農民組合

明治以来農業の発達の癌として幾多の問題をはらんできた小作制度のことについては、すでにのべたところですが中小農の窮乏没落によって大正時代に入っても小作地は増加しつゞけ、大正八年全耕地の四六%(田においては五一、六%、畑においては四〇、五%)という最大面積に達し、全農家の約六九%が小作関係の下にあるという状態に達しました。小作料の高額なことは外国に例の少いことですが、これは封建的小作料が引継がれたというばかりでなく人口増加に伴う耕地不足、土地価格の騰貴、地主小作人の変更等によって明治以来大正中期までは一般的に小作料は騰貴の傾向にありました。

明治末期より著しくなった労働争議、労働運動の発展に刺戟され、特に大正八年の米騒動は全国的な展開を示し、ここに農村に於ける小作争議の増加となって将来しました。第一次世界大戦後の不況が襲うや大正十年度には小作争議は前年度の四倍以上に増加しました。戦時中の好況は農産物の急騰を見、投資熱にあふられて工業方面へ投資した地主階級も不況とともに大打撃をうけ、この経済変動の打開策として小作料増徴をこころみたことが、まず朝倉地方の小作争議となって騒然たるものがありました。続いて浮羽・三井にも拡大しました。小作料減額を要求として掲げたのでした。しかし地主のために立入禁止・土地差押・土地返還などの圧迫にあい、耕作権の確立していなかった当時としていかんともすべからざるものがありました。
大正十一年賀川豊彦・杉山元治郎等により神戸に於て設立された日本農民組合は日本に於ける最初の農民組合ですが人道主義的な目標の運動も次第に階級斗争主義にすすみ量的にもまた発展しました。大正十五年には支部数一〇〇〇余、組合員約八万を算えるに至りました。

大正十四年日本最初の無産政党「農民労働党」が日本農民組合を中心に結成されましたが、結党式後二時間にして解散を命ぜられましたが、その綱領に

「一、我等ハ我国ノ国情ニ即シ、無産階級ノ政治的、経済的、社会的解放ヲ期ス。
 一、我等ハ合法的手段ニヨリ不公平ナル土地・生産分配ニ関スル制度ノ改革ヲ期ス。」 とあります。

大正十四年の凶作をきっかけに大城村一帯に小作料減額を要求する小作争議が起りましたが日本農民組合傘下にある 組合の争議でした。小作争議は南部方面・西部方面・塚島仁王丸方面を中心としていますが、不在地主の土地所有関係の地域であることに注目されます。在村地主の勢力の強い北部方面には拡大されていないところに農村社会の保守性がうかがわれます。かくて十五年小作料減額(反当二〜三斗平均)の要求をかちとることができましたが、団結の力によって自己の生存権の確立のために立ちむかったこの運動に農民の進歩性を見出すことができると思います。


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