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    恒の進学
   
  そうこうするうち、恒が高等学校に行くち云い出したたい。折角学校も良う出来るけん出して やりたかが、どうしてそんなら学資ば作るか一向当てもなかもん。山本からは、高等師範に行っ ちゃどうの、そうすりゃ学資も少のうしてよかろち云いなさるばってん、恒ゃ学校の先生にゃ なろごつなかち云うもん。

軍隊の学校は近眼でむつかしかし、村ん者達も、あげん苦労して学校に出しなさらんでん、中 学校出なさったなら、どこかにどん勤めに出しなさりゃよかろにちみんな云よるちぅこつばっ てん、中学校ぎりじゃ一生芽の出るこつもなかろち思うし、ばってん、お父っちゃまも、お兄 さんも、もう中学ぎりで止めさしぅごたるふうじゃったもん。

そりばってん何とかなりそうなもんじゃけんち云うて、押し切って、とうとう試験受けさせた ところが、四年生から一ぺんで、佐高に通ったたい。一人息子が四年から高等学校に通ったな ら、ほんとうはうれしか筈ばってん、そん時ゃ嬉しかどころかほんと悲しかったたい。とうと う子供ん学資も出してやれんごつなって仕舞うて。

  昭和二、三年頃は、屋敷も銀行にお金返しきらんもんじゃけん、保証人じゃった井上さんのつ になって仕舞うとったたい。
  昭和三年には屋敷ば切り売りされて、いま居るとこも、知合の人ん買い取ってやってじゃった。 のちにまたそりば抵当に入れて、お金借って、名儀はお兄さんで、屋敷の名儀もお兄さんの名 にして貰うとった。

お父っちゃまん名にすりゃ、また押さえらるるもんじゃけん、そののちまた、そりば抵当にし てお金借り換えて、講にもかたったりして、恒の名にしときゃ又恒さん借金の差押えの行った りしゅうけんち云うて、お兄さんから、アヤの名儀に変えて、ようよう、うちの者の名に、十 年振り位に、ここの狭まか土地は返って来たたい。

アヤが、自分の名儀にして貰うて有難がってよかもんじゃり.腹かいてよかもんじゃりちどん 云よったたい。借銭の証人になされたごたるこっじゃったけん。

  とにかく学校ば何とかせじゃこてで、あっちこっち行って、頼うで見るばってん、お父っちゃ まん相変らず勤めろち云うたっちゃ勤めもせず、大っかこつばっかり云うて、ぶらぶらしとん なさっとに、学資は出してやるわけにゃいかんち云うとが、みんなの意見じゃったたい。

そう云わるりゃ、ほんとそげんじゃんの。井上おかめしゃんてん、下坂おうめしゃんてんも、 色々心配して、奨学資金の出るとこんあるけんち、頼うでやんなさったばってん、親が働いて、 不足するとなら出してやるばってん、てれんぱれんしとっとにゃ出してやれんち云うこつじゃっ たたい。

  有馬さんの奨学資金だけは借るこつの出けたばってん。そりから、あーしゃんの、ああたの働 きなさる気のあるなら、私が働き口ばお世話しぅかのち、云いなさるもん。あたしもその頃は、 貧乏で気のひっからがって強ようなっとったけん、そんなら世話して頂だこうち云うこつで、 紺屋町の渡辺病院に二回附添いに行ったたい。

そりとも一回は、ちょうど其頃、岡野ん伯父っつぁんの尿毒症起して、やすみついとんなさっ て、付添の要んなさるごつなったけん、ああたんそげん働きょんなさるなら、よその知らんと こに行きなさるより、うちに来なさらんのち、ますしゃんの云うてやんなさったけん、伯父っ つぁんのお世話して、お金頂だいたりゃ、本当は出けんばってん、廿えてお金頂だいたたい。

  まぁどうやら、そっで、3回は恒に学資の都合もされたけん、こつでよかったち思うたたい。
  一軒行ったとこはどう云うもんじゃり子供ん耳の畸形じゃったたい。ほんに片輪子持った親は どげんあろにち思うた。なったけ片方の耳の親に気づかれんごつ乳飲まする時も用心して、せ めて、親の身体ん落つくまでは見えんで済むごつち気遺うたばってん、やっぱ知れんごつは出 けじゃったたい。貧乏はしてん、片輪の子てん何てんでなし、うちは良かったち、どりしこ思 うたじゃり知れじゃったたい。

  そげなふうで働きよったところが、下坂さんに人から色々の話の耳に入ったふうで、おうめしゃ んの、ああたのそげんして働きなさっともよかばってん、やっばああたはうちに居んなさった が良かばいち心配して云いなさるもん。そげなこつぁなかちあたしゃ思うばってん、兎に角う ちに居って、何か他の事しなさったがよかろち云うこつになって、あたしも家ば長ごうあくっ とはやめたたい。

お父っちゃまん、どこさん行っとんなさるじゃりわからんち云うて、ヨシが働き先に尋ねて来 たりするもん、そげなふうじゃったたい。おうめしゃんの石けんてん何てん売るとばして見な さらんかち云いなさるけん、石けんてん、焚きつけの新案たきつけてろち云うごたっとじゃった。

そげんと世話して頂いて少しゃ売るゝばってん、なかなか、思うごつ行かじゃったたい。ばっ てん何とか学資ば作らにゃならず、なり振りかまわず一所懸命売ってさるきょった。いっかだ ん、村内の家に夕方は入って行ったりゃ、けんもほろろに、「せからしか!今時分は入って来 て」ち、ことわられた、初手は、へいこら云うて来よった者に追払うごつ云はれた時ゃ、あた しん、ほんに悲しかった。

後ああたに、わけはどうであれ、おばさんどんが物売リに来た時ゃ、一銭でんお金持っとるな ら、断わったりせんで、ゴムヒモ一すぢでんよかけん、買うてやってくれんのち云うたつは、 其時のこつ思うてじゃったったい。

そげなふうで思うごついかんもんじゃけんそっで、うちあるもんで、売るゝ物な、何でんかん でん、うちに生えとった銀杏で作った重うして、どんこん仕様んなかった一間物の大きな戸棚 んあったっも、もとん出入りうちに買うて貰うて、昔の白無垢で絞ってアヤが他所行着物作っ とったっで、今々着らにゃんもんでん売ったりして学資作ったりしよったたい。

そりから井島ん泰しゃんのご供養の意味でち云うこつで、井島んおまきしゃんから学資出して 頂くごつなって、おかげでやっと息のつけて、高等学校の卒業が出けたたい。アヤが絞りん着 物のこつがおかしかもん。

アヤはあげなふうで、自分の着物の売られとるこつも知らじゃったらしか、ずうっと後(のち)、 電車に乗ったりゃ、何じゃりうちの着物のごたっとば着た見たこつんあるごたる娘じょが、前 に坐っとったばいち云うもん、ありゃあの頃ああたが着よったつば、そげなふうであすこん娘 じょに売ったっじゃったたい、ち云うたけん、どんどん笑よったたい、自分の一張羅ん着物の 模様でん、売られたこつでん、気の附かずようと覚えちゃ居らじゃったふうじゃん。

  まあとにかく、そげんして高等学校は卒業出来たりゃ、また大学にゃやらんで、中学校ん先生 どんさしぅち云う意見じゃんお父っちゃまでん、お兄さんでん、そりばってんそっぢゃ中途半 端じゃし何とかしてち思よったりゃ、束大の機械科受けて、出来そこのうてしもたたい。

高等学校の成績ゃほーんによかったげなが。そげな風で一年なとうとう浪人せにゃんごつなっ て、石原ん繁雄さんのお世話で家庭教師どんしょった。そして、九大の造船科に翌年は入った たい。石原ん繁雄さんてん、千栄寺ん和尚さんてんの出来る者ばどげんしてでん大学は出らじゃ こてち腰入れて、二人のお世話で、石橋正二郎さんが千栄寺の門従じゃし、石原ん繁雄さんも 良う知っとんなさったけん、石橋さんから学資出して頂くごつなったたい。

そんなら妹がこんど女学校出るならそりにも働らかせて学資の足しにさせたならち云うこつで、 ヨシも日本ゴムに使うて頂くこつになったたい。大学に入って一年ばかりで、大学の渡辺先生 のお世話で奨学金の出るごつなって、ヨシからの送金もいらんごつなって、よかったち思よっ たりゃ、まだ残っとった負債のこつで、とうとう破産の宣告受けて仕舞うたもんじゃけん、海 軍の依託生になろうち云うて、試験受けたりゃ成績ゃ良かったふうじゃったばってん、破産が たたったらしうして、成れじゃったたい。就職もそげな事で恒が望んどったとこにゃとうと入 れじゃった。


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