SNK >> デジタルアーカイブ >> 初手物語
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村の小学校 | ||
あたしどんが小学校は、いまの権藤の”のり田”になっとっとこが、道から一段高うなっ とってそこにあった。ずうっと藪で、その藪ば開いた東南の隅じゃった。小学校の敷地の東 南の角にゃ火の見台の立っとった。 その火の見台は日露戦争ごろにゃ、馬場ん田さん建てか わっとったたい。 学校は、わら家でクドのごたる形に校舎ん建っとった。南向きで、まんなかの一部屋が先 生たち、西側の部屋が、上級生、下級生は東側の部屋じやった。教室のそばに大っか棕梠の 木のあってみんなそれ登りょった。 運動場は西側から北側さん校舎の幅ぐらいの広さじゃっ た。入口は南側で、石段ば、二、三段上りよった。 校長先生は、国分ん南の庄屋どん跡の神代太次郎さんじゃった。国分村にゃ小学校が、三 つあって野中ん方は高屋敷ちゅうとこ、鞍打ん方は六軒屋の南の方内藤さん方ん前じゃった。 校長先生は一人で、この、三校の校長さんじやった。 祝祭日には、国分、野中、鞍打の三ヶ 所ば順まわしして一ヶ所に村中の生徒ば集めて、式ばしよんなさった 高橋先生ちおんなさった。京町か洗切のお人じやったがほーんに、おごりょんなさったけ ん、いっちよん好かじゃった。中島先生ちゃ道海島ん出じゃった。 中村弘先生は権現山のお 方じゃったが、あたしがのち、御井高等小学校さん行ったりゃ、またそこさん先生になって 来なさった。この先生にゃああたたち兄妹合せて四人ながらお世話になったたい。ああた達 のときゃ校長さんになっとんなさったたい。 学校の本な、ハ、ハト、マメ、何とかじゃった。子供が何ちゃ「狼が来た」ち、すらごつ 云うあの話てん、字ば知らん男が、うなぎ屋の看板の字の読めじゃったけん、さけ持って来 いち云うて、ここは鰻屋でございますち断られて恥かく話てんあったたい。 その頃は、なかなかみんな学校に来んもんじゃけん、しゃっち、来にゃいかんち云うて呼 出しよんなさった。 年の多かった子供のおったけん、年の多か子供は二年生に編入したりし よんなさったはってん、一人やめ、二人やめであたしどんが卒業した時や十人ぐらいじゃっ た。男の子は割りに来よったばってん、女ん子はほんに来よらじゃった。 うちん出入の者の子供が学校に来んとき、親達に「なし学校にやらんろ」ち云うと「行け ち云いますばってん行こでちしまっせんもん」ち云うけん、子供ん方に、「なしこんろ」ち云 うと「うちで子守せにゃんち云わしゃるもん」てん、「もんめん(木綿)織らにゃんもん」てん ち云よった。 あたしゃうちから学校ん近かけん、少し位の風邪引きぐらいんときにゃ休まず 行きよった。そすと、うちからおばやい達が薬びん持って来よったたい。四年生卒業すると きゃ針箱ば貰うた。賞品貰うたつはあたしだけじやった。 |