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    千磐家の人達
   
  千磐(ちわや)大枝さんな、名が京之進で大枝は号たい。短歌ばようしよんなさった。家は 京ノ隈で殿様のご使者役じゃったげな。幕末頃は、ようお江戸から久留米まで、お早に乗っ て行ったり来たりのお使いのありょったげな。そげんときゃ、しっかりお腹に白木綿ばぐる ぐる巻いて、籠の天井から下がっとる紐ばつかまえて、揺るっとばちっとでん避くるごつし よったげなばってん、やっぱお腹の揺るるもんじゃけん、腸の一生弱うして困りょんなさっ た。

  ご一新後いっとき下(シモ、三潴郡)の方の戸長になって、おいっとったばってん、村の税 金ばよう納めきらん者のあったりすると、戸長の責任じゃけんち自分の立替えて払よんなさ ったげな。久留米さん帰って来て、両替小学校ば建つる何かの役しとんなさった時ごーほな 大水の出て、小学校建つるとに持って来てあった材木のみーんな流れて仕舞うたげな。その 材木流したつは自分の責任ち云うて、材木代ばまた払いなさったげな。侍上りの貧乏なつに、 そげん次から次、正直すぎるち云うか、昔の侍かたぎで払いなさるもんじゃけん、いつでん 貧乏ばっかりしよんなさったたい。

  子供は三人あったばってん、女の子は、小学校の先生になって、あいものう死んで、武雄 と静雄と二人の男の子は、武しゃんが牧師、静しゃんが早稲田出て伝習館の先生じゃったば ってん、結核患者んおった部屋借って、うつったてろち云うて、こりも若うして死んなさっ たし、武しゃんの牧師は耶蘇てんなんてんち云うて、好きなさらんけん、結局伯母さんな後 家さんになって一人になんなさったけん、うちさんおいっとって、うちでおかくれたたい。 おきあげ(押絵)てんなんてんがほんにお上手じゃったがー。

  千磐ちゃ、もと楠ち云うて楠正成の子孫が征西将軍のお供して来とって、筑後のこのあた り土着したげな。宮ノ陣あたり、楠姓ば名乗っとった方は、土着したまま百姓になり、千磐 姓ば名乗った方が有馬家に仕えたち云う話たい。


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