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入 門 月 日 | 住 所 | 氏 名 |
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文化15・8 | 仁 王 丸 村 | 高 松 衛 門 |
文政 2・2 | 稲 数 村 | 太 田 元 吉 |
3・7 | 大 城 村 | 井 上 直次郎 |
5・3 | 〃 | 平 野 艮 民 |
6・4 | 赤 司 村 | 栄恩寺 萩大園 |
天保 7・7 | 大 城 村 | 山 田 渾 蔵 |
14・9 | 〃 | 井 上 栄 |
安政 3・1 | 稲 数 村 | 中 垣 淳 吾 |
明治18・9 | 乙 丸 村 | 重 富 一 |
18 | 稲 数 村 | 中 垣 成 吾 |
〃 | 赤 司 村 | 秋 山 次 作 |
〃 | 稲 数 村 | 中 垣 栄太郎 |
〃 | 仁 王 丸 村 | 中 垣 彌一郎 |
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柳園塾が特に名声を筑後にはくしたのは、昆江がその経営にあ たるようになった文久・元治のころからです。学派は朱子学派 講義は一切朱註によりました。教科は経史を主とし傍ら詩文に 及び、四書・詩書易の三経・十八史略・春秋左氏伝・唐詩選・ 文章軌範・唐栄八家文等を循環的に講義しました。
入門については寺子屋時代は就学の初より、学制令後は初等教 育を卒えたものに随時入門を許しました。その結果学科の進度 が一定せず、そのため初学の授業は古参生の義務として素読と いい時間を定めて一人に一人かかってその手ほどきにかかりま した。進歩に隨って漸次聴講に入るという規定でした。
塾舎は師家の東方にある簡素な瓦葺二階造りで三十坪に満たぬ
ありさまでした。ここは塾生の自修室兼寝室であり、食堂応接
室を含んでいましたので、師の講義は一切師家の一室である講堂で行われました。午前に第一、第二講座。午後に一座
の講座があり、師着座開巻一礼、徐ろに講義がはじまるや塾生は正座敬聴。
かくて数回分の講義をつらねて一回の会読がありました。これは独特の評価方法であり奨励法でした。〜 会読はその
都度抽籤をもって席次を定め、師の臨席のもとに上席より順次通読講義させ合格・不合格を附してその席次を移動さ
せ採点簿に記入していく方法でしたが、時間に制限があり未済者は次回において優先権を与えることとしました。
また上級生には任意の独見会があり、聴講以外の書籍より選択して会読に準ずる方法をもって、その優劣を競いまし
た。詩文の添削は毎朝講座前に師の書斎においてなされました。知愚・昆江ともに稀代の詩人であったのですが、添
削の懇切なることおどろくほどでした。詩文ともに積みかさなれば推敲と称して再提出させ批評賛辞をもって奨励し
ました。
今までのべたように平素の日課点をもって評価しましたので別に期末試験というものはなく、三、四ヶ月毎に塾生総掛 りの調査で成績表を各級別に製して提出しました。師の検閲によって進級の可否を査定し、席次を変更し一覧様式を もって月始に発表しました。月旦評と称するものです。
以上が聴講生活の概況ですが、塾生は塾舎に寝食を共にし、且師家内にあることですから、師とも寝食を共にした ともいえるわけです。舎務は塾生の分掌するところとして、炊事は一切師家において引受け、湯浴は師家の風呂に準 共同にて浸るという家族的な一面がありました。したがって小資苦学力行、塾生は粗衣粗食を本分として意義頗る旺 盛、同情に富み、金蘭の交水魚の交、詩吟朗々として月明に流れ、撃釼のひびきに黎明寒しといった風景を展開しま した。議論百出、また政治批判に悲憤慷慨するといった塾舎の雰囲気は質実剛健といいますか、若さと健康にみちあ ふれた明治初期のある階層のすがたを物語っています。
柳園塾名簿によりますと、門弟数百五十五、その出身は三井郡一圓にわたり、また他郡他国にも分布していますが、お おむね村役人層・富裕層・医家僧侶・といった農村の有識層の子弟であり、明治時代に活躍した人々です。
村 名 | 氏 名 |
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稲 数 | 堀田孝太朗 立花実依 中敬三郎 中垣栄太郎 |
大 城 | 平野俊太郎 中垣省策 太田矢六 太田中 古賀憲彰 永田正運 |
乙 丸 | 中垣成吾 中垣正太郎 重富一 重富敬三 大神淳朴 |
赤 司 | 光安順次郎 南島六太郎 田中芳太郎 宮崎嵩 田本小一郎 光安平信 |
仁王丸 | 日比生彦次郎 中垣弥一郎 釈霊曜 釈恵秀 中垣寛太郎 中垣貞吉 楢原萬次郎 |
塚 島 | 福田 芳太郎 |
師井上昆江の風格については門人の言葉に「先生は鍛錬又鍛錬筋骨逞しき偉丈夫、背長の割に面太く、頭は斬髪の 常に長く、貫目充溢、一歩忽がせにせざる底の堂々たる態度の所有者なりき。秋霜を以て自ら律し、春風を以て人に 接し、威ありて猛からず、親しむべくして褻るべからず。是故に人と争はれず、而して人は常に先生に服したり。そ の家族に臨まるるや厳獅ネらず、隨って叱咤の声婢僕に至りしこと絶無なり。」とあります。また昆江は父祖の質を うけ、幼より居合剣術に勵みその道の達人でした。兵学・馬術にも一家をなすというありさまでしたので、安政六年 藩主より文武に熱心なるかどをもって金子三〇〇疋を下賜されています。 明治九年久留米師範学校教諭となり、十八年咸宜園の都講として日田に迎えられましたが病気のため十九年辞職、明 治二十一年八月十六日 日比生に歿しました。遺稿として次のごときものがあり、学識の奥深なる所蘊の豊贍なる、非 凡な碩儒を如実に物語っています。
喬木集一巻・合一篇・民権論臆説一巻・塞責詩集・昆江漫稿五巻。
父知愚には詩集二巻(成足園文集・柳園詩稿)・知愚遺稿があります。
井上知愚 萬延元年三月一日歿 法名 法性院覚誉正道居士
井上昆江 明治二十一年八月十六日歿 法名 至心院誠誉実道居士
幕末から明治にかけて日比生は寒村ながら文武両道教学の地として筑後一円に著名でした。井上知愚の兄為勝が郷土 伊藤洞溪の嗣となって日比生に在り、捨刃と号して撃剱に秀で、道場をひらいて後進をみちびきましたのも恰も時を 同じくしましたので、柳園塾とともに名声嘖々たるものがありました。
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