産業組合
軍事的半封建的性格をもつ日本の資本主義の畸形的な発展過程に、そのぎせいとなって窮乏と没落の道をたどらざるを得なかった農村についてはすでにのべたところですが、この傾向は依然として大正、昭和時代にも継続しました。
日清戦争後すでに農業は工業従属的位置になっていますが、農村の窮乏没落を如実に物語るものは農家負債の増加です。明治四十四年の大蔵省の農家負債調査によれば負債総額七億五千万円に及び、そのうち約三六%は私人の貸付純粋の高利貸とみるべき金融業の貸付約二〇%、銀行貸付約二七%、特殊農業金融機関(日本勧業銀行・府県農工銀行・信用組合等)は約一三%にしかすぎません。しかもその金利についてみますと負債総額の六五%が一割以上の高利であり、借入人負の八〇%以上が高利負債です。明治四十四年といえば日本の資本主義発展が爛熟期に達した時代ですが、かゝる時代に於てもなお農村の金融がこうした特殊性をもっていたことに驚かされます。
昭和五年の農林省の負債調査によりますと、総額四三億(一戸平均七八三円)と推定されますが、私人貸付は約一〇%弱、金融業四%、銀行貸付一三%、特殊銀行二〇%、信用組合一七%という割合で、一般的傾向として農村負債は個人的負債から銀行負債に、高利債から低利債へ推移しつつあることがわかります。
さて郷土の金融面をのぞいてみますと、私人貸付、頼母子講等が封建時代より継続していました。明治時代に入って活躍したのは高利貸的地主でしたが、地主の急激な土地兼併・寄生地主化はその結果ともいえましょう。
地方銀行の設立は明治十五年の金島銀行(頭取鹿毛崎太郎)を最も早く見ますが、三十年代から大正初年にかけて草野・小郡・本郷・北野・善導寺・大橋・山本方面に地方地主を中心とした私立銀行の設立増加を見ます。大城村には明治三十三年船端に筑水銀行(頭取三原廣)の設立をみます。これらの地方銀行は不況に際し経営困難となり整理されるか、有力銀行に併合される運命にありました。農村金融は地主を中心として発達しましたので、地方銀行の発達によって農村の資金が他方面へ逃散する結果ともなりました。
明治三十年代以降、土地改良事業(耕地整理・潅排水改良等)がさかんになり、また農業技術の発達の結果、機械器具、農舎、家畜、肥料等の使用が大となるにつれて生産資本を必要とし、土地購入資金等の増大からも農業資金の需要は急激に増大しました。農業の発達のために高利債からの開放のために、国家によって企図されたのが勧業銀行はじめ一聨の特殊銀行でした。しかし農村の金融機関としてもっとも重要性をもつものは信用組合でした。
信用組合は特殊銀行と同じくその体制を明治三十年代に整えています。即ち明治二十四年平田東助等の起草になる信用組合法案が議会に提出されたのをきっかけにして産業組合法発布は明治三十三年です。翌三十四年筑後地区に千年・宮陣両信用組合が設立されたことが大きな示唆となって年を逐って設立の気運を高めました。
比較的富裕な町村にまず発達し、産業組合中央会福岡支部(明治四十一年設立)の指導奨励によって設立は年を逐って増加し、大正五年県下二五四組合の設立をみます。大城村に産業組合の設立を見るのもこの時代です。即ち大正六年申請許可された赤司・稲数・乙丸・乙吉地区の赤司信用購買組合です。その目的に「組合員ニ産業ニ必要ナル資金ヲ貸付シ、貯金ノ便宜ヲ得セシメ並ニ農事及生計ニ必要ナル物品ヲ購買シテ之ヲ組合員ニ売却スルコト」(定款)とあります。 大正七年度の事業報告に、
「 (一)貯金五萬円目標額達成計画
(二)農業資金貸付(肥料購入資金)
(三)購買事業(肥料・農具及一般日用品を取扱い村内物価の標準を指示して地方商人の暴利を防止し 無用の浪費・時間の節約に努力す。)」
とありますが、第一次世界大戦当時の農村好況とともに発足した赤司信用購買組合の第一年度は順調な歩みであったことが推測されます。初期の信用組合の地主性がよく指摘されることからも地主勢力の強い北部地区の信用組合は堅実な経営であったのでしょう。戦後の不況のおとずれは、設立後日なお浅い大正九年度に米価低落して組合経営は異常な難関に遭遇していますが、
翌十年には販売組合、倉庫事業の拡張をみていますから、経営がいかに堅実に合理的になされたかは推測できます。慢性的な低迷を続ける農村不況のなかにあって、農村経済の防波堤として農業発達の要石となって産業組合の果した効果は偉大なものであったというべきです。大正十四年度より大城信用組合(大正十三年設立)と合併し、ここに大城信用購買販売組合として発展、再出発することになりました。
昭和に入って金融界は恐慌状態を呈し、ひいて農産物価格の暴落は言語に絶し農村財源は涸渇して窮乏と没落にあえぐありさまとなりました。産業組合はまさに試練の年を迎えましたが、庶民金融の機能を完全に発揮すべく相互扶助の精神を発揮して事に処した事が事業報告によってうかがわれます。昭和四、五年米価低落底をつき生産費を割る状況で、稀有の豊作にもかかわらず恐慌状態が継続しました。 事業報告に「米麦ノ恐怖的価格」とあるのも、さこそと察しられます。「収利力乏シキ農村経済ハ極度ニ必迫セリ。貸出増加、貯金漸減誠ニ憂フベキ状態ニアリ。」とあり、かかる農村恐慌をいかに克服していくか、その推進力となって組合は堅実安固主義をかかげています。昭和七年に至り景気復興の兆候を見るに至り組合の事業面は著しい活発さを加えました。土地購入費としての貸出の増加、貯金の急激な増加、農業倉庫入庫販売数量二万俵突破、利用部の開設等にその一端がうかがわれます。昭和八年度は産業組合拡張五ヶ年計画の第一年度として各種事業の目標突破にあたっています。
この間昭和三年、創立十周年記念事業として「大城信用組合農事研究会」が計画され、
「 (一)肥料ノ共同購入
(二)肥料ノ知識涵養及普及
(三)肥料及土壌ノ化学的研究及実地試験
(四)品種改良
(五)堆肥舎建設奨励〜五ヶ年低利年賦償還ニヨル資金ノ融通
(六)農産物ノ増収」
を目的としています。その実行方法として農事試験所・農会・農事小組合
・其他団体との提携により強力に推進しようという意図が汲みとれます。稲作増収・肥料試験・採種田試作設計書及び裏作試作設計書等の文書によっても、農村恐慌打開への道として、産業組合が生産面の指導推進力として活発な歩みをたどったかゞうかがわれます。
かくて昭和十年代には三井郡産業組合の代表的な存在として産業組合婦人会・産業組合青年連盟等の後援機関があり、諸種の社会施設も充実して共存共栄の実をあげるに至りました。
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