第 二 章 筑 後 川
筑後川は大城村と宿命的な関係をもっています。祖先以来ともに生きともに喜び悲しみ続けてきました筑後川は一
名一夜川の優雅な河名をもってよばれています。
そのままに後の世もしらず一夜川渡るや何の夢路なるらむ(夫木集)
名に高き秋のなかばの一夜川ことはりしるくすめる月かな(名寄集)
こうして古歌集にのせられ、見もしない九州の涯の一夜川は中央貴族たちの風雅の種ともなりました。
君がためかぎりもあらじ千年川いせきの波の幾かへりとも(夫木集)
わが君のながれ久しき千年川波しづかなる世につかへつつ(名寄集)
一夜川ととも千年(千歳)川の別名ももっている筑後川です。中世中央においては筑後川というより、一夜川・千
歳川の名の方が通っていたらしいのです。八雲抄・名寄名所方角抄・日本事跡考等の文書にも「筑後国一夜川・千年
川等ノ勝水アリ。」と載せています。肥前風土記をひもときますと、御井大河と呼びならわしていたことがわかり、
高羅山の要害として、その河幅も広漠として沼沢地帯を呈していたもようです。即ち古代には御井大河と呼び中世に至
って一夜川・千歳川・筑後川と稱するようになりました。
北筑雑藁には一夜川について「千歳川ハ蓋シ此川ノ総称ニ
シテ、一夜川ハ即チ其ノ一所ヲ指シタルノ名ナリ。山本郡ニ蘭若(寺院)アリ。観興寺ト号ス。其旧記ニ云フ、昔豊
後国ノ深山ニ異木有リ。之ヲ伐リテ川ニ投ゼシガ一夜ニシテ流レテ、此州ノ山本郡某地ニ至レリ。人之ヲ彫刻シテ観
音像ヲ作リ一宇ヲ建テテ安置セリ。其岸畔ノ一村ヲ名ヅケテ大木ト曰フ。今大城ニ作ルハ非ナリト。皆異木ノ流レ来
リシニ因ツテ名ヲ得タリ。」と述べていますが、大城村一帯に語り継がれている伝説もこれに準じたものですが、観興
寺縁起に據ったものでしょう。
一夜川というのは豊後国より大城村附近をさすもので、千年川は筑後川の総称というわけです。大城村一帯の口伝も
そうなっていますが、それに加えて次のような伝説が付随しているのも興味ふかいことです 〜 この靈木は大城附
近を通過して神代浜に流着しましたが、草野常門は靈木にむかってその逆流を請いましたところ、一夜にして逆流大
城浜に漂着、靈光を放ったといいます。そのため大城・神代間をさして逆川(さかさ川)と言うと伝えています。
筑後川の所属争いは近世に至って続風土記などにあらわれ、筑後のみの専有でなく筑前・筑後に属するものとしてい
ますが、これは当時の史家は誤りであることを一斉に指摘しているところです。肥前においては千年川及び御境川と
称していたようです。寛永十五年筑間川と公称していたのを筑後川と改称することが、幕府より達示されていますか
ら、近世初期には筑間川ともよんでいたことがわかります。こうしたところに筑前方面からの所属争いなど起ったも
のでしょうか。
筑後川、九州第一の大河とはいえ総長三十六里、筑後国に於ける全長十七里余。利害をともにして遠い過去よりまた将
来へ大城村は筑後川との深いきずなを共にしていくことでしょう。筑紫次郎の別名もまた親しい血脈の通いさえ感じ
られる筑後川です。
井上昆江の詩に「江上眺望」と題して
風軽細浪穀文趨 逓至沙汀動翠蒲 斜照明辺去帆白 遥湾忽入鷺群無。
平野宗山の詩に「盛育堂雑興」と題して、
茅屋紫扉紫水浜 白沙翠叮映猗倫 鐘声近報終南山 帆影遥連古北津
煮茗招僧名月夜 呼盃求句落花春 同郷幸有高賞任 不道我居非里仁
とあり、当時の筑後川畔の風景がよみがえってくるようです。 |