商工会

農村の自給経済も近世後期にはすでに崩壊の兆候を示していましたが、明治時代に入って貨幣制度が確立し、国家財政はいうに及ばず、農村経済の末に至るまで、ことごとく貨幣をもって運営されることになり、商人の抬頭はめざましいものがありました。
地租の金納化がまず第一に農村を貨幣経済に突入させましたが、続いて日清戦役後農家の家内工業であった綿花栽培並に紡績、座繰製糸、砂糖製造、濁酒醸造、藍玉製造等がまたたくうちに崩壊してしまいました。農家でめいめい濁酒・焼酎を醸造してこれを飲用し、煙草も手刻みで自給していましたのに、これらは厳禁され、主食の米麦・蔬菜をのぞくほか生活必需品(都市工業生産品)が商品として滔々と農村に流入しはじめました。また明治初期以来欧米文明を模倣することに熱中して、今までになかった日用品も農村に波及して、舶来品と愛用される傾向も著しく、農村が自給経済の殻に閉じこもろうとしても許されない情勢になりました。日露戦役を境として、農村はよかれあしかれ貨幣経済に移行したのです。あわたゞしく都市文明の脚下へ疾走していったのです。農村に商人や加工業者の著しい増加はこの傾向を如実に物語るものです。また全国的に町制を施行する村数の著しい増加もこれを証明するものです。封建時代には商人の農村居住を厳禁し、農民のみの農村として維持させましたので、特に許されたもののほか農村に商人の存在は見られませんでした。しかし職業の選択が自由になって数年後、明治十年の稲数・仁王丸・塚島・千代島・中島五ヶ村の「地誌草案」によりますと、総戸数二八八戸のうち農業二四四戸(約八五%)・商業二十一戸(約七%)・工業十二戸(約四%)・雑業十二戸(約四%)という職業別構成となっています。農村のことですから兼農の商工業経営が多かったにしても、制度のわくがはずされて農業以外の職業への著しい増加傾向を見逃すことはでき ません。明治三十五年の三井郡一帯の「町村是」をひもといてみると、商工業種目として次のような専業的な分化が見られます。

商 業

呉服商・酒小売商・煙草商・菓子小売商・古物商・豆腐屋・果物商・ 小間物商・穀物仲買・染藍仲買・醤油小売商・煮売屋・料理屋・旅人宿・ 荒物商・質屋・絣ふれ売・魚屋・牛馬売買・乾物商・瀬戸物商・ 諸品ふれ売・穀物商

工 業

酒造業・砂糖業・紺屋・製茶業・生糸玉糸のし糸製糸業・綿織物業・製油業・ 蝋油業・樟脳製造業・製粉製麺業・精米業

職 工

大工職・鍛冶職・桶職・竹細工職・左官・理髪職・屋根葺職・農具職・石工職・ 金細工職・畳刺職・表具師・素麺職・色染職・絣織工

都市と農村の交流が密接になったとはいえ、交通輸送方面からみて現在とは比較にならぬ状態であった当時としては、農村へ久留米・福岡の商人の手が直接にのびてくるということは考えられません。したがって大城村また地方の中心小都市の商人の活躍は現在よりもめざましかったことが推測されます。また現在にみるごとき大資本の工業製品が全国津々浦々を一色にぬりつぶすといったこともなく、諸種の小資本の製造業や手工業的な職人の活躍の余地がひらけていたわけです。これらの商工業経営は専業的なものの外兼農的なものの存在も見逃せない比率を示しています。(大橋・御原村是によれば兼業商工は五〇〜七〇%を占めている)。即ち、中小農の極端な窮乏からこうした方面を兼業して収入の道を求めようとしたのでしょう。

これらの商工業のうちでも農民と直接関係の深い穀物仲買・染藍仲買・製油業等は明治以来めざましい活躍をして、中小農の窮乏没落にひきかえさかんに資本の蓄積を続けました。地主層にこれらの方面に関係ある家の多いのもこのためです。また綿織業は久留米絣の本場として村内にも企業されるものが多く、日露戦役後から第一次世界大戦後に かけて好況を呈しました。これは主に問屋制的な方法によるもので農家の婦女子の賃機織りは昭和初年に至るまで、大多数の農家で継続されました。大正十四年には大城村内織機数四三五機を算し、昭和五年より激減傾向に入り同九年には完全に姿を消していますから、あわたゞしく賃機織りが没落したわけです。

清酒醸造業は多額の資本を要しますので、その数こそ少かったのですが、福岡県の重要物産として隆盛に赴きました。村内に乙丸の山口醸造場(文政元年創業)・千代島の橋本醸造場(明治年間創業のち廃業)があり、その生産額も工業の冠たるものでした。清酒醸造業は原料関係から土地所有とも結びつき、地主の経営によるものが多く、また地主化する傾向にありました。「大城村勧業統計」をひもどきますと、大正十四年度に大城村総生産額七八、九万円のうち工業生産額一二、六万円(清酒醸造額を含まず。総生産額の約一六%)にあたっていますが、以来漸減傾向をたどっています。商工関係人口は大城村総人口の約十一〜十五%を占めていますから、農村とはいいながら大城村の発展のうえに商工業方面の対策も忘れられぬことです。

大正二年商工会規定公布後各地に商工会の結成を見ましたが、大正七年村内商工業者の「大城村商工組合」が結成され、爾来現在に至っています。その目的に「本組合ハ組合員相互ノ向上発達ト生活必需品ノ迅速適正ナル販売生産並ニ消費者ノ全般的ノ利益ノ増進ヲ図ルヲ目的トス。」(定款)とうたっています。

爾来三十五年組合員の団結と協力によって久留米・福岡の商圏に吸収されていく農村商圏の確保につとめています。また幾多の難関が横たわっているにしても、農村加工業の道こそは残された発展の場ではないでしょうか。


次 へ
戻 る
ホームへ