付  録

第一章 大城村史蹟めぐり

過去の大城村の歴史を物語り、祖先の歩みを物語るものが史蹟です。平素あまり親近しすぎてかえって明瞭でない ものもあり、燈台もと暗しといったこともあります。足のむくままに探訪の道を辿りましょう。

南部方面では

(一)大城ワタシ

三井郡四済の一、「御井郡大城済ハ御領内ノ小道済 川幅百貳拾間船壹艘。」とあり、その昔九州征伐の豊太閤秀吉が通過したので「太閤済」と言伝えられ渡船料としての薮が与えられたという。岩屋物語にも「大木渡」の名がのっていますから中世末期にはすでに存在していたものでしょう。 時移り世替りありし日の済場は石畳の波止場のみ土砂のまにまにのぞかれて旧河道の淀んだ水に発心嶽が影うつすばかり。   南部の金島村分に小字「太閤道」の名が豊太閤の足跡を後世にとどめています。日比生の碩儒井上昆江の詩に

太閤道と題して

兵跡千今雖口傳 両辺鍬落半為田 碧蹄曽走三軍馬 春草猶餘一帯烟

威若雷霆思往日 勢搖山兵慨当年 詩人惆悵人間事 不似群花毎歳研

(二)梶原古墳

寛延記に「大城村中塔ノ本トイフ所ニ梶原氏ノ古墳ト伝フルモノアリ。」とあるのは俗にいう「梶原さん」のこと で、境内三畝にも及びましょうか行人の眼をうるおすほどの木立もあります。土居部落の遊園として結構な区域で す。源平戦記に勇名を馳せた梶原景季の墳墓といっていますが、どういう関係からここに終焉したのか見当がつき ません。この附近の小字名には「東塔木」「西塔木」「梶原」「大塔」などという梶原古墳に関係のふかいものが 多くあります。享和文化時代にはこの古墳は霊験あらたかな流行佛として、近傍四隣にわたり有名となり、押すな 押すなの参詣者がおびただしく、現在にみる五重塔婆が文化三年に建立されました。ところがいつしか参詣者もさ びれてしまって、現在に至りました。

(三)日比生氏神豊比盗_社

(四)井上昆江の柳園塾

(五)嶋のこけら観音といぼとり地蔵

山本村観興寺の縁起によると、霊木カヤの大木がながれついたので大木(大城)の村名が起るといい、気の早い村人 の手斧テオノでとんだこけらをもって観音が刻まれて「こけら観音」と崇められ、霊木より鮮血あふれでて村人打おどろ き「勿体なや」と手斧を投捨ててより「勿体島」「手斧の柄」の地名起源とか。洪水後の浜辺に展開される光景は 昔も今も変りないようです。 嶋村は明治初年まで大城村同胞、産土神今宮八幡宮の宮座に関係のある家がまだ南部にあるくらい。こけら観音は 観興寺とふかい関係をもっていますが、いぼとり地蔵は村はずれの木立にひっそりと小石にまみれていまします。 いぼ専問手術無用、御願必ず成就とか。そのかわり小石はお礼にささげることになっています。

(六)日比生の光蓮寺

(七)平野宗山の”黄城詩鈔”

船端にかって医業をひらいた平野氏(現在善導寺に移住)は、数代にわたっての儒者ぞろいで斯界に造詣ふかく また亀井流の能書家でした。大城村近郷の寺社及墓碑に平野氏の典雅な筆の跡を多くとヾめています。謙山は丹巖 と号し、当時既に家伝の種痘を毎春実施し、その数千三百余児に及び終身発痘することがなかったといわれていま す。種痘は鼻中に施されたものですが碩儒井上昆江も季妹が平野氏の痘方によって生命を全うしたことをよろこび 数首の詩を賦しておくっています。謙山は人となり温厚で仁医の名高く、やがて彼の種痘は官禁に逢い秘伝書もみ な燼くという運命に至りました。謙山は文才にすぐれ、詩・俳諧に独自の境地をひらき、これらの詩はその子宗山 の詩とともに”黄城詩鈔”一巻にまとめられ、風格高き詩境には汲めどもつきぬ詩趣があります。 謙山の子宗山は黄城と号し、幕末久留米藩の弘生館学頭となり、医術を藩内に振いましたが、後野にあって医業の 傍近隣の子女の教学にもつとめました。謙山は廣瀬淡窓の門を出ましたが、宗山は井上知愚の門にあり、秀抜その 将来を嘱望されるところでした。父謙山の種痘術も当時としては先覚者のあゆみでしたが、父子の亀井流の能書及 び詩集”黄城詩鈔 ”とともに永久に讃えられて消えないことでしょう。

平野謙山は明治十七年八月四日歿、享年七十八。   法名 香栄院釈唯然居士。
平野宗山は明治四十三年七月二十日歿、享年八十一。法名 賢哲院釈知應居士。    

謙山の詩に「愼独庵雅詠」と題して、
    庭築假山穿假泉  徒労心力失天然  吾愛金屏紫江景  清風明月不須銭。
    竹屋蕭條水一方  風光自是似仙境  錦屏雲靄千年月  愼独庵中無盡藏
    茅庵高臥楽清貧  笑擬義黄以上人  紫水鳧鴎朝暮侶  屏山風月四時賓
   

宗山の詩に「賀昆江先生六十初庚」と題して、
    箕笈授業紫江濱  武技処才倶絶倫  花影升帷講書暁  柳風飄座試力晨
    萬年纔咸廿千日  百歳猶余四十春  最是先生真楽処  同心朋自遠方臻
   

また「秋江観漁」と題して、
    點々秋星影映波  漁舟幾隊遡清河  一齋挙火明如晝  溌剌香魚上網多
 

北部方面

(一)赤司八幡宮・豊姫縁起

(二)史蹟赤司城趾

標柱には「草野氏支族赤司氏累代ノ居城ニシテ、天正七年赤司氏肥前ニ移リテ、後田中氏ノ居館タリキ。」とあり ます。城小路の字名の起源ともなる赤司城趾は最後の城主田中左馬允に至り、城をそのまま明渡して廃城となっ ていますから、中世から近世にかけての平城の構造を知るには全く都合がよいほどです。明治以来変貌はしているようですが、地名にも北小路・山小路・横小路・城小路・六ノ江小路・東小路・上町等城下町の名残をとどめ ています。有馬氏入国の元和七年赤司はじめ古城五城を毀ち久留米城修築の用材としています。田中氏は赤司に 歿しています。敗残の将にもあらず、罪ある身でもなく、主家とともに没落の運命に陥った田中氏は空しくも赤 司を生涯の地として。栄恩寺は田中氏の菩提寺、その末裔は明治に至るまで赤司に居住しています。
 
誰人為祭主 古廟想当初 往事孤雲遠 英名一夢虚 
青苔鎖遺壘 残瓦入新鋤 独有神前幟 依々表此閭

(三)良積石

俗に藤原良積の墓と言伝えているが、矢野一貞の考証により筑紫国司都御酉オトリの墓であることが明らかです。

(四)赤司池

かっては赤司の赤池と呼ばれた池も美田と化して、そのありかさえ確かにはつかめません。筑後志に、 「赤司の池 御井郡赤司村に在り、縦四町横三十間」とあり、久留米藩正租調に「御井郡赤司池運上 六十二文五 十目収納ス」とあります。当時三井郡第一の池で、藩主の狩猟もこの近傍で行われることが多かったもようです。 当時の技術では不可能であったろう埋立工事は昭和年間第二次改修工事に際して実施されました。

(五)立ヶ崎(龍ヶ崎)の国府跡

平安時代の筑後国司都御酉の居館跡とも国府跡とも言伝えられますが、藤原良積は ここに官府を建てたことが記録にありますから、当時赤司に国府があったものと推測されます。

(六)赤司栄恩寺

菩提寺として田中氏の創建によるもの

(七)稲数・光福寺

(八)蚊田宮(加田宮)跡

稲数村の西方村はずれに加田宮跡の碑があり碑文に「人皇六十二代村上天皇康保元年加田 天満宮御鎮座」とあります。大正十三年神社合祀整理の際稲数天満宮に合祀されています。かって加田郷の産土 神でした。豊姫縁起によりますと「神功皇后当国 山門縣田油津媛ヤマトノアガタタブラツヒメ退治の時、水沼君皇船軍船を造調して蜷城を築 き蚊田之行宮を建て、中ツ海を渡し奉り蚊田之行宮に運奉り官軍に奉仕候。従是此皇船に被乗三韓を退治被成還 幸之時三潴の夜明に着船被成、為末世之卯当社水沼君に属而残置候。御船と申伝而御井郡稲数村深田之泥中並に 御井郡節原村南宮之東深田之泥中此両所に唯今迄歴然而終に不壊御座候と申伝候。」とあります。これが遺卯の御 船といって後世長く語り継ぎ言い伝えたものです。

神功皇后関係伝説の発端に続いて「蚊田宮は稲数村之内賀田 に御座候。当社は最初道主貴之境内にて神功皇后西征之時水沼別君行宮を造り皇船を調而奉建揆宮殿に而皇后三 韓還幸之時御船火岬より廻りシマの水門ミトを通り中ツ海に入而三潴之湊夜明之浦に着船被成当社之蚊田宮に遷至り蚊 田之淳名井(益影井)之神、水を酌み安産之祝祷被成産所を筑前国宇美郷に卜定而産殿を被爲造候。然共其産殿 に遷幸無御座候而此蚊田宮に御座候間に忽御産気起り十二月十四日應神天皇を当所に御誕生被成候。其後吉日を 撰 筑前の産殿に遷至而皇子御誕生の祝事を被祝行候。依之時之人其産殿之地を宇潮ウミと号候 宇潮者産字の訓に 而今は宇美と書申居候。近来者世に宇美と蚊田を一所に混し申候。蚊田者潟字の訓にて今は賀田と書申候。此蚊 田宮の遺跡に人皇六十七代三條院長和年中大宰府より天満宮を勧請仕同所之産神祭り来り申候」とあります。 少し引用が長くなりましたが、神功皇后皇子分娩に関する伝説です。

これに類した伝説は筑前筑後一圓に分布し どこも本據は自分のところだと主張していますので、應神天皇は何べん誕生されたことかわからないほどです。 いずれにしても民衆に親しみのふかい伝説で、その構想も明るく芝居がかった雄大なスケールをもったものです。 こうした伝説に祖先の人々の人生観世界観の片鱗がのぞかれるようです。

(九)仁王丸の道祖神サスノカミ

豊姫縁起によると天武天皇白鳳年中之鎮座とあり、神璽は樟の大木となっていますが、年代からいえば一番ふる い創建となります。古代人にとっては旅行移住にとって何よりも救いの主であった道祖神に対する信仰も、時移 り世替りいつしか信仰内容も変じて、異様な供物に思わず微苦笑を禁じ得ません。

(十)仁王丸の権現社

豊姫縁起に「当社は人皇五十六代清和天皇貞観八年丙戊三月八日之勅命にて大安寺之僧伝燈法師位一如と申者下 向仕、豊姫神社に読経可仕候所に此時代迄社内に佛教法師等を忌憚り申候に依て玉垣の廓外に大堀を掘廻し堺を 隔て外殿を造営仕為読経所に王経を令読誦候。依之僧経之申習にて権現と申候。其読経の題号にて境内を仁王丸 と号し又廻りし堀を権現堀と申候。其後無懈怠修理造替御座候。大永三年癸未六月廿八日の兵乱に軍火懸り焼失 仕境内悉百姓地に相成唯今者竹林之内に大石の神璽一間四方之萱葦一宇にて、、、、」とあります。

(十一)仁王丸法圓寺

(十二)仁王丸真教寺跡

仁王丸原野文書によれば天正十三年本願寺の破門によって、肥前国蓮池に移住したことがのせ られています。その遺跡は寺屋敷と呼ばれています。

(十三)仁王丸浄願寺跡 

永禄二年了心の開基、慶長八年田中吉政の命により久留米へ移転しています。

(十四)稲員氏(のち赤司氏)の居館跡

すでにのべたところですが高良山神管領稲員氏累代の居館の跡で延暦年間より正應年間に至る五百年の長年月にわたっています。 稲員氏移住後草野一族赤司氏の来住がありましたが、草野氏没落後慶長年間この館跡に草野 氏関係の中垣氏が来住して明治に至りました。現在の稲員天満宮一帯の地域で堀濠の遺構もみられますし、かっ ては内外の堀濠をめぐらし土壘の遺構もみられたといいます。したがって稲員村の村落構造は中世豪族の屋敷地 のおもかげを伝えているわけです。この館跡からはかって彌生式時代の合甕棺・単甕棺も発掘されていますから 更にさかのぼって二千年の歴史が秘められているわけです。

(十五)中垣清右衛門の墓

床島堰の功労者五荘屋の一人中垣清右衛門は稲数村荘屋職を継ぎ、床島堰築造計画者の一人で、工事に際しては 溝筋諸品裁判をつとめました。百難を凌ぎ幾多の資材をなげうってその竣成に生涯をかけた彼の功績は、郷土人 の忘るることのできないことです。 彼の墓は稲数光福寺墓地にあり、法名”釈了圓”宝暦三年十一月廿八日歿しています。清右衛門の子孫は大城村 荘屋・乙吉村荘屋を継いだ中垣二氏です。のち二氏ともに検見奉行下にあって下見役職をつぎ地方の名家として 明治に至りました。明治に至り辯護士となり、地方政界に重きをなした中垣省策もその後裔です。

(十六)名医中垣淳庵の墓

五荘屋の一人中垣清右衛門は当時稲数村荘屋職を継いでいましたが、清右衛門の後裔淳庵は医業を開き近隣に名 声嘖々たるものがありました。笈を負うて医術を学ぶもの多く、かっては門弟を従えて東遊し医術を他郷に輝か したこともありました。死に臨んでは端然正座して死期を予言し薬餌をしりぞけてなお門弟に医術の指導をやめ なかったといわれています。天保四年歿、諡して眞華院端道居士。淳庵の孫淳吾は医業を継ぎ、人となり温厚に して薬を乞う者門前に満つというありさまでした。かって廣瀬淡窓の咸宜園に学び、碩儒井上昆江とも親交があ りました。詩歌俳諧をよくし晩年は専らこれを楽しみとしました。 中垣氏の墳墓は農村稀にみる古碑をのこしています。初代中市正姓貫は草野氏の客となり仁王丸村を領していま したが、応永三十二年に歿していますからすでに五百三十年になります。中世から近世にかけての農村の歴史を探る うえに、この一族を研究することは収穫あるものと思います。

(十七)石町長者屋敷跡

稲数内字石町の水田中に磐石があり、俗に石町長者の屋敷跡と言伝えています。かって附近より土器類が多く発 掘されていますが、古墳時代かあるいはそれより新しい時代の墳墓の一劃であることにまちがいありません。

中部地方には

(一) 益影井

豊姫縁起にものべられていますが、筑後志に「益影井 御井郡大城村に在り。此古井往古より安産の祝 水に用ふる霊水なり。蓋し益影の嘉名に因るか。」とあり、また延享三年赤司大宮司宮崎駿河の書上に「当社神代 の霊泉は天孫降臨の時天眞名井之清水を取りて、天村雲命アメノムラクモノミコト(筒井に鎮座地蔵堂と誤申候)今持降日向之高千穂之神 代川並に道之中のカタ渟名井ヌナイ又丹波之與佐之眞名井此三ヶ所に遷置て、天祖の神教を言壽鎮曰被成候一所の潟之 渟名井にて神代川クマシロガワとも号し御井ミイ共号し当社豊姫宮の食炊水に備て安産祝祷水に被封候。此清水を以て産生を祝祷 する者生子容顔端正異靈聰明にて長寿と御座候。此井近来に至て石を畳み筒井と号候由申伝候。」「益影井 若井ワカイ 共申候。此清水大城村に御座候。」 寛延元年宮崎駿河の書上に「大城村之内にて御座候益影井御座候所筒井と申 候。此井婦人安産の祝祷水に用来候者子細御座候。」 寛政四年の久徳半酔の大城神井略記に「宿千筑後川御井郡 邨吏久富氏之家。前庭有井以石畳之。其水清潔而味耳美余飲之問主人。主曰加可矣公之問、是筑州三井其一也。 今為我有靡佗知其由者有矣。汲之飲於産婦必共平安、人以為神水、莫不汲用也。余白所謂州中三井者何哉。主曰 高良御手洗・朝妻清泉并我筒井為三矣、筒井亦曰益影井古水詠之在千載也。」とあり寛政時代までは近傍の人々の 飲用があっていたもののようです。

天孫降臨に際し高天原から持伝えた靈泉という、幽遠な由緒をもつというこの益影井は、神功皇后の皇子分娩に も重大な役をにない、御井の県の名の起源と伝え、長く豊比盗_社の神井として又庶民の産湯の靈水としてほめ たたえられました。今は小学校々庭に廃井として千古の歴史を秘めてしずかに眠っています。

益影井に近く筒井天満宮境内の観音堂はかって豊姫神社の本寺堂であり、ありし日にはその盛況をほこった日も あろうに、僅に古老の言に「安産・産後の観音」と伝えて霊験あらたかなりし過去の片鱗をうかがうばかり。 天眞名井をここに潟の渟名井としておさめられたという天村雲命も、路傍の地蔵堂と祀かれて永遠のほおえみを 含んでいまします。 東筒井・中筒井・西筒井・三井田という字名は益影井とふかい関係をもっていますが、史蹟と地名の関聯は興味 ふかい問題です。

       汲みなれて千代をこめつついつまでも
             益影の井は汲みもつきせじ(読み人しらず)

(二) 塚島の古墳

豊姫縁起に「塚太明神 塚島村に御座候大磐石の神璽にて境内竿除壱畝貮歩祭礼十一月十七日同村より神供調進仕 略法之神事勤行仕候。此神璽者往古神功皇后の御妹豊姫命を道主貴之神形成に立て西海の鎮護と被成候に依る豊 姫命年久しく御座候而神功既至靈雲当遷而躬常に御帯被成候御鐙を被遺置筑前国竃門嶽に入御体忽不見天上被成 候。依之被遺候御鐙を河嶋之清地に蔵て大磐石を築て為後葉夘崇被置候神璽と申傳候。」とあります。 塚太明神と益影井・豊比盗_社につながる伝説はまだ古老の間にも残されています。往昔豊比盗_社の祭礼に際 しては日比生から塚島へ神幸があっていたこと等々。

古墳の大磐石については次のような伝説も附随しています。よくありがちな類型のものですが、高良山の神籠石 に関係があります。「大昔英彦山と高良山の天狗が一夜のうちに英彦山から高良山へ磐石を天狗取りといいます か運搬することにしたそうです。高良山の神籠石はその磐石の名残といいますが、筑紫平野を天駈っていく磐石 の数も少々でなく、天狗たちにもやや疲れが見えはじめた折から、もう一息で終了という段階になって鶏鳴しの のめを告げ、さしもの天狗も魔力を失い一群の磐石をとり落してしまったそうです。その一群の磐石が塚島古墳 」といい伝えています。天駈けりゆく磐石のむれ、はるかに十里をへだてた両山の間の磐石運搬、想像するだけ でも雄大で胸のわだかまりもとけるような伝説です。

(三) 善願寺跡

塚島村にあり、俗に観音屋敷とよんでいます。天正年間大友氏の焼打によって廃寺となったと伝える 古寺でした。

(四) 筒井の太田道場

筒井の太田氏(もと久富氏)は中世末期からすでに大城村に勢力をもつ豪族であったらしく大城済を掌握し秀吉 の大城済通過に際して済代として竿除地を拝領したと言伝えられています。のち大城村の荘屋職にありましたが 幕末に至って太田三郎鑑利は道場をひらき柔術を指南しました。あたかも日比生に伊藤捨丸の剣術道場・井上昆 江の居合術と並び立ちその名声は高く、教えを受けるもの前後数百人を算したといいます。鑑利の技量は特にす ぐれ、当地方に比肩するものなしという有様でしたので、久留米藩に仕致し藩士に指南しました。ある時は選ば れて熊本に至り藩主細川氏の庭前において肥後の強者と顔を合せ大いに面目をほどこして帰ったこともありまし た。また彼は駒止めの極意に達しいかなる早馬といえども、彼にかかると歩を止めたといわれています。

その例話として、久留米へ出仕の折から神代済において、乗馬のまま渡船に乗りこんだ一医師がありました。鑑利は、 「二重乗りは禁止にもなっているし危険だから、降りたがよかろう。」と注意しましたが、医師は意にも介せずそ のまま彼岸に上ろうとしました。鑑利は極意の駒止の秘術をもって馬と相対侍しましたところ、馬はどうしても 微動だに致しません。さっきより聞えぬふりをしてそのまま乗り越そうとした医師はとうとう下馬しなければな りませんでした。 太田三郎鑑利は元治二年五十一才をもって歿しています。墓碑は門弟一同によって建てられています。「鑑利先生 之墓」諡して「年心院釈実道正巳居士」。

鑑利の長子鑑英はのち大城村政にたずさわり、二子鑑通は父の質をうけて柔術に長じ、のち郡吏として郡民の嘱 望するところでしたが日清戦役出征軍人歓迎の際門司港に於て悪疫のため殉職しました。

筒井にあって寺子屋をひらき来り学ぶもの数百人の多きに達したという、医師平木家種は三郎鑑利の同母弟で す。家種の指導は深切周到で諄々として不倦ずあたかも慈母が子を養育するにひとしく、教をうける者は楽しみ よろこびつつ近隣を誘い合わして、遠近をとわずその門下に集ったといわれています。家種は弓術・書道にもす ぐれ農村に稀にみる教養の持主でした。筒井の墓地に門弟一同の建てた「平木家種先生墓」があります。

西部方面

(一) 千代島の中堂神社

千代島の産土神八幡神社は天喜二年北野天満宮の中堂神社と稱せられ、北野天満宮と深い関係をもつものですが 神社管轄関係も中島の老松宮とともに北野天満宮に関係をもっています。天満宮に献納された古燈灯に千代島・ 中島両村氏子関係のものが遺っていることからもうなずかれます。また千代島中島方面の氏族分布をみても北野 に関係のある氏族をみることからもうなずかれます。かって河北荘が北野宮領であったことから、こうした関係 が継続したものでしょうか。

(二) 鯰久保の田地割替制度

かって筑後川は中島浜・千代島浜へ蛇行していたことはすでにのべたところですが、現河道の開鑿は享保十年 のことであり二百余年の昔です。北野天満宮南方より鳥巣東北へ急蛇行した旧筑後川跡が開鑿されて貢祖地に 編入されたのは新川開鑿後約五十年の安永年間で、これがいわゆる鯰久保開です。

旧河道の開墾地は今山・高良 鳥巣三ヶ村の共有地とされ、洪水毎に水損毛を免れない低濕なこの開墾地は三ヶ村農民に均分して耕作されまし た。水損を均分しょうという策からでしょうか。共同開墾によるのでしょうか。三ヶ村農民は十年毎に田地の 割替をして耕作を継続しました。筑前地方の地組村というのも、この田地割替制をさすもので、全国的にみても 近世に入って開墾された大河川沿岸の水損低濕地帯に多くこの例をみます。筑後に於てはその例なく、田地割替 制の唯一の例ともいうべきものです。

十年毎の割替に際してはくじ取がなされ、貧富の差なく均等の條件で割替が実施されたもようです。割替時に 際して恒例となっていた三ヶ村主催の芝居興行は有名で遠近の里民も参集したと伝えられます。明治八年地租改 正に際し、地券の下附に及んで永久に土地所有権が一定して、田地割替制は破れました。


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