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    高皇宮さん
   
  高皇宮(こう)さんなうちの真向じゃった。うち同様大っか樹の生えとった。道から一段高 うなって、西側の南隅のにきから石段ばニッ三ッ登って境内さん入りよった。

  石段のすぐ北側に高さは、四間だんあっつろか大っか椋か何かの株から芽の吹いたこたる 古株たんのあって、根のとこの、こう小山んごつ盛り上って、その根方てん幹てんに大っか くぼみのあって、子供の鬼このよか隠れ場所になりょった。そーに年経た木じゃっつろ、ほ んに大きな株たんじゃった。

  境内の中ほどに何のためじゃり石垣石のごたる平石ば長ご続けて置いてありよった。その 石の列ばつっ切って南北に拝殿の前まで参道に平たか切石ば敷き詰めてあった。拝殿、も神 殿も南向に建っとった。神殿の西側に絵馬堂もあった。

子供どんな梁てん、欄間てんに上って、よう遊びよった。あたしどんが小まか頃は、絵馬堂は無かったけん、 拝殿と神殿が子供の遊び場じゃったが、東野中の王子宮さんの建直ったとき、古か絵馬堂ばこっちに買うて建 てたつたい。神殿の西南の方の、少し畑のごつなっとったとこが、安芸守さんち云よった神 主さん方の跡てろうち云うこつじゃった。

  境内の西から北側の方は、椿てん柴の木てんが藪のごつ茂って、東北のすみに、いちよう の高か木のあって其南側に背のひーっか拝殿の前に枝の垂れさがったごっなった大樟のあっ て其南側に梅の木と手洗鉢とが並ろどった。又其南に真直に何の木があって、この木に笹引 の時の笹竹ば、きびりつけよった。此の木のそばから石段ば四、五段登っと、高皇宮さんの 境内の東南の隅で杉のいっぱい生えとる中に天神さんのお堂のあったつたい。天神さんの杉 林から続いて、杉ん二列に道に沿うて、境内の南西の隅まで生えとったけん、高皇宮さんと、 うちとのあいだの道や、ひるまでん薄暗かったたい。うちにもずらーっと大っか木の道沿い に生えとるもんじゃけん。

  高皇宮さんな東組のお神、天神さんな谷組のお神じゃった。
  高皇宮さんなくさい、その縁起ば書き写すち云うて、良右衛門さんの、ちゃんと書き写し て諱の泰平ち署名しとんなさった写のあったが、久留米高女が有馬別邸あとに移ってからの 記念展覧会のとき、女学生が出品するけん貸してくれち云うけん貸したところが、とうとう 戻らず貸し失いしたたい。ばってん、その縁起写しの内容はあたしも覚えとるもん、その内 容は、いまの高皇宮さんのとこの藪の中の高か樹に、毎晩宮ノ地の方から火の玉の飛うで来 よったげな。慶長年間のこつげなたい。そりからそのうち、神代氏のうちの誰かが夢見たげ な。そりが「自分な安徳天皇の霊である。いま宮ノ地に高皇宮として祀られてはおるばって ん、大水のたび泥水ば浴びにゃならんけん、いま火の玉になって、飛うで来とるとこに祀り 代えて貰いたか、もし祀り代えて呉れたなら、国分の水は、どげな旱魃からでん守ってやる」 ち云うこつで、同じ夢ば七晩続けて見たげなたい。そっで宮ノ地の方から、お宮ば移して祀 ったち言うこつじゃったたい。

  慶長年間に出けたお宮はどげな社殿じゃったじゃり、知りようも無かこつばってん、あた しどんがおぼえとる社殿な、構えはそげん大きうは無かったばってん瓦葺で朱塗りのてすり どんがあって、村神さんの山王さんよりよっぽどよか社殿じゃったたい。

  坂本さん、高皇さん、天神さん、なもともと、それぞれの組の氏神さんじゃったたい。そ りばってん明治の三十九年頃じやっつろか、そげな組の氏神さんてん、外の小まかお神も引 っくるめて、みんな村の氏神の山王さんに合祀したたい。小まかお宮の沢山有っとは、お祭 がええ加減になってお神がおそまつになるけんち、お上からのお達しのあったけんげなたい。

ところがその後東組に火事の出ろうでちしたり、うちのお父っつあんが若死しなさる、一夫 も死ぬで一年に二葬礼も出すし、組内の一夫と同じ年じゃった子供達が次々に死ぬし何じゃ 彼じゃあったげなけん、東の連中が気にして、田主丸の方に何でんよう分らっしゃる考え人 (にん)さんのござるち云うて、そこに参ったげなりゃ、高皇宮のお神ゃまあだ元のとこにご ざるけん、そのお神の崇りござるとち云うたげな。そっでまた祀るこつにして、ちょうどう ちの庭先に何かば祀るつもりで置いとった石の祠ば上げたけん、もとのとこにお祀したたい。

  高皇宮にゃ昔、うちから田ばどりだけか上げてあって、そりがお祭りの費用になりよった げなが、山王さんに合祀したとき田だけは東組に残っとったけん、またその田のあがりでお 祭りしよった。そりけんもとから高さんのお祭のときは、その記念にち云うてお神酒(みき) と、するめばうちに持って来よったけん、またお神酒てんするめてん持って来るごつなっと りよった。

そりばってん昭和のはじめ頃じゃったか、大正の末頃じやったか、よう覚えんばってん、 東組がその田ば売って共同風呂作ったたい。広か道端に。そしてお祭はその風呂銭のあがりで するごつなったけんでじゃり、そりからはするめもお神酒も来んごつなったたい。


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