於ては「本年文部省第一号布達男女満六年ヨリ満十四年迄小学年令ニ被致候上ハ六才ヨリ十四才十一ヶ月迄ハ小学年令ト心得、無怠惰小学従事可為致父兄タル者心得違無之様可致此旨布達候事」とあり、義務教育に対しての一般の協力は積極的ではなかったようです。まして女児においては「本管内ニ於テハ女児ノ学業ニ就者甚少ク却テ無用ノ舞三味線等ヲ爲習候ヲ親々ノ勤メト心得候者モ有之哉ニ相聞以之外之事ニテ(中略)無用ノ慰ニ歳月ヲ送リ候得ハ他日後悔スルモ其甲斐無之事ニ候。」とあり、不就学は一般の傾向であったようです。実際文盲は現在において男子より女子に多いのをみてもわかります。

封建制下においては一般庶民の生活が極度に貧窮で、教育などという機会にめぐまれず、また支配者も「寄らしむべし、識らしむべからず」といった専制の要求から愚民政策がとられました。そのため農村に文盲のものが多く、わずかに村役人層及び富裕層にかぎられて「読み書きそろばん」またはそれ以上の教養が要求されたくらいでした。一般の人々は文盲なりとてさして痛痒を感じない生活水準にあったのでした。文化文政時代より、農村にも寺子屋、私塾が急増して最盛時全国八〇〇〇を算えました。これは武士階級の文教の振興がひいて一般の学問の発達を促進さした結果によるものです。

久留米藩校修道館の設立は天明五年ですが、後明善堂と改められて再建されました。文化文政時代は一般庶民の生活水準がぐっと上昇した時代で、特に都市の商人を中心とした文化の爛熟時代ともいわれています。こうした時代相は農村にも反映して農民とはいえ生活に必須な実学的な教養が要求されるようになり、農民の要求に応じた教育啓蒙が急に勃興しました。これが寺子屋であり私塾です。日田の咸宜園や豊前の恒遠塾等は門弟九州にまたがり、その教化の及ぶところ藩校の及ぶところではなく、私塾の特色を完全に生かしたものだというべきです。大城村に於ては井上知愚、昆江父子の日比生の柳園塾があり、筑後にかけて著名でしたが、主に農村の村役人、富裕層の子弟がその教化をうけました。明治時代に地方に於て活躍した人士はほとんど柳園門下でした。

寺子屋は名のごとく"読みかきそろばん"の生活に必須な最低限度の実学でしたが、大城村内各所にひらかれ、主に僧侶・医師、神官等有閑の知識層が教師となり学舎は教師宅があてられ門弟の年令についても男女六、七歳に至ると両親に伴われ机・硯・草紙等の用具を取揃え束脩を納めて入門したのが普通でした。

授業時間は必ずしも一定していないが午前七、八時より午後二、三時頃に及び夏期は半日授業でした。授業内容はいずれも習字を第一としそれに伴って読み方を教えその他に読書、珠算を併せ教えたものが多く、その他にわたるものもありました。教科書としてはいわゆる往来本で、「三字経」「実語教」「童子教」「庭訓往来」「孝経」「消息往来」「女今川」等が一般に用いられました。毎月一回手本のさらえがあり記誦を検し春秋二回の席書、正月、七月七日の清書、毎年一回の手ざらい等の方法をもって奨励しました。

寺子屋の維持方法は必ずしも一定していなく、多くは自家の資材によって支え、生徒の謝儀として束脩の外に年始、盆、節季等に際して多少の金品を贈る程度でした。しかし、教師は社会的にもその地位は高く見られ尊敬されましたので、寺子屋教育は比較的に簡易に行われましたがその効果は見逃すことはできません。

大城村関係寺子屋一覧

村 落 教師名・職業 教師歿年月日 寺子の区域
船 端 平野謙山(医家)
平野宗山(医家)
明治17.8.4
明治43.7.20
日比生 古賀則勝(僧侶) 土居・日比生・宮司
筒 井 平木家種(浪人) 明治25.4.8 筒井・乙吉・乙丸・鏡
千代島 田口利貞(獣医) 明治30.10.27 千代島・中嶋
赤 司 池辺半五郎(庄屋)   赤司
赤 司 宮崎武雄(神官)   赤 司
仁王丸 山本萬右衛門 慶応元、8.18 仁王丸・稲数・塚島・筒井

学制令は全く晴天のへきれきともいうべく、全国津々浦々に学校設立のニュースが湧きたちました。大城村関係の小学校設立については「設立明治六年 大城小学校。教員一名 生徒数男九十二名 女十九名 計百十一名 主宰者片岡平四郎。」(三潴県小学校一覧)とあります。日比生柳園塾は私立小学校「柳園学校」と稱して再出発しました。明治十二年学校令発布、続いて十九年小学校令の発布を見ました。小学校令は四ヶ年を義務教育としましたが、土地の状況により三年簡易科を置くを得というm書があります。福岡県では県令をもって町村小学校設置区域及位置を定めました。大城村関係次の三校の設置をみています。

簡易科 大城小学校(大城)   明治六年設立。
 同   千代小学校(千代島)  明治十七年設立。
 同   赤司小学校(赤司)   明治十二年設立。

高等科は義務教育でなく、當時善導寺村に三井川北・山本各十七ヶ村(八町村組合立)をもって設立、後長く継続して四十二年に解散廃校となりました。大城村の義務教育はそれぞれ設立年月日の異った三簡易科小学校によってなされ後、大城・千代小学校合併。大城・赤司両小学校を存続して長い歴史を経過するということになりました。

     「大城小学校沿革史」を参照しつつ大城村小学校教育の概観を表にまとめてみましょう。

年 次 大城小学校 赤司小学校
明治5 学制令領布  
6 大城小学校創立  
12   赤司小学校創立(池辺氏附属倉庫を校舎とす)
17 千代小学校創立  
20 千代簡易小学校と称す 3学年3学級編成。4学年は
金島校に委嘱。
赤司小学校簡易と改称
24 教育勅語騰本下賜 学制改正により修業年限を4ヶ年とす。
28 大城小学と改称す(大城・千代両校合併)金島校へ
委託せる4学年を収容し4学級編成。
 
31 新築計画 新築計画
33 分教場假設4学年を収容す。大城尋常小学区を設置 赤司尋常小学区設置
34 大城字丁畑に校舎を新築移転す。  
35 聖影下賜  
36   修学年限2ヶ年の補習科を附設す。
40 校舎増築 赤司字宮後に校舎を新築移転す。聖影下賜
41 義務教育延長による校舎増築 同上
43 高等科併置  
大正2 大城尋常小学区廃止 赤司尋常小学校廃止
3 大城・赤司両小学校合併。大城尋常高等小学校と称す。小学校新築計画。赤司元校舎使用。
6 赤司元校舎を假教場として使用を延期継続する。
11 校舎名義変更、大城第1・第2(赤司)として校舎を維持す。
14 大城小学校舎建築準備積立金開始
昭和3 現在地に大城小学校新築移転
25 講堂新築

三井郡一帯にも数多くの尋常・簡易小学校がありましたけれど、多くは一町村一校という線に整理されました。しかし大城村に於ては事情が異るのでした。即ち大城・赤司両地区にそれぞれ出発を異にした三小学校の創立を見、市町村制実施後も両小学校の併合をみることなく、それぞれ三小学校をもって大城村の教育がすすめられたところに、学校問題は後長く村政の重大な問題として、ときには波瀾をよびまた癌として遺されたのでした。村政面に於ける教育の比重は極めて大きく、約三十余年にわたる二小学校竝置、続いて十五年にわたる両校舎継続使用という歩みをもった大城村教育問題も昭和三年現校舎新築に及んで漸く大団圓をとげるということになりました。以下学校教育問題の跡をたどってみましょう。

大城村と統一されてより、明治三十一年大城尋常小学校を一校とする一般村民の輿論は村議会に於ても議決され、 校数のみ大城・赤司二校とし、新築計画がなされました。大城は三十四年、赤司は四十年校舎新築の運びとなりました。これよりさき大城・赤司両学区の設置がなされ、区会條例によって教育全般を両学区に於てそれぞれ負担するということに決定しました。村歳出豫算より教育費が姿を消しているのはこのためですし、教育関係はそれぞれ学区議録にまとめられています。教育行政が村政から独立してなされることは望ましいことといえば望ましいことでしょうがその後学校問題は村政上また村民の感情のうえからも幾度も持上らずにはいませんでした。義務教育六ヶ年延長により六学年編成となるや、善導寺外七ヶ町村組合立の善導寺高等小学校は廃止され、大城尋常小学校に高等科を併置することになりました。明治四十三年のことです。

義務教育延長時代の小学校児童学級数調
( 明治43年)

学年\校名 大城小学校 赤司小学校 合 計
学 年 児童数 学級数 児童数 学級数 児童数 学級数
1年 64人 1 49人 1 113人 2
2〃 78 2 35 1 113 3
3〃 58 1 40 1 98 2
4〃 63 1 37 1 100 2
5〃 74 2 32 1 106 3
6〃 54 1 43 1 97 2
440 8 236 6 676 14

高等科併置当初の高等科
生徒学級数調 (明治43年)

学年生徒数学級数
1年30人 
2年19人 
49人1
 

明治四十五年大城・赤司両学区廃止、両校合併の件が議会で重要問題としてとりあげられましたが、赤司学区会の不賛同をもって実現しませんでした。その理由として、

(一)教育令発令とともにそれぞれ両校開校し異なった沿革をもっていること。 (二)両学区住民の風俗習慣の相違。 (三)通学距離の問題として、低地帯の赤司方面の洪水時の通学は困難を極めること。 (四)大堰村中川地区の委託教育の問題の解決が容易でないこと等で、    一村一校のスローガンへの強力な推進が望まれない情勢下にありました。

大正二年郡告示により学区制廃止となるや大城赤司両学区合併問題はいよいよ重大段階に至りました。大城村会に於ては合併問題議決、新校舎改築の計画もなり、
「本村ハ各村落トノ通路殆ド完備シ殊ニ郡道ハ部落ニ沿ヒ縦横ニ貫通シ、交通至便ニシテ生徒ノ通学ニ不便ヲ減スルコトナキヲ以テ、校地ヲ大字大城字北後ニ変更シ村一校ニ併合セハ教育ノ発展上并ニ経済上ニ於テ有利ナルモノト認ム」という村長中垣平太郎の提出書があります。 大正二年度の村議会に於て合併問題について六回にわたる議題を連続し、ついに郡参事会員の仲裁申込みがなされましたが、それに対して次のような回答が議決されています。

(一)大正二年度より費用の許す限り敷地の準備に着手すること。 (二)校舎の引直しは大正三、四年の両年度迄現在の儘据置き大正五年両校共予定地に 移転すること。

大城・赤司両学区財産処分の件もからんで一年余にわたる協議を重ね、合併問題の最後の協議は 村議・労務委員・区長を以てし、立会人として松崎署長・郡学務課長・郡庶務課長臨席のうえ施行されました。その協議結果は

(一)学校合併実施ハ一村ノ平和ヲ期スル為、大正五年度迄見合セ同六年度ニ於テ施行スルコト。 (二)元赤司区ニ於テ設置維持シ来リタル校舎其他ノ財産ヲ管理スル為、財産区設置ノ希望アルヲ 以テ右学校合併ニ際シ校舎等ノ処分ニ故障ヲ生セサラシムルコトトシ、若シ故障ヲ生シタル 場合ハ相当課税ニ依リ合併ヲ断行スルモ異存ナキ旨ノ覚書ヲ仲裁人ニ提出スルノ条件ヲ以テ 右区会ノ設置ヲ承認スルコト。」

かくて長年来合併問題は村議会に又一般輿論として沸騰し続けたことがここに円満解決に至りました。
大正六年度の校舎合併は物価騰貴に伴わぬ米価の低廉は村民の経済的困乏を来したことの為その実現を見るに至らず、赤司元校舎を仮校舎として使用延期することゝなり、この状態は昭和三年まで再使用願の継続という形でもち越され、御大典記念事業として現校舎の新築という運びに至りました。校舎坪数五一八坪、工費三五、三二四円。

かくして幾多の波瀾をかもしつつ持越された学校合併問題は一村一校のスローガンをここに漸く実現する日が来ました。村財政の合理化のうえに、教育運営の統一化のうえに大きなプラスであったでしょうし、合併問題に空費された多くのマイナスを補って余りある大きな希望がよみがえりました。


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