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    負 債
   
  お父っつぁんのおかくるるときも、長いたみで色々々お金の出るこつばっかりでおかくれたのち は、お父っつぁんの名儀の土地ばお父っちゃまの相続しなさったけん、相続税の値ぶみが負債よ り少なかったけん、相続税はかからじゃったたい。負債はちょうど一万円じゃった。

  とにかくお父っつぁん名儀が一町何反か、あたし、おっ母さん、ばばさん名義みんなかき集めたっ ちゃ、宅地、藪、畑,田みんなで四町だんあっつろかの。外に住んどる家と倉二っ、物置作小屋 兼用のごたっとが一つと、栄所の前の善真館、こリゃ家は大っかばってんほんな空屋同然、屋敷 うちの貸家と外に小まか貸家三軒だけじゃつた。

そげんとからの収入が、田の預米がたった四十九俵あまリ、畑預米の大豆が二十五俵。地代家賃 が合せて月に四十円どんじゃった。うちで食ぶる米はまぁだ男達の何反か作りょったが四十俵だ んあっつろか。お父っちゃまの給料は十五円じゃったが、こりゃ有って無かごたるもんじゃった。

  こっぢゃどんこんならんけんで、親族会議のあったたい。太田の耕次郎さんな、自分の失うなし なさった経験のあんなさるもんじゃけん、何をおいても、第一番に家屋敷売り払うてしもて、地 道に給料取リの生活すりゃ、預米てん地代、家貸のあるもんじゃけん、結構ゆっくり生活の出来 るけんち、そうにすすめなさった。

佐々の伯父っつあんと常寛さんな、家屋敷まで売り払わんでん骨董類ば売り払うて負債ば小も なし、家屋敷ばもちっと利用すりゃ、十分手堅う給料取りで行ゃ、やり通さるるじゃろけんち云 う意見じゃった。後から考ゆりゃ太田の小父っつぁんの意見に従ごうとったが一番じゃったったい。

ばってん、太田は無うなしなさった人ち云う気持のあるし、ほんなこっあ無うなしなさった人の 云いなさるこつじゃけん大事に聞かにゃんとに、苦労して見らんと、その辺がわからんとたい。 やっぱ今迄の家に未練のあるし、お父っちゃまと青木は、自分方から養婿に人って、家屋敷売っ たじゃ面目にかかわるち云うとこんあって、結局佐々の伯父っつぁん方の意見に従うたが、従う たっちゃ真面目にやって行きゃ、やり通せたつばってん・・。

  そんなら骨董売ろで、前から出入りしょった骨董屋さんどんも何人でん集って、家の中、倉の中、 がさごそさせて、値うちのありそうなっだけ、お父っちゃまの東京に持って行って、その道の鑑 定家に鑑定書付けて貰うて来なさって、道具屋の草場さん、中村さんその外大人数で、翠香園で 売り立てしたリ何じゃ彼じゃ大ごつじゃったたい。

そして費用もそうに入ったばってん、そり差し引いて、七干円あまり負債払うたけん、三千円ばっ かりに負債の減って大分楽にはなったたい。   そん時古本てんお茶道具書画類ば森新に売ったりゃ、初めは真藤から騙されたてん云いござった げなりゃ、騙されどころか古本だけでん大儲けさっしゃったげな。そしてあげんとのまあだ無か じゃろかち高崎さんの自分で手紙どんやらっしゃったつの、火事の後迄も残っとったたい。そげ なふうで、その後は久しう残っとった骨董ば売り食いして、生活費てんに当てたたい。

そんとき残りの負債も払うてしまやよかもんに、お父っちゃまもそりば当にしたふうで自分の務 めもやめてしまいなさったもんじゃけん。そして、その頃高崎から、家屋敷ば一万円で売ってく れちしきり云うて来ござった。そんとき、そリも売り払うて、残りの負債ば払うて、ほかの持地 に、もっとっとした家どん建てときゃ、借銭な済んで、家建ててん其頃のお金じゃよか加減のお 金は残って、どげんでん楽に行かれつろが、何辺でん立ち直る機会のあったっちゃ、下司の分別 はあとからで、どげんかなろちゅうて立直りきらんもんじゃけん。

  失うなったっちゃ、あたしどんが先祖の残した物てん、世間態にこだわらにゃねーごつん無かこ つじゃったばってん、やっば皆そげな事に引掛けらるるもんの。


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