五条氏は、清原氏で明経家の家柄である。五 条家の遠い祖先は天武天皇で、その孫が大原王、 その孫が夏野で、夏野はのち清原の姓を賜わり、 右大臣継二位となった。その夏野から十三世が 良枝であり、その長子宗尚は清原の正統の血筋 として続き、次子頼元が五条氏の祖となった。
頼元は後二条天皇の時、権少外記兼音博士の
役職につき、ついで後醍醐天皇の正平二年(一
三四七)大外記の役目についた。建武二年鋳銭
司が設けられてからその大臣を助ける高官とし
て昇殿を許され、記録所の寄人となった。さら
に建武三年(一三三六)勘解由次官となった。
勘解由使というのは、平安時代役人の交替のと
き、前任者の不正・欠陥の有無などを調査した
役職で、頼元はそれを司る役所の次官になった
のである。(註、建武三年は、二月二十九日に
改元されて、延元元年となる)
三水の井(御側御陵) |
頼元は、延元元年(一三三六)懐良親王が七・
八歳のころ鎮西の宮として九州に下られる時、
輔弼扶養を命ぜられ、その子良氏、良遠ら十二
名とお供をした。宮は延元二年(一三三七)の
春、伊予(四国)の忽那(こつな)島の忽那一族をたよっ
て、ここで三年ほど滞在された。宮が忽那島滞
在中の延元四年(一三三九)八月十六日、さし
も英邁剛毅の後醍醐天皇も失意のうちに南山に
おいて崩御なされたのである。
頼元が伊予にいた時天皇が送られた五条家文
書によると、いかに頼元に寄せられる天皇の信
任が厚かったかということや翌延元五年四月二
十八日年号を興国に改められたこと、また一日
も早く南朝に敵対する者を平定して都に帰るよ
う通知があったことがわかる。
また別の五条家文書によると、六月二十九日
新帝後村上天皇から九州のことを懐良親王にま
かせられたことが記されている。それと同時に
正中の変で殺された日野資朝、俊基らに代わっ
て、南朝方の中心となった公卿四条隆資からも
頼元に書状が送られ、九州のことは征西将軍宮
にまかせられたので、いちいち報告するには及
ばないとの通知が来たことがわかる。
頼元は正平二十年ごろから朝倉郡三奈木に入り、 「無礙宗性」と号したが、正平二十二年(一三 六七)五月二十八日七十八歳で、この地で没し ている。
忽那島に滞在されていた宮の一行は、興国三
年(一三四二)五月一日薩摩(鹿児島)の津に
上陸して、谷山隆信の谷山城に入られた。谷山
の地は、桜島を臨む錦江湾に面し、鹿児島市の
南部にあるが、今は山肌が削られ工業団地や造
成住宅地になっている。
親王が谷山におられたのは、およそ六年間で
その間頼元の長子良氏がもっぱら親王に仕えて、
その教育に当たっていた。五条家は明経家で
あったから、頼元は学問の造詣が深くまた良氏
は特にその道に通じていたので、後村上天皇の
幼少の頃その教育に当たっていたほどである。
したがって天皇の信任も厚く、良氏が九州に下
るのを大そう惜しまれたことが、勅書によって
もはっきりわかる。
良氏は正平八年(一三五三)七月二十五日修 理権太夫を命ぜられている。正平十七年(一三 六二)正月十七日付の五条家文書で、後村上天 皇から良氏にあてられた書状にも信頼が厚かっ たことがうかがわれる。
良氏は正平十五年(一三六〇)十月三十日に
亡くなり、その弟良遠が跡を継ぎ、老父の頼元
とともに征西将軍宮にお仕えした。良遠は兵部
少輔の勅を受け、正平十八年(一三六三)九月
九日に将軍宮から筑前三奈木荘(朝倉郡)およ
び日向国飫肥南北両郷(宮崎県飫肥市)の地頭
職を下賜され、子々孫々まで世襲を許されてい
る。
頼元、良氏、良遠の父子三人は、正平三年(一
三四八)懐良親王の菊池に入られたときまでは
お伴をしていたが、後に筑後に入ったようであ
る。
正平十四年(一三五九)八月の大保原合戦に は共に親王につき従って戦っているが、懐良親 王が矢部で亡くなられた時は、良遠一人が側近 く仕えていたらしい。
懐良親王は、弘和三年(一三八三)三月二十
七日に亡くなられた。これに対し弘和三年四月
十四日付の良成親王から良遠の子頼治に宛てら
れた書状によると、まず大御所懐良親王の死を
悼み、賊が黒木に攻め寄せてきたのを撃退した
ことを褒められ、さしあたりの御用として「ハ
ンミャクの剣」を借りられたことが記されてい
る。親王が亡くなられたころ頼治は矢部に居て、
懐良親王に仕えており、黒木で大友一族の軍を
退けたと思われる。その後頼治は黒木の大渕に
いたらしく、父良遠の病中に良成親王からお見
舞いの書状が送られている。良遠は元中年間に
亡くなったようであるが、没年はわからない。
頼治は良遠の老後も黒木、木屋、星野氏らと
力を合わせて、南朝の再興を図っている。彼は
元中四年(一三八七)四月十七日付をもって左
馬頭に任じられ、宇土を攻めようとした今川軍
を迎え撃っている。親王もたびたび手紙を送り、
矢部山中の様子や稽古事の様子を尋ねられてい
るが、これは良成親王と頼治の年齢があまりか
わらず、四国や菊池にいた時も親しくされてい
たためであると思われる。このような功績に
よって頼治は筑後河北の荘園をもらっている。
元中八年(一三九一)九月、大友軍が津江か
ら矢部に侵入してきたので、宮は八代に移り高
田の御所に一時避難された。同年十月大友親世
が矢部を襲ったが頼治が撃退して手柄をたてた
ので、宮はその勲功をほめられている。その後、
宮は矢部に移られた。
元中九年(一三九二)南北朝の和議が成った
のちも、宮は頼治らとともに南朝の再興を図ら
れている。
応永二十五年(一四一八)九月、頼治は家督 を良量に譲り、名を「宗剛」と改めた。
元中十一年(一三九四)十二月十九日、宮は
頼治の一子に良量の名を賜わり、筑前国下津郡
に阿蘇一族の跡を与えて、ていねいにその功績
をねぎらっている。
こうして五条氏は、そののち頼経、良興、良 邦と相続し、代々矢部に住していたが、天正年 間ほぼ全国を統一した豊臣秀吉に追われて鑑定 統康父子は、豊後大友氏の日田郡高瀬村(日田 市)に移り住み、さらに肥後八代に住んだ。統 康の代に姓を矢部と改めている。統康はやがて 加藤清正に仕えた。統康の子長安の代に加藤忠 広の改易に際し、寛永七年(一六三〇)柳川藩 主立花宗茂が八代から呼び戻し、大渕村に移っ た。十五代頼安は立花藩山筒役となり、その孫 頼永のとき、姓を五条氏に復帰して今日に至っ ている。
良成親王御着用の甲冑 |
金鳥の御旗 |
五条頼元着用の甲冑 |
頼元から二十一代目の頼定の時、すなわち明
治三十年(一八九七)七月一日、祖先の忠節と
功績によって男爵の爵位を授けられ華族に列せ
られ、金三千円を下賜された。
さらに明治四十四年十一月、明治天皇が陸軍
大演習のため久留米地方に巡幸されたとき、頼
元に正四位、頼治に従二位を追贈された。当主
元輔氏は第二十四世で第二十二代になる。
同家に伝わる宝物は、錦旗をはじめとして良 成親王愛用の甲冑ならびに後村上天皇の宸翰、 良成親王の御筆、後醍醐天皇、後村上天皇の綸 旨など第一級の古文書十六巻三六五点も残って おり、国宝や国の重要文化財に指定されている。
良成親王自筆名字充行状 |
五条家文書は現在十六巻三六五通もあり、昭
和十三年七月国宝に指定された。
本文書は、頼元が懐良親王に随従して西下し
た当時のものから江戸時代末期に至る五条氏一
族の来歴を物語る根本資料で、その中には後村
上天皇宸翰(しんかん)、良成親王御筆、後醍醐天皇、後村
上天皇の綸旨(りんじ)、口宣案(こうせんあん)、懐良親王・良成親王の
令旨(りょうじ)、四条隆資、坊門親忠など南朝朝廷の書状
をはじめ、近世における九州の諸豪族、武将よ
り発せられた御教書(みきょうしょう)、印判状、書状および五
条氏一族の申状、譲状、覚書等が含まれている。
五条文書の史料としての価値が高いのは、い
うまでもなく五条氏が南朝の忠臣として前後征
西将軍宮に勤仕した関係で、その文書中に南朝
文書五十通を含んでいることである。
このように五条文書は南朝文書として特に重
要な史的価値があるが、その主要な点を挙げる
と、
第一に、その文書が南北朝時代のほとんど全
期間にわたっていることである。すなわち南朝
関係の五条文書で最も早いものとしては、延元
四年(一三三九)六月二十六日の義良親王、後
の後村上天皇の宸筆(しんぴつ)御書状があり、ついで延元
四年八月十五日の後醍醐天皇の綸旨や興国初年
頃の綸旨書状があり、これに続いて正平年間の
天皇・親王の宸翰、綸旨、令旨(りょうじ)などが数多く見える。
南朝の後期すなわち長慶・後亀山天皇朝の南
朝文書は、南朝の所在地およびその近隣である
大和、紀伊、和泉、河内の諸地域を除いては、
皆無の状態である。しかるに五条文書の中には、
文中、天授、弘和、元中年間の令旨、書状がき
わめて多い。特に元中九年南北朝の合一以後の
南朝年号を用いた文書が数通見えるのは注目に
値する。
五条家の古文書 |
第二には、本文書が南朝文書として内容の豊
富にして史料価値が高い点である。
五条文書の中で特に有名なものとしては、前
記延元四年八月十五日の後醍醐天皇の綸旨であ
る。これは後醍醐天皇の遺勅で、同天皇の素志
や精神或は南朝の成立するに至った意義、また
南朝が五十七年の長期間にわたって存続した由
来などを物語る最も重要な史料である。
さらに征西将軍宮の西下された次第は、本文
書によってはじめてくわしく知ることができる。
後村上天皇宸翰は五条文書中五点を数えるが、
うち一通は花押(かおう)(書き判)が存する。同天皇の
花押は、本文書と出雲の雲樹寺文書中に伝存す
るのみということが近年になってわかったとい
う。
長慶天皇宸翰は写ではあるが、その文辞は確
実に同天皇のものであり、内容も他に全くうか
がえない貴重な史的事項である。同天皇宸翰の
真筆は、高野山文書宝簡集の中に元中二年九月
十日宸筆御願文があるが、これを除いては一通
も伝わっていない。したがって五条文書の長慶
天皇宸翰は、たとえ写であっても、この点から
きわめて貴重な価値がある。
五条文書の中には、懐良親王の御筆は一通も
ない。しかし良成親王の御筆は、その数二十通
に近い。その御筆は、おおむね五条氏に宛てら
れた御書状である。その内容は重要な史実を含
み、興味深いものがある。ただし、おおむね年
号をつまびらかにせず、その記事は端書、裏書
により、その中の数通に年月日を記してあるだ
けである。
御筆文書の中には、懐良親王の薨去(こうきょ)を知り得
る弘和三年四月十四日付の御書状、長慶天皇お
よび惟成親王の動静をうかがい知ることができ
る元中八年御消息、五条良量に名字を与えられ
た元中十一年十二月十九日文書等がある。
良成親王自筆の御書状 |
元中八年十二月九日付の五条頼治申状案も貴
重な史料価値がある。この申状案と二通の良成
親王御書状とを照合してみると、元中八年十月
における矢部の攻防戦の様子がよくわかる。こ
の戦いのあとにも元中十二年十月の防禦戦が
あったが、これを見るためには元中十二年十月
二十日の親王の御書状があり、道徹(どうてつ)という者が
侵入したが退散したことを喜ばれ、その功をね
ぎらわれたことがわかり、別筆として五条氏が
「御在所矢部大杣」と記している。大友軍の矢
部攻撃の史実と、良成親王が矢部の地におられ
た事実が確認される貴重な史料である。
第三に、古文書学上から見た五条文書の価値
である。
後醍醐天皇の綸旨(髻綸旨) |
南北朝時代には、敵陣の間をくぐって携行す
る必要からきわめて小型の文書が行われた。世
に髻(もとどり)綸旨などという。髻の中に隠して携行する
という意味である。このような小型文書は綸旨
に限らず、勅書にも口宣案にも書状にもまた武
家方の御教書などにも少なからず見受けられる
ところである。しかしこのような小型文書が武
家方より南朝方に多く見受けられるのは、南朝
方の軍事的劣勢の苦労を示すものであろう。五
条文書はこのような小型南朝文書の代表的なも
ので、大部分はこのような形式のものである。
その中の代表的なものは、延元四年八月十五日
付後醍醐天皇綸旨、興国元年四月二十八日四条
隆資書状、興国元年四月二十九日後村上天皇綸
旨などである。
しかもこのような小型文書は便宜上うまれた
ものであるから、その大きさはかならずしも一
定していない。
前記諸文書はきわめて小型であるが、興国元
年六月二十九日後村上天皇口宣案、正平二十二
年七月二十五日後村上天皇口宣案、天授二年九
月十二日慶長天皇口宣案は、やや大きい。その
形状もかならずしも一定せず、延元四年六月二
十六日および正平八年六月二十四日後村上天皇
御消息などは、やや大きい小型の折紙にしたた
められている。良成親王の御書状中にもこれに
類するものがある。正平二年九月の後村上天皇
御消息はやや大きい小型の横に細長い紙が用い
られており、良成親王御書状にはこれに類する
ものが最も多い。綸旨、口宣案は天皇から発せ
られる公文書であり、本来宿紙が用いられるが、
時たま例外として白紙が用いられていた。
前述のように、戦陣用の小型紙の綸旨、口宣
案に宿紙を用いたものはなく、五条文書中の綸
旨、口宣案もみな白紙を用いている。
五条文書の史料として惜しまれる
点としてあげてみると、
第一に、五条文書は南朝文書とし
て至宝であり、これなくしては西国
における南朝史の究明はむずかしい
といわれているが、惜しむらくはそ
の文書類がわずか五〇点にすぎず、
史実の経緯を詳細にわたって明らか
にすることは、きわめて困難なこと
である。
次に五条文書は、年代不明のもの
が多いことである。
征西将軍宮西下の史料は、五条文
書中に究極の根本文書が存するにも
かかわらず、その年時が記されてい
ないために異説があり、いまだに定
説を得にくいところである。
良成親王御書状は二〇通あまりも
あるのに、ほとんど年時をつまびら
かにしないのはまことに残念である。
五条文書の代表的なものをあげて、
解説してみよう。
|
この文書は、小型白紙に細字をもって認めら
れている。いわゆる髻綸旨の典型的なものであ
る。本文書は、その内容において特に重要なも
のであり、有名である。
日付の八月十五日は延元四年で、後醍醐天皇
が崩御の前日、征西将軍宮にこ従する勘解由次
官五条頼元に賜った遺勅で、御大漸の事により
陸奥親王即ち義良親王(後醍醐天皇の第五皇子
で、後村上天皇)に譲位された次第、したがっ
て崩御の事あるも九州の官軍がますます奮励し
て軍忠を致すべきこと、行宮の所在地吉野山が
要害、士気ともに憂慮すべきもののないことな
どを配下の軍勢に伝達せしめられたものである。
頼元が懐良親王を奉じて行宮を出発したのが
延元三年(一三三八)九月であり、讃岐を経て
伊予忽那島に到着されたのが興国元年(一三四
〇)四月の頃であるから、この後醍醐天皇の遺
勅を拝受したのはその間のことであった。
弘和三年(1383)四月十四日付けの |
|
本文書は横に細長くやや小型の紙に書いてあ
る。署名はなく日付に四月十四日とだけあるが、
端裏書に「御筆(弘和三、四、十七)到来」とあり、本文の最
初に「大御所の事、菟角中々無申計候々」
とあるので、大御所即ち懐良親王薨去を悼み、
弘和三年(一三八三)良成親王が故親王の側近
であった五条頼治に賜ったものであることは確
かである。懐良親王は将軍職を退かれたのち、
筑後矢部の山中「御側」に篭居されていたが、
遂にこの地で薨ぜられたものであろう。
宮は弘和二年頃から病いにかかられていたら
しい。伊予「河野家之譜」によると、弘和二年
と思われる十一月十一日、五条良遠より河野通
直に与えた書状の中に「抑去比就御悩候、可被
進専使候、被佩公私御札両通、共備上覧之□慇
懃之御心中露顕、誠ニ御憑敷之由被仰出候」と
ある。また豊後の万寿寺過去帳に「癸亥三月二
十七日、征西将軍宮、醍醐院皇子」とあるそう
である。癸亥は弘和三年である。即ち宮は弘和
三年三月二十七日に薨ぜられたというのである。
五条文書のこの良成親王御書状を見るとこれは
信じてもよいのではなかろうか。
御剣、ハンミャクはつまびらかではないが、
五条家重代の宝剣ではないかと思われる。懐良
親王の薨去による葬儀に、さしあたりその御用
のために借りられたものであろうと解されてい
る。
黒木は親王御在所「矢部」の咽喉部をなす天
然の城砦であり、当時筑後入道黒木定善が守備
しており、宮の御在所になっていたので、九州
北軍の今川了俊、仲秋らは、菊池の諸城を陥れ
たのち、転じて矢部を攻撃してきたことが五条
文書でよくわかる。その中で、敵を退散させた
ことをよろこばれ、頼治の武功を讃えられたこ
とがわかる良成親王自筆の御書状や五条良量に
名字を与えられた親王の花押のある名字充行状、
敵将道徹を撃退した忠勤をほめたたえられた親
王自らの御書状などが残っており、親王の御消
息や当時の矢部を中心とした合戦のようすを知
るうえで、貴重な史料となっている。
永禄十年秋月休松の合戦の | |
永禄十二年の軍忠著到状写 | 天正六年の軍忠著到状 |
さらに、永禄十年(一五六七)九月三日の秋
月休松の合戦で、五条鎮定一族や家臣で戦死或
は負傷した武将の名前を書いた軍忠著到状、永
禄十二年(一五六九)五月十八日立花表におけ
る戦傷者を記した軍忠著到状写、日向高城麓に
おける五条鎮定の戦死者、戦傷者を記した軍忠
著到状などがある。その中で、戦死者に清原武
蔵守、清原左馬太夫とあるのは五条氏一族であ
り、鬼塚・石川・月足・柴庵・堀川・新原・大
渕・篠俣などの名が見えるのは、矢部に関係の
深い五条氏の家臣であったかと思われる。
前述したように、五条文書は南北朝時代から
江戸時代末期に至る天皇の宸翰、綸旨、口宣案、
令旨をはじめ、近世における九州の諸豪族、武
将より発せられた御教書、印判状、書状、五条
氏一族の申状、譲状、覚書等十六巻三六五通か
ら成っている貴重な史料である。五条家では、
毎年九月二十三日、御旗祭を行って親王の御遺
品、五条家宝物とともに、虫干しをかねて五条
文書の公開を行っている。