第 五章 大城村近傍めぐり

一、善導寺 

大城村と川ひとつへだてた善導寺は村民にとっても深い関係をもっていますので、訪ねてみることにしま しよう。筑後志に「山本郡飯田村に在り。井上山光明院と号ず(後終南山といふ)。人皇八三代土御門院の御宇承 元二年鎮西禅師聖光諱は辨阿の開基なり。伝へいふ。当刹開始の時に当って善導大師の佛像、宋朝より来る。辨阿 これを崇めて此寺に安置す。今在る所即ち是なり。仍て善導寺と号す。鎮西流儀の本所にして世に鎮西本山と称す。 草野氏永平、同舎弟永信水田五拾町を寄附す。乱世幾歳を経て退転し、僅に百石の地を存しけるが、元和元年田中 兵部大輔吉政寺田四百石を加附し、都て五百石余今猶存す。起主禅師の時綸旨を賜はりて、代々の住職紫衣を着す るを定式とす。」とありその由緒がうかがわれます。

開基聖光上人は浄土門の元祖法然上人の高弟で、筑前香月荘の出世です。のち草野荘を遊行しつつ、当時曠野に続 く森林のこの地を佛法有縁の地として精舎建立をなしたと伝えられています。草野氏は特に辨阿に帰依し寺領を寄 進していますが、草野氏累代の墳墓も善導寺にあります。のち仁孝天皇は国師の徽号を下し大紹正宗国師と追号し ています。往時は山内三十六房といわれ、末寺は九州一圓に百五十寺に及ぶというありさまで近世に於ては国老格に 準ぜられ、まさに浄土派の霊域としてここに法燈七百五十年の歴史を有しています。

この長い歴史の間に善導寺も幾多の変転をとげたことでしょうが、現在の堂塔は安永五年の火災後の再建にかかる ものです。いく度かの火災にあいながらも国宝級の寺宝が多く、稀にみる楠の大樹とともに永久に残ることでしょう。 善導寺は単に法城としてその名の高いばかりでなく、文化面からも忘れることのできない幾多のものをもっていま す。コトは昔から筑紫筝といわれていますが、筑紫筝の源をたずねてみますと善導寺です。筑後志に「開山聖光上人 の法会(世に開山忌といふ)を行ふ。諸国宗派の僧徒来会して大念佛を修し、管絃を奏す。これを筑紫楽といふ。 当山の緇素其能に堪たり。」とあります。寛文年間善導寺の僧法水という者が、筑紫筝を学び、その名高く後江戸に 至り、この秘曲を上永検校城談に伝えました。上永検校はのちに八橋検校と改めこの秘術を三味線に移したといわ れています。すなわちわが古曲音楽のうえに於ける善導寺の存在は重要なものであるといえましょう。

また俳諧方面では、芭蕉の死後その高弟であった志多野坡は再三筑後に下り、筑後の俳諧の興隆に大きな影響を与 えました。野坡は善導寺に屡々訪れて当地方の後進を誘導しましたので、善導寺山内より木而・雪刀・升羽・杜夕 の俳人を続出しました。特に木而(聖光院住職)は名声甚だ高く幾多の佳吟を残していますし、善導寺村の野坡門 人等によって浅生庵野坡の碑が建てられその追福を営んでいます。大楠のもと高島村鹿毛其程の芭蕉句碑「月影や 四門四宗もただひとつ」があり、ありし日の善導寺を中心とする風雅の雰囲気がうかがわれます。かっては善導寺 領域も広大で、現在の飯田村馬場より西與田に至る東西七町、南北五町に及び、寺領は耳納山より筑後河畔にわた るものでしたが、近世に入って善導寺門前町が現在の地に形成されて今日に至っています。 幾多の由緒伝説を秘めた善導寺は大城村民にとって決して対岸の存在でなく切り離すことのできない密接な関係を もちつつ今日に至っています。郷土の八百年の歴史を物語る幾多のものが遺されています。 開山大紹正宗国師霊廟(聖光上人墓)・草野氏累代墳墓・筑後国主田中吉政父子墳墓など朝夕の勤行のなかに鎮ま りつつ。

二、北野天満宮

北野供日で親しい北野天満宮については、筑後志に「御井郡北野村に在り。社伝によれば後冷泉帝 の御宇、天喜二年二月二十五日中の関白道隆の男、藤原中宮太夫の次男眞似僧正始めて勧請し、源頼義、頼朝二郷 より神領を寄附せり。草野太夫重長再興し、慶長中田中筑後守忠政、神田五十二石を附す。承応年中先君瓊林公再 興あり、明和年中藩君羽林公殿門を潤色し、池橋を営み頗る佳境となる。毎歳九月廿五日祭礼神幸あり。其行粧巍 々として里民俳優をなす。俚俗是を風流と云ふ。還幸の後流鏑馬あり。座主を林松院と号ず。」とあります。 神佛混合のころは北野山と称し、北野荘、川北荘はその社領で僧兵神人多くその権勢並びなき存在でありましたし、 大城村とも深い関係をもっていました。現在の門前町北野新町は近世に入って形成されたものらしく、元禄年間今 山村より独立している記録があります。また天満宮に関係する幾多の伝説が残されています。

三、耳納山

朝夕見馴れ親しみ追憶のかずかずを秘めた耳納山、故郷の山として生涯忘れることのできぬ耳納山。典型的な断層山 脈といわれ、蜒々東西七里に連なる耳納山は水縄山・箕尾山とも書き、九十九峰深尾山、足代山、屏 風山の異名をももっています。筑後の民族発祥の地として耳納山麓一帯は縄文式、弥生式時代及び古墳時代の幾多 の遺跡遺物の宝庫ともいえます。これらの遺跡・遺物はわが国の考古学上見逃すことのできぬものが多く、資料と して実に貴重なものです。また高良山はその西端に位置し、豊富な遺跡をのこしています。 石垣山の観音・山本の観音・柳坂の薬師・高良山高隆寺国分寺等・佛教文化はまず耳納山麓に移入され、古代の歴 史は耳納山関係をぬきにしては考えられないくらいです。耳納の山名については幾多の伝説を秘めていますが、高 良山はじめ草野・問注所・星野等中世の豪族の據点として耳納山は兵乱興亡の巷と化したこともあります。 平和のよみがえった近世に至り、秀麗比なき耳納山は近郷村民の生産に直結した山幸多く灌漑水源としてまた伐材 薪炭・採草の地として無限の恩恵慈愛を与えてくれるのでした。 春夏秋冬の眺め佳絶なる耳納山・郡民を慰め郡民に訓え、郡民を励ます故郷の山耳納山。

  碩儒井上昆江の詩に「登山」と題して  

  麦抄菜花翻午風 青黄綺錯萬田同 渓頭黒禽声喜 人住桃霞桜錦中。


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