二、大正、昭和時代の大城村

村政の概観

市町村政実施よりすでに二十五年、自治制の整備期より充実期へとすすんだ大城村にとって、大正時代はその発展として順調なあゆみが続けられました。幾度かの改正によって地方自治体の自治は拡大され、特に大正時代は第一次世界大戦後のデモクラシー運動を背景に、再度の地方制度改革によって選挙権の財産的制限がはずされていったし、大正十五年の国税・地方税改正によって地方財政も整備されました。かかる情勢下に大城村にあっては、村政上に特記すべき事業はありません。

幾多の波瀾と問題を投げた学校合併問題も大正三年解決し、小学校新築を残すのみとなっています。大正七年大城小学校新築計画がなされましたが、村経済の現状よりして不可能でしたので、大城を第一とし赤司を第二校舎として両校舎使用を続けることになり昭和三年新校舎建築の日を迎えました。勧業・土木・衛生面についても大体明治時代の継承で、現状維持状態にあることは予算面からもうかがえます。大城村会議録より大正昭和時代の概略をひろってみましょう。

大正元年赤岩済上流に架橋計画がなされ、地元としての架橋費寄附の件が議決されていますが、大正五年架橋竣成鎮西橋と命名されました。三井郡の河北・河南を繋ぐ重要な交通路として、神代・宮陣両橋とも産業交通上多大の便益を与えることになりました。工費約一万四千円。大正二年消防組が公設され、時代の要求にふさわしい喞筒及その附属品が設置されました。設備費約八〇〇円。

大正五年三井電気軌道株式会社による軌道敷設工事の件が議題になっていますが、同年村内に電燈の新設をみています。ほの暗い行燈の生活から文明開化のランプ生活へ、しかしランプもすでに過去の遺物となってしまいました。しかし大城村が完全燈火までにはなお月日があったようです。
三井電気軌道が北野から甘木まで延長開通したのは大正十年、鉄道国有化は明治三十九〜四十年にかけてのことでしたが、この時代より地方に軽便鉄道企業が急激に勃興してきました。三十七年改鑿された日田街道にはやがて筑後軌道が蜒々と十幾里を躯走しましたし、三井電気軌道福島線開通は大正三年。

大正十二年第二次筑後川改修工事に入るや、地元の特別寄附負担費として一五、〇九八円が計上さ れ、十ヶ年の長期支出によることに議決をみています。河身の拡張・築堤・放水路の本流改鑿こそ第二次改修工事の中心をなすもので、関係の特に深い本村に於てはその完成に至るまで重大な関心が向けられました。
河敷地となった二五三筆の耕地その他の買上が行われ現在にみる筑後川の川構えとなりました。放水路の本流他によって大城村は河南・河北部に二分されました。大正八年公民学校の創設を見、続いて町村図書館準則によって大正九年村立図書館が発足しました。予算八十円があてられました。
大正十年の洪水被害は鎮西橋流失、村内荒地免租五〇四筆が申請され、水害救助人員一〇八人。
大正十五年大城青年訓練所の設置をみましたが、翌昭和二年廃止されました。村議録にみる大正時代は平穏無事なあゆみです。区長改選の問題が例年とりあげられているくらいです。

昭和に入って三年小学校新築に続き四年の校舎増築は予算一九、九〇三円。第二次改修工事に於ては、金島放水路の本流としての開鑿工事が進捗しました。七年地租法改正により地租名寄帳の改帳がなされ、八年に陣屋川改修工事中止方要望の件が議題となり、又関係部落あげて反対運動に入りましたが、工事は反対を押切って計画通り敢行されました。今見る新陣屋川です。同年農村振興道路工事が完成しました。塚島・仁王丸・稲数線で工費二〇〇〇円。当該地方にとっては農業上多大の便益をうけるようになりました。村役場移転は九年に議会において可決。


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