第 四 章 豊 姫 縁 起
赤司八幡宮縁起は一名”豊姫縁起”と呼ばれています。御井郡惣廟赤司八幡宮は醍醐天皇延長二年の創建となって
いますが、豊姫縁起によればもと豊比神社といい延長二年八幡大神を合祀したことが述べられています。豊比盗_
社について延喜式神名帳に「筑後国四座(大二座・小二座)、御井郡大二座小一座、高良玉垂命神社(名神大)豊比
盗_社(名神大)伊勢天照御祖神社(名神小)とあり、高良玉垂命神社とならび立つ名神大社であったことがのべら
れています。豊比盗_社については文徳実録に「天安元年冬十月丁卯在筑後国従五位下豊比盗_社宛封戸井田。同四
年甲戊先是比盗_正殿遇失火位記皆被焼損。」とあります。 高良山文書には「正四位豊比当ス神 嘉祥三年十二月廿九
日奉授従五位下。天安二年五月十四日奉授従四位下。貞観六年七月廿六日奉授従四位上。貞観十一年三月廿九日奉授
正四位下。寛平九年十二月三日奉授正四位上。」とあります。
即ち豊比盗_社は平安時代においては官社に列する名神であり、中央よりたびたび勅使の差遺がなされました。
「白河院應徳二年五月九日左辨官下筑後国豊比淘蜷_者九州ニ島惣鎮守不可混諸社者也。仍神領寄八十庄宣祈聖廟安寧。」
「堀河院御宇長治二年十一月三日勅使豊比盗_社官號與正一位。」
「鳥羽院元永三年奉官幣其宣命日筑後国豊比淘蜷_者本朝鎮守也。」などの記録からも、倭論語にのせられた
筑後国豊姫大明神の神託として「益人よ心徳は神徳の守るところにして万宝のよる所なり。天地の尊むところなり。
私欲は神徳のにくめる所にして、万宝の去るところ、天地のいやしむ所なり。よく思へなべての人は直き心の底清み
誠の海の波もなくしづかにあらんかしと思うなり。」とあるところからも、筑後いや九州にかくれなき大神でありま
した。しかるに中世に至って豊比盗_社は衰徴の運命にあったものでしょうか。近世に真鍋仲庵はその古跡すら忘れ
られて祭祀も中絶しているのを慨いて次のようにのべています。
「豊比盗_社ニツキテ愚按ズルニ世焼季ニ及ビ人不
信ニ至ル故ニ、其所ヲ失ヒテ故跡ヲ存セス。近国寺社ノ有司ヨリ御井郡ノ人民ヲシテ、此神ノ所在ヲ尋ネモトメシモ、
其神名ヲ知ルモノナシ。況ンヤ神地ニ於テヲヤ。」
また杉山正仲は筑後志に豊比盗_社のことをのべ「今按ずるに此神社も亦中世退転して其実蹟詳かならず。一説に御
井郡上津荒木村に小祠ありて姫社といふ。是即ち豊比唐ネりと云々。或人曰く御井郡塚島村に大石を以て造築せし大
塚あり、往古より里民これを止誉比搭{と称すと。又同郡大城村の内蛭尾と号する処に大石二祠あり。里俗にこれを
豊比唐フ神という。何れか是なることを知らず。嗟矣夫豊比唐フ社は正史に歴然たりと雖も、今其蹤考ふべきもの無
きこと慨歎に余リあり。」とあります。
いずれにしても近世に至っては神名の所在はわからなくなってしまい、かつ
て高良玉垂宮と並び立った名神も今いずこの有様でした。延享二年高良山僧正寂源によって高良山内に豊比盗_社再
興の請願が藩に提出されました。高良山古図に豊比盗_社の神域ありとし、又天安年閏高良玉垂宮と豊比盗_社正殿
が失火に遭ったことは二神が同所に祀られていたことを証明するものだという理由からでした。
これに対して豊姫縁起を有力な証據として赤司八幡宮社家宮崎氏より、豊比盗_社の本據は赤司にあり、再興はむ
しろ赤司になさるべきことであるとして、豊姫縁起を提出、高良山と赤司といずれをもって本據となすか正邪をただ
して後神社再興をなされたいと反駁書が提出されました。
ときの史家久徳源重なども「愚按筑後国御井郡豊比盗_社三所アリ。大城村豊比盗_社社家ノ説歴々伝レリ。
神境神田ト称スル地所々ニ有テ廣シ。然レバ大城村神廟ノ本所タルコト顯然タリ。
高良山豊比盗_絵図等伝ル有レドモ、山中何レノ処カ社跡不明。上津荒木村叢祠有レドモ慥ナル伝説ナシ。
是ヲ以テ観レバ高良山、上津荒木村ハ勧請ノ社ナルベシ。」と、赤司をもってその本據と推定しています。し
かし、高良一山を背景としたこの再興計画はついに高良山に有力な結果をもたらして、山中に豊比盗_社の再建がなさ
れました。のち県社となった豊比盗_社は即ちこれなのです。
赤司八幡宮の再興運動はついに効を奏しませんでしたが、ここに伝えられている豊姫縁起は神話に発端をもつ雄大
な構想のもとに、現存する遺跡・史蹟とも深い関聯をもっているすばらしい物語であり伝説です。これによっても、
大城村一帯の開発の歴史をうかヾうことができ、古代人の自由な優れた物語構成力に驚嘆するばかりです。以下豊姫
縁起の要点をとらえつつ、その概観をしてみましょう。
一、 豊姫神社の起源は天照大神の神勅によって宇佐・宇像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのは
ここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻)とある道中は河北荘道中である。「今在海
北道中號白道主貴此筑紫水沼君等祭神也」(神代巻)とあるが「海北」とあるのは「河北」の書誤りである。
のち景行天皇が筑紫を巡狩されるや、当社の祭神田心姫命の荒魂が八止女津媛となって現れたが、
水沼県主猿大海
に神告がありましたので天皇は当社に行幸されて田心姫命を道主貴として崇められました。 神霊の至すところ、
九州が平定したので、御子国乳別皇子を長く、祭祀の御手代としてとどめられました。成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置・楯矛をもってそのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村と
いい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
やがて三潴郡も国乳別皇子の領所として永く筑紫道之中の藩屏とされましたが、水沼君こそはこの国乳別の子孫であり、
赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
神功皇后が西征の途に於て中ツ海(有明海〜当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、
水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや
水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水
を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を
道主貴としてととめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、
神名帳には止誉比盗_社とあります。
二、 豊比神社に八幡宮が鎮座されたことについては、もともと応神天皇生誕の地であるという霊地でありますが、
欽明天皇のころ神霊が当社三股池に現われ膳夫池辺菱磨に神告がありました。同日同時に肥後の菱形池、宇佐の
三角池にも神託があったので、元明天皇和銅五年にはじめて宇佐宮に八幡大神を合祀されました。延長二年水沼君
菅守に勅あり八月十五日八幡大神を豊比盗_社に合祀して御井郡の惣廟とし、恒例の放生会が執行されるようになりました。
三、 後鳥羽天皇のころまで朝廷の奉幣が続き崇敬されていたが、以後のことは記録がないが、筑後国守護草野氏は代々当社を崇敬、神事祭礼は厳粛に維持されました。ところが、菊池少貮軍の筑後川の戦に際して兵火にかかって焼
失してしまいました。草野守永・大友氏時・大宮司水沼稲守の協力によって八町四方の神域に神社の再建がなされ、
九州一圓より神宝の奉納があって旧に復しました。草野守永は二男赤司蔵人永直を当社の守護として赤司城につか
わしました。これより赤司氏七代相続、永明に至って天正年間肥前国へ退出しました。
応永年間大友親世が九州探題となるや、当社に供田一千町及び随兵を寄進して崇敬をつくしました。のち六十
余年筑肥騒擾に際し大友親繁は筑後に兵をすすめ、当社に神助を祈り当社境内に城を築いて筑肥政略の據点としま
した。六十余年後筑肥の軍勢にかこまれて大友軍勢は神助のもと必死に防禦これを追討しました。
大友茂鎮(宗麟)が切子丹に帰依するや、切子丹豪族が蜂起して永禄天正年間数回その襲撃に逢い、防禦の甲斐も
なく、豊比盗_社は兵火にかヽり神宝社伝記録すべて焼失、神田も没収されてしまいました。 茂鎮の子茂統は父の
悪行をつぐない神慮を恐れて草野家Cと協力して当社の再建につとめて旧態に復させましたが、父茂鎮の耳目を憚
ってもとの社号豊比盗_社を八幡宮と改め新に神田七十五町歩を寄進しました。
これより豊比盗_社の号が世に忘却されることになりましたし大宮司水沼氏も姓を藤原と改めて宗麟の耳目を憚りました。
秀吉の九州征伐に際し社領悉く没収されわずかに十五町歩に縮小されました。
田中吉政が筑後の国主となるや社領十五町に新に供田一町歩を添え、田中左馬允は境内を城とし三股の神池を要害として
本社の広庭を本丸としました。
かくて社地に一町四方の塀を廻らし社殿を造営しましたが、田中氏継絶の後は社領すべて百姓地となり神域も現在
にみるごとく縮少しました。
四、 当社祭礼の儀は古来年中恒例十六度の外臨時の祭事も数度あり、神幸流鏑馬の大礼の外厳粛に執行されましたが
現在にみるごとく簡素化されました。十一月初卯の祭礼は略式乍ら現在に至っております。また往時は当社に関係
ある社家も多くその数百人に及びましたが、現在にみるごとく大宮司宮崎氏一家残るのみ、宮使坂田氏は武家
となり膳夫池辺氏は赤司村の荘屋職を継ぎました。
五、 神代の霊泉潟の渟名井は当社の神井として道主貴の御饗炊水として長く保持されたもので 一名益影井をもってよ
ばれています。
六、 塚太明神は塚島古墳豊比当スの霊廟であります。
七、 当社遺卯の御船の遺跡は加田宮の神域となっています。
八、 当社の神池三股池は八幡大神霊現の地で、長さ二十町余あったけれども、現在は過半開墾されて水田と化し、現
在六町許り残っていますが、春秋二季に神池祭が行われてます。
九、 当社の末社・別社・攝社は河北荘一圓にまたがり、六十三社に減少していますが、往古その他御井御原郡にまたが
り百三十八社に及んでいました。
以上が豊姫縁起の概容で、この縁起は豊比盗_社再興問題で赤司八幡宮と高良一山と相対侍した延享三年に、ときの
大宮司宮崎駿河より藩へ書上したとき清書されたものです。
日比生の豊比盗_社 豊比盗_社については赤司八幡宮の縁起とともに日比生氏神豊比盗_社を見逃すことはできま
せん。日比生銅剣の項ですでにのべたところですが、銅剣の発掘箇所は日比生豊比盗_社境内であり、同境内からは
古瓦・土器・陶器などの破損したものが多く発掘され、特にその古瓦は高良山興隆寺(筑後最古の寺院)・国分寺・
柳坂山の跡より発掘された瓦よりも異ったもので類例なく、すべて温石で作られたものでした。これらの発掘物は豊
比盗_社研究の一つの鍵ともなるものですが、同社所蔵の豊比搭{社地の図について太宰管内誌には「境堺甚厳重に
して西より北の方かねの手に堀ありて、是を堺とす。南を以て正面とす。正面東西十間三歩、社前鳥居の内東西十五
間二歩、社の後の堀東西二十四間九歩、西の方南北三十九間とあり。古老の語り伝えには日比生氏神の古社であり、
大社であったことを残すのみでその他の資料の手がかりはありません。
約二十年昔千二百年祭が行われた日比生豊比盗_社については延享三年大宮司宮崎氏の書上に次のようにあります。
「御井郡大城村之内日比生宝満宮は筑後国四座式内の御守豊比当ス御座候処乱世之軍火に焼失仕社殿滅却に及び社
殿衰微仕夫より以来社号宝満宮と変致仕候は遺蹟旧記等も申伝斗に相成申候荒増申上候」とあり、以下は殆ど赤司豊
比盗_社縁起と大同小異ですから略します。神社の鳥居の銘引には「筑後国御井郡大城村日比生郷豊比盗_社久留米
管内也。文徳実録云天安二年筑後国豊比盗_宛封戸並位田。延喜式筑後国豊比盗_社名神大是国史所載為其大社可知
也。(中略)応仁・文明之際天下之属戦国割據郡千才扇動以宮社焼亡兵火荒墟。叢祠纔存矣土人奉祀爾。(以下略)」
とありますが、豊姫縁起以上の資料ではありません。
宮崎氏文書には「日比生村氏神宝満宮、筑前筑後分国ノ際筑前竈門神社ヲ勧請鎮座ス。社地八町四方 末社百二十五
トイフ。」文化七年当時日本随一の測量家伊能忠敬の測量日記によりますと、十月五日大城村一帯の測量にあたり、
「筑後国御原郡久留米領本郷新町限善導寺道止印杭より初、(中略)高嶋村、鏡村字宮地、大城村字日比生大印迄、
一里十三町五十四間。夫より豊比盗_社迄測・二町三十四間メ外・式内豊比盗_社、祭神豊玉姫命(一社の外末社なし、社領もなし往古は大社にて勅使ありしと云 疑はし)神主
宮崎和泉、大印より初筑後川字船端(晝休 百姓佐七 筑後川舟渡百十四間)筑後国山本郡飯田村(以下略)。」とあり、豊比盗_社の由緒に
ついては疑わしと言捨てていますがたヾ古伝だけでは無理もないことでしょう。
明治三十九年大城村役場「古社寺調査」には豊比盗_社の創立沿革として「最初ノ建立時代ハ不明ナルモ大永三年六月
大友ノ兵火ニ罹リ社殿宝物等悉ク焼失天正十五年五月再興、別ノコトハ棟木ニ釘付シアル木札ニ依リ明瞭ナリ。其他
三字人民ノ口碑ニ存シタルコト、往古ヨリ取調タル書類等アリ」とあります。即ち日比生豊比盗_社についてはこれ
以上の資料はありません。
大友氏の焼打によってすべては無に帰して近世に至り日比生村民の手によって再興された
ものです。古老の口伝によれば往古の祭礼は頗る厳粛で塚島古墳へ神幸があり、神楽田神田の地名はその社領の存在
を示すものであり、宮司は大宮司屋敷の所在地であった等。また豊比盗_社宮座は小村に似ぬ厳粛な儀礼をもって維
持されて今日に至っていることも、ありし日のすがたをとどめているといえましょうか。神域より発掘された銅剣そ
の他の遺物のみが記録神宝何ひとつない神社の栄ある歴史を物語るものともいえましょうか。
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