良成親王御陵墓 |
原始時代の日本人は、意外に深い山地まで住
みついており、熊本県の五木村などはそのよい
例であるが、矢部村の場合でもわずかながらそ
れをうかがい知ることができる。
昭和二十九年に御側川上流の梅地藪の道路上
のバラスの中から、鐘崎式と思われる磨消縄文
式土器の破片が発見されている。このバラスは、
梅地藪の西隣三倉のうちの稗田よりの矢部川支
流の川原(地図8)か、または日向神ダム水没
地帯の鶴集落付近の矢部川流域の川原(地図1)
かのいずれからか運ばれてきたものらしい。今
は水没して調査するすべもない。
また、殊正寺のニケ所からそれぞれ一個ずつ
の石斧が発見されている。ひとつは御側川の川
床(地図7)から、ひとつは善正寺本堂西側の
本堂敷石付近(地図6)に普通の石ころのよう
に落ちていたという。
ともに細粒砂岩で、前者は長さ約十ニセンチ、
撥形に近い短冊形であり、後者は約十三センチ、
頭部の細まった細形の乳棒状をなしている。両
者とも刃部は正面から見てやや直線的で蛤刃、
全面啄打したのち下半部だけていねいに研磨し
て刃部を鋭利にしている。
縄文式土器 |
石斧 |
以上、本村においては原始時代をさぐる考古
学的資料に乏しく、その研究も先学故田中幸夫
氏の注目する以外は皆無である。
しかし、上記の縄文式土器や石斧は、ともに
比較的近い所から出土しており、また隣村の星
野村や黒木町大渕で多数の石斧や石鏃(せきぞ
く)などが発見されていることから、矢部村に
も縄文式遺跡の存在は当然考えられ、縄文文化
人が住んでいたことが推測される。
また次の弥生式時代を物語る遺跡、遺物の発
見は、今日まで確認されておらず、古墳時代も
同様である。
今後の有志による調査、研究に待つ以外にな
い。