歴史の脚光を浴びた中世の矢部

鎌倉時代の矢部

鎌倉時代に入ると、文治二年(一一八六)五 月、藤原道隆の子孫といわれる上妻家宗が、上 妻郡の地頭職に任命されている。家宗は、それ 以前筑後守であったから、おそらく当時よく見 られるように、この地方の開発を行い、その土 地を足場にして新たに地頭職を得るようになっ たものと思われる。

激動の南北朝時代の矢部

釈迦堂(御側)

釈迦堂(御側)

南北朝時代になると、俄然この筑後特に矢部 の地は、時代の脚光を浴びることになる。

矢部の天険は大和における吉野山地のように 戦略的要地となり、南朝方の九州のひとつの重 要な拠点となった。

征西将軍宮懐良親王、後征西将軍宮良成親王 も一時この山深い地に住まわれていたし、良成 親王の御墓所も後世の考証によって、矢部川上 流の御側の地に定められるに至ったのである。

良成親王陵の側にある釈迦堂で、中世の小仏 像「大聖釈迦如来」(木造、仏師池延国)が見 出されたのであるが、この釈迦堂と釈迦如来像 は、良成親王陵墓決定以前にこの地にあった仏 堂及び仏像の名残であると考えられる。

南北朝・室町・戦国の時代は混乱の時代で あったにもかかわらず、意外にも矢部にあって は中世文化の繁栄した時代を迎えることになっ た。
釈迦堂の釈迦如来像

釈迦堂の釈迦如来像

これは地理的にほぼ同じ条件にあった星野で も同様であったらしく、現在に伝えられて国の 無形重要文化財に指定されている池の山のハン ヤ舞、浮立なども中世の伝統をつぐものであり、 矢部の八女津媛神社にも県の文化財に指定され ている浮立が伝えられている。

有力な史料の少ない矢部において、天文、永 禄、元亀、天正にわたって歴史的記念物が集中 して発見されるのはなぜであろうか。

南北朝以来、室町、戦国にかけて軍事的意味 において、有史以来文化的に無縁のこの地域が 新たに脚光を浴びることになったのは、具体的 には後征西将軍宮を奉じる五条氏の入部が大き な意味を持っている。

ついで、室町、戦国時代になると、東方から 絶えず豊後大友氏の影響を受け、西方から作用 する大内氏の勢力との接触点になり、矢部は最 も大きな歴史的役割を持つことになったものと 思われる。すなわち軍事的、戦略的必要から有 力な武将が従来は無視されてきた矢部川上流に 定住するようになり、ここにはじめて文化活動 が営まれるようになったと考えられる。

その一例として、当時の朝鮮の正史である 「李朝実録(りちょうじつろく)」によれば、大内氏の治下にあった と思われる矢部在住の武将で、朝鮮に使節を送 り、外交交渉をもったということが見られるほ どであった。

また、今日史料のうえで中世矢部の武人とし て跡づけられる栗原氏や江田氏、山口氏、轟氏、 江良氏などの氏があるが、南北朝時代に五条氏 系統の影響があり、その後の戦国時代もこれら の人々によってこの地方の文化は支えられたと いえよう。
射法の巻一軸(栗原照幸氏蔵)

射法の巻一軸(栗原照幸氏蔵)



栗原家に関する確実な資料のひとつに、栗原 照幸氏所蔵の「射法之巻」一巻が残っており、 虎伏木の江田丹吉氏宅には、懐良親王が愛用さ れたという古鏡二面と茶釜が保存されている。

そのほか、善正寺の厨子や宝きょう印塔、栗 原の観音堂の厨子や供養塔、板碑など永禄年間 の遺蹟、遺物が数多く残っている。

征西将軍宮と九州探題

鎮西探題の滅亡

鎌倉幕府の鎮西探題は、北条氏の一門が任ぜ られ、肥前の守護を兼ね異国防衛と九州の大 友・少弍・島津氏などの有力な守護の勢力を抑 える役目を果たしてきた。

やがて、京都では後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒 し、天皇親政の世を取りもどそうとして、北条 氏に反感を持った武士たちを動かし、兵を挙げ られた。幕府方の有力な武将であった足利尊氏 や新田義貞などが天皇方につき、ついに元弘三 年(一三三三)鎌倉幕府は攻め亡ぼされ、京都 の六波羅も足利尊氏のために攻め亡ぼされた。

九州でもこの年五月、少弍・島津・菊池氏が 連合して、鎮西探題の北条英時を攻め亡ぼした。 探題方には門司城にいた長野政道、山鹿城の山 鹿政貞をはじめ、原田・秋月・宗像氏らがいて、 北条氏の再興を図ったが成功しなかった。北条 氏の一族も、豊前に梨田氏、肥後の規矩氏など がいたが、大友・少弍氏のために亡ぼされた。

九州探題

こうして幕府は亡び、天皇自ら政治を行われ るようになった。世に建武の新政(中興)とい う。

しかし、建武の新政も長くは続かなかった。 新政は武家の手から政治の実権を奪い、かつて の天皇を中心としたはなやかな公家(貴族)政 治をめざすものであった。朝廷や公家は幕府を 倒すうえに手柄のあった武士を軽視し、恩賞も 公平に行われなかった。失望した武士たちは勢 い昔のような武家政治を望むようになり、建武 二年(一三三五)には、足利尊氏が天皇親政に 反対する武士を糾合して兵を挙げた。

はじめ尊氏とその弟直義は、北条氏の残党が 関東で叛乱を起こしたのを伐つために鎌倉に 下ったのであるが、新田義貞を排斥するという 名目で、後醍醐天皇に叛いたのである。尊氏は 天皇が尊氏を討つために下した義貞を箱根山の 麓で打ち破り京都に入ったが、京都では義貞や 楠木正成、北畠顕家に反撃されて敗れ、再挙を 期して九州に走った。

延元元年(一三三六)二月赤間関(下関)に 着き、闇夜に乗じて芦屋に上陸し少弐頼尚らの 迎えを受けた。さらに宗像神社の宮司宗像氏俊 のもとに拠り軍略を練った。

これを知った朝廷方の菊池、阿蘇氏は兵を進 め、博多の多々良浜でこれを迎え撃った。この 大激戦でようやく勝利をおさめた尊氏は、太宰 府に入った。ようやく尊氏に従う九州の武将た ちも増え、尊氏は四月三日少弐・大友氏ら九州 の諸将を率いて博多を出発し、水陸から京都に 攻め上った。

このとき尊氏は、一族の一色範氏を博多に残 し、筑前、筑後を抑えさせ九州の経営にあたら せることにした。これが九州探題のおこりであ る。

九州で軍兵をととのえた尊氏は、摂津の湊川 (神戸市)で楠木正成、新田義貞の連合軍を破 り、再び京都に入った。後醍醐天皇はやむをえ ず一旦は尊氏と和睦したが、間もなく京都を脱 出して大和(奈良県)の吉野に移られた。
これから朝廷は、吉野山に皇居をおく南朝と 尊氏のもり立てた京都の北朝とに分かれ、約五 十年に及ぶ南北朝の内乱が続くことになる。

南北朝動乱のようすは、古典「太平記」や吉 川英治の「私本太平記」に詳しい。

征西将軍宮

後醍醐天皇は、南朝の勢力を挽回するために 皇子を将軍として方々につかわされた。九州に は、懐良親王が征西将軍として下られた。

延元元年(一三三六)の秋、親王は五条頼元 ら十二人の公家とともに九州に向かい、途中瀬 戸内海で活躍している吉野方の武士たちを励ま しながら、五年後に九州の南端薩摩国谷山城に 入城された。ここで谷山氏とともに戦いながら 六年を過ごし、正平三年(一三四八)ようやく 目的地の肥後菊池氏のもとに着かれた。親王が 菊池氏によられたのは、ここを本拠に九州を平 定して、その勢いで京都に押し寄せようと考え てのことであった。

しかし、その頃の北九州には一色範氏や少弐 頼尚など北朝に味方する武士が多く、かえって 菊池の本拠が危ぶまれることもあった。菊池氏 は武時が鎮西探題の館に攻め入って討死したこ とでもわかるように、一貫して吉野方に味方し て戦っていた。懐良親王を迎えるときも、周囲 の状況をよくするために筑後に軍を進め、山門 郡竹井城を中心に範氏の軍と戦っている。この 戦いでは菊地方が敗北したが、親王を迎えて菊 池方の意気はいよいよ盛んになった。

貞和五年(一三四九)になると足利直冬(ただふゆ)が九 州にやってきた。直冬は尊氏の子であったが、 尊氏の弟直義の養子となっていた。ところが、 尊氏と直義の仲が悪くなってそのために直冬も 尊氏やその家臣高師直にねらわれたので、中国 地方から九州にのがれてきたのである。

一色範氏が九州探題になったことを快く思っ ていなかった少弐頼尚らは、直冬に味方して範 氏を追い出し、直冬を太宰府に迎え入れた。範 氏はやむをえず自分が守護をしている肥前の草 野城にひきこもった。

ここに九州は、探題方(範氏方・武家方)宮 方(征西将軍宮方)佐殿方(直冬は右衛門佐だっ たので直冬方を佐殿方という)の三つの勢力に 分かれて相争うことになり、その舞台は筑前・ 筑後が中心となったのである。

北朝方が二つに分かれたので、有利になった 宮方はその間に戦力を貯え直冬らを攻める準備 もととのった。肥前に逃れた範氏は、しきりに 京都の尊氏に援軍を求めたが、京都も吉野方か ら攻めたてられてそんな余裕はなかった。そこ でやむをえず範氏は宮方と仲直りして、直冬を はさみ打ちしようとはかった。正平六年(一三 五一)八月、宮方は征西将軍宮みずから五条・ 菊池・恵良などの諸兵を率いて筑後に攻め入り、 溝口城(筑後市)を攻め、瀬高から北上して筑 後の国府(久留米市合川町)に陣を布いた。

しかし、宮方についた範氏が筑後の河北の床 河で直冬と戦って敗れ、また博多方面から太宰 府を攻めようとした範氏の別軍もうまくいかず、 月隈原・金隅の二度の戦いに敗れ、征西将軍宮 の直冬討伐は成功しなかった。しかし、翌年の 秋には太宰府を陥れることができ、直冬は九州 から逃げ出し中国地方で再挙を図ったがうまく いかず、とうとう宮方に帰順した。

直冬が敗けるのを見た範氏は、再び宮方をは なれ敵対しはじめた。そこで宮方では範氏を倒 そうとして肥前に攻めこんだが、かえって戦い に敗れ、勢いに乗った一色の軍は早良郡青浦城 を攻め、さらに進んで頼尚のいる太宰府に迫っ た。太宰府あやうしとみて、筑後に陣どってい た菊池武光は、将軍宮とともに北上して太宰府 の南方で戦い、一色の軍をさんざんに撃破した。 時に正平八年(一三五三)三月のことである。

この戦いのあと、一色範氏の軍はふるわなく なってしまった。将軍宮は自ら兵を率いて、こ れまで範氏と組んで反抗してきた豊後の大友氏 を攻めて降し、豊前に侵攻し宇都宮守綱を味方 にして筑前に帰り、植木から博多に進出した。 いたたまれなくなった範氏は中国地方の長門に 逃げ去った。

北九州の北朝方を平定してしまった征西将軍 宮は、さらに南九州をもおさめようとして菊池 氏に日向の畠山氏を討たせた。京都の足利方は これをよい機会と思い、豊後の大友氏や太宰府 にいた少弐頼尚らにしきりに叛旗をひるがえす ように画策した。大友氏にしても少弐氏にして も、もともと武家方でただ一色範氏を九州から しめ出すために一時帰順していたにすぎなかっ たので、まもなく叛旗をひるがえし宮方に攻め かかってきた。

菊池武光の奮戦

菊地本城本丸跡

菊地本城本丸跡

正平一四年(一三五九)七月、征西将軍宮は 菊池武光をはじめ宮方の軍四万の大軍を率いて 筑後の高良山から水縄(耳納)連山に陣を構え、 筑後川をはさんで南下してきた少弐の大軍と相 対峙した。そのうち、少弐の軍が三井郡大保原 の台地まで退いたので、宮方は筑後川を渡りこ れを追い討ち激しい合戦になった。八月六日夜 のことである。戦いは熾烈をきわめ、将軍宮自 ら陣頭に立って戦われた。宮は身に三ヶ所も傷 を受け、一時は窮地に陥られたが、武光らの命 も惜しまぬ奮戦に助けられ、ついに少弐の軍を 総退却させることができた。少弐頼尚は数万の 兵を率いていたが、太宰府にさがる時にはわず か二十余騎に守られたにすぎない有様であった という。宮方にしても多くの死者や負傷者が出 たので、一気に追討ちをかけることができずに 終わった。

これが世に言う有名な「大保原の合戦」また は「筑後川の戦い」である。

宮が傷を受けられた甲冑は、現在五条家の家 宝として保存されているし、「大保原合戦」の 屏風絵が戦いの激しさを伝えている。また、太 刀洗町の柳氏宅にも雄壮華麗な合戦絵巻の屏風 が残っている。その激戦の際、血刀を洗った川 から太刀洗という名が起こったという話はあま りにも有名である。小郡市には「大保原合戦」 の古戦場の碑があり、また、戦後撤去されたが やがて復旧された菊池武光の馬上の雄姿が、小 公園に銅像として建っている。武光が太刀を 洗ったという場所にも記念碑が建っているが、 側を流れる太刀洗川は何の変哲もない小さい川 である。
筑後川の戦ふすま絵

筑後川の戦ふすま絵(五条家)


頼尚の敗戦を聞いた京都では、将軍義詮が早 速豊後の大友氏を督励して勢力を挽回させよう とした。しかし、その後の頼尚はめざましい働 きもできず、わずかに肥前の龍造寺や松浦・高 木らの諸氏が戦いを挑んだにすぎない。翌年武 光は、太宰府を攻めその翌年も再び攻めて、少 弐の館を焼き打ちした。頼尚は逃れて宝満山に たてこもり、なおも抵抗しつづけた。武光は軍 をかえして頼尚の一族少弐頼国のたてこもった 油山を破り、ついで頼尚の弟冬資と粕屋郡青柳 で戦って勝ち、さらに大友氏時を宗像城に破っ た。

こうして筑前一帯の武家方はなりをひそめた ので、征西将軍宮は御在所を太宰府に進めるこ とができ、その後しばらくは九州の経営がここ で行われることになったのである。

太宰府は、その昔朝廷の遠の朝廷(みかど) として建てられた役所であったが、武家の世と なって太宰少弐であった少弐氏が治所として長 くとどまっていたのである。今や征西将軍宮の 御在所として平安の昔にかえった観がある。

これより先、九州探題として下ってきた斯波 氏経も、この形勢を見てどうにもならないと 思ったのか、正平十八年(一三六三)には九州 を捨てて引き上げてしまった。また斯波氏のあ とを受けて九州探題になった渋川義行も、備後 (岡山)まで来たが、宮方勢にさえぎられて数 年後備後から引きかえし、ついに九州には入れ なかった。

こうして九州の大部分を平定された将軍宮は、 残された目的―京都に攻め上る―を実現し ようとして瀬戸内海の河野氏と連絡をとったり、 また自分の後任として後村上天皇の皇子良成親 王を後征西将軍として迎えたりして東上の準備 に心を砕かれた。しかし、瀬戸内海は北朝方の 水軍の活動が激しく、この計画は思うように進 まなかった。また、不運にも正平二十三年(一 三六八)には、頼みとされていた後村上天皇が 亡くなられたりして容易にその目的を果たすこ とができなかった。

たまたま正平二十四年(一三六九)、明国の 使者が博多に来て将軍宮に拝謁して明が建国し たことを告げ、そのころ中国沿岸を荒しまわっ ていた倭冠(日本の海賊船)の取り締まりを要 求してきた。宮は書状が日本を属国扱いにした 文章だったので相手にされず使者を追い帰した。 その翌年も再び使者をよこし、明の属国になる よう要求してきたので、宮は元冠の例をひいて 使者をおどして追い帰された。その後も我が国 に朝貢をすすめる使者が来たが、最後まで聞き 入れなかったので、明の天子は激怒した。しか し、さすがの明の天子も「日本は征すべからず」 と遺言したという。


年表(南北朝時代)
時代
天皇
年号
西暦
日本、郷土のできごと
南






北







朝







時







代







後村上





(崇 光)






(御光巌)














長 慶

















(後小松)
後亀山




後小松


延元 3年


延元 4年
興国 元年
興国 3年
興国 5年


正平 2年

正平 3年



正平 6年
正平 7年
正平11年

正平13年

正平14年




正平15年
正平16年
正平20年

正平22年
正平23年
建徳  元年
建徳  2年
文中  元年

文中  2年
文中 3年
文中 4年
天授  元年


天授 2年
天授 3年


天授 4年

弘和  元年
弘和 2年
弘和 3年
元中 4年
元中 8年


元中 9年


1338


1339

1340
1342


1347

1348



1351
1352
1356

1358

1359




1360
1361
1365

1367
1368
1370
1371
1372

1373
1374
1375
1375


1376
1377


1378

1381
1382
1383
1387
1391


1392
・尊氏室町幕府を開く
・菊池武重高良山に大伴氏時と戦う
・菊池武敏黒木城に拠る
・北畠親房神皇正統記を著す
・天皇五条頼元に勅して九州の事を委ねられる(8月)  
・五条頼治懐良親王を奉ず                    
・征西将軍宮懐良親王島津貞久を薩摩に撃破する   
・懐良親王薩摩に着せらる 約6ケ年間滞在五条良氏
  もっぱら御教導の任に当る 
・天皇五条頼元等の忠節を褒す
・一色直氏筑後守護となる
・この頃より倭冠さかんとなる
・少弐頼尚筑後守となる
・懐良親王肥後の宇土、菊池を経て筑後に入る 五条をはじめ
 宮野教心、その子寂慧、木屋行実、黒木善等一斉に王事に勤む
・懐良親王溝口城を陥れ瀬高に拠る

・羽犬塚六所宮社内に正平11年の刻字ある二輪塔あり後人之を
 正平塔と称する 
・一条に満願寺建つ 
・草野武経筑後守となる 
・新千載和歌集成る
・懐良親王菊池武光と共に少弐頼尚を筑後川に撃破す 
 (大保原合戦 太刀洗の名おこる) 
・筑後川の大合戦八女郡人の大部は親王に従って戦い親王も奮戦
 して重傷を負われる(筑後川の激戦に木屋行実先鋒となって奮戦)
・五条良氏卒し良遠つぎ矢部高屋城に拠る 
・官軍大宰府を占領す この頃良成親王誕生 
・渋川義行九州探題に補せられたが九州には終に来ず時建徳元年
 中国より引き返した この頃良成親王九州に着かれる 
・五条頼元朝倉郡三奈木に卒す(78才) 

・明の使節征西府に来て倭冠の禁を乞う
・今川貞世(了俊)九州探題となる
・今川了俊筑後に転戦する 菊池武之を破る     
・大宰府落城する(8月)
・菊池武光卒す
・菊池武敏卒す
・菊池武政足利義満の軍と高良山で戦う
・菊池敏朝今川了俊と戦う(水島台の戦)
・5月から10月に於て懐良親王将軍職を良成親王に譲り矢部に
 隠退され五条良遠もっぱら仕える
・懐良親王明と好を通ず
・千布蜷打の戦に官軍に敗れて肥後に退く(正月)
・菊池武朝大友親世を破る 今川了俊矢部を攻めんとして
 川崎より引返す
・良成親王託摩原に奮戦され今川了俊軍を破られる(1月)
・辺春に厳島神社を祀る
・6月菊池落城する、親王「たけ」に難を避けられる

・懐良親王薨去(3月27日,55才との説)
・上妻区祈祷院に宮園八満宮建つ
・九月八代陥り良成親王高田御所に入られる
・大友親世矢部を攻めて五条頼治に敗れる この頃より良成親王
 矢部に在城される(33才)(10月)
・南北朝合一後亀山天皇京都に還幸神器を後小松天皇に伝えられる
・この頃豊後に大友氏起り九州一円に権勢を振うこと約100年
・元中年間に黒木城は大友氏に落される
室
町
時
代
 
応永  元年
応永 2年
1394
1395
・菊池武朝卒す
・大友道徹矢部を襲い五条氏に撃退される
・良成親王五条頼治に感状を給う

懐良親王と大円寺

矢部から山ひとつ越えた星野村土穴に玉水山 大円寺という曹洞宗の古刹がある。開基は聖武 天皇の神亀二年(七二五)というから今から約 千二百五十年以上も昔のことである。御本尊は 秘仏で五十年に一度開帳されるという伝行基作 の十一面観音菩薩である。

また大円寺は懐良親王ゆかりの寺でもある。 征西将軍宮懐良親王は、南北朝時代の正平四 年(一三五九)、史上に名高い大保原の大激戦で、 三創の傷を負われ、星野で傷を癒されたという。 合戦の翌々年には懐良親王は太宰府を陥し入れ て征西府を置かれたが、文中元年(一三七二) に今川了俊に太宰府を追われるまでのわずか十 一年間が征西府の全盛期であった。文中三年(一 三七四)秋、高良山を撤退した南朝軍は、耳納 山を越えて星野に入って再起を図った。今川了 俊は激しく攻めたてたが、星野、矢部の天険と 南朝方の死守によって攻め入ることが出来ず、 谷川城(立花町谷川)に陣をはり親王の動勢を うかがっていたが、百二十日余りの滞陣ののち、 肥後へ転戦した。

その後、天授三年(一三七七)三月には、今 川了俊は再び筑後で活動を始め、善導寺(久留 米市善導寺)に陣を布いて、そこからへだたる こと四里の懐良親王の御在所をうかがっていた。 善導寺から四里といえば、直線にすると矢部あ たりになるが、当時正確な地図もなく道路も迂 回していただろうと思われることから星野であ ろうという説が強い。

それに先立って同年二月、懐良親王は高良大 明神の冥慮をたのまれ、高良玉垂宮下宮に願文 を奉じ、四月十八日に大円寺に入られた。そし て弘和三年(一三八三)三月二十七日この地で 御年五十五歳で亡くなられた。

法謚は、一品卿征西大将軍懐良親王悟慎大禅 定門と称される。

大円寺の東北方の地で御尊骸を荼毘に付して 大明神山の中腹に埋葬し、九尺九寸の観音堂を 建てたという。今は、観音堂はなく、杉、桧の 木立ちの中に玉垣がめぐらされ、墓石が建てら れている。密かに葬られた場所にふさわしい山 中である。

大円寺の境内の一隅には「おつれどんの墓」 と呼ばれる古い五輪塔がある。 その地輪に

「懐悟院殿 良慎重貞大姉 元中六己巳年 三月十五日寂]

とある。この供養塔は、明らかに親王の奥方で 菊地武重の娘重子姫の墓である。今はその側に 立派な御影石で復刻されている。

昭和五年八月十七日、大暴風雨で大円寺が倒 壊した。そのとき、たまたま襖の下張りが発見 された。その襖の下張から懐良親王の菊桐の紋 どころと、大円寺の由来書、それに「金長大王」 という文字の見える回向文の断簡が発見された のである。それによると、懐良親王の御墓所の 場所と毎月二十七日の命日に、大円寺の小僧が 墓所に参詣して回向していたという貴重な歴史 的事実が判明したのである。

懐良親王がどこで亡くなられ、どこに葬られ たのか史学界の謎で、星野の大円寺のほか、八 代、久留米の千光寺や日田や矢部などの諸説が あって論争の種となっている。

明治十一年、宮内省は八代市宮地村(八代市) にあるものを宮の御陵墓と決定した。また明治 十三年には八代神社に懐良親王と良成親王の御 霊を合祀した。

しかし、前述のように、懐良親王にゆかりの ある史料は星野の大円寺に集中的に発見され、 懐良親王の薨去の地と御墓所は、星野であると する多くの郷土史家の説は説得力がある。

今川了俊、九州探題となる

三代将軍義満は九州の頽勢を挽回するため今 川貞世を派遣した。貞世は了俊と号し、武将で ありながら和漢の詩文にも秀で、多くの著書が ある。吉田兼好の「徒然草」を世に出したのも 了俊である。

了俊は豊後の大友氏と謀り、その子義範を豊 後方面に、弟仲秋を肥前松浦に上陸させ、自ら は門司に入って時機を待ち、文中二年(一三七 三)三方から軍を揃えて大宰府を囲み一挙に 攻め寄せてきた。菊地武光は大いに防戦につと めたが、ついに敗れ大宰府をのがれて、筑後高 良山に退いた。
大明神山墓

大明神山墓

高良山は肥後の隈府(菊池氏の本拠)と太宰 府を結ぶ中間にある要地で、太宰府を奪回する のに都合のよい場所である。武光はここにとど まって作戦を練っていたが、まもなく病気にた おれ、その子武政も生葉(浮羽郡)に侵入して きた今川勢と戦い、三井郡北野で戦死した。武 政の子武朝は当時わずか十二歳にすぎなかった が武政のあとをつぎ、一族の武義、武安らの助 けを受け高良山に陣をしいた。しかし、これま た三井郡福童原の戦いに敗れ、今川方が大挙し て高良山に迫ったので、将軍宮を奉じて肥後の 隈府に引きあげた。

ところが、まもなく貞世が今まで協力してい た少弐冬資を疑って、肥後の水島の陣で殺害し たことから、大友、島津氏をはじめ九州の諸将 が貞世に背くようになり、その対策に腐心した。 ようやく大内氏の援助でこれを抑えることに成 功した。

その後、了俊は幕府の信頼とその才能・努力 により約五年間、探題としてよくその地位を保 つことができたのである。

弟仲秋を肥後守護代として肥後綾部におき、 子貞臣を豊後に、その他の一族を筑後、肥後、 豊前、筑前においたが、その間少弐、大友、島 津氏らをたえず警戒しなければならず、彼の実 際の支配力は北部九州に限られていた。

宮方振わず

  
大円寺(星野村)

大円寺(星野村)


懐良親王は征西将軍の職を良成親王に譲られ、 自らは肥後八代城や矢部山中の五条氏の館に住 まわれ良成親王を援けられた。しかし、その後 の宮方はいっこう振わず、初志を果たされない まま弘和三年(一三八三)失意のうちに亡くな られた。お年五十五〜六歳であったという。

懐良親王の晩年は、戦いの最中であったので、 親王の亡くなられた場所も定かではない。八代 だとも日田だともいわれている。あるいは三井 郡山本村(久留米市山本町)の千光寺だとも八 女郡星野村の大円寺だとも本村矢部村だともい われているが、今は熊本県八代郡宮地村(八代 市妙見町)のお墓が親王の御陵墓とされている。

良成親王を後征西将軍と仰いだ宮方は、再び 勢力をもりかえそうと各地で今川勢と戦ったが、 戦況はかならずしも好転せず、かえって今川勢 がしばしば肥後に攻め入り、菊池の本城をおび やかした。弘和元年(一三八一)にはついに菊 池城も陥落し、菊池の諸将も多く討死した。親 王は染山城にあってこれを聞かれたがどうする こともできず、かえって染山城を落ちのびなけ ればならなくなり、宇土城に移られ最後には矢 部の大杣の地に在所を定められた。矢部の地は 天険の要害であり、そのうえ五条氏や黒木氏な どの一族が死守していたので、さすがの今川勢 も手がつけようがなかった。

その後元中九年(一三九二)都では南北朝の 和議(南北朝の合一)が成り、後亀山天皇は吉 野をたって京都に帰られて皇位を後小松天皇に 譲られた。こうしてそれ以後再び南朝と北朝が 対立することはなかったが、後征西将軍宮はこ のことを受け入れず、あくまで南朝の正統性を 信じ、再興のために苦心された。しかしその願 いも空しく、とうとうここ大杣の里で失意のう ちに果てられたのである。

征西将軍宮懐良親王

懐良親王御陵墓(八代市)

懐良親王御陵墓(八代市)

懐良親王は後醍醐天皇の第十五皇子である。 親王は父皇後醍醐天皇が叡山におられたころ、 無品親王の宣下を受け征西将軍宮に補せられ、 宮三位中将源宗治を大将とし、勘解由次官五条 頼元を介添役として下向のことに決し、綸旨を 九州の官軍に下された。時に延元元年(一三三 六)九月のことで、宮の年齢はわずか七歳か八 歳の頃であったという。

天授元年(一三七五)五月から十月まで菊池 城にあった懐良親王は将軍職を良成親王に譲ら れ、矢部に隠遁された。弘和二年(一三八二) 十一月頃から病の床に伏され、翌三年に亡くな られた。亡くなられた場所についてはいろいろ の説があるが、当時の住まいが矢部であったか ら矢部であろうという説が最も多い。五条頼元 の子良遠ら数名が仕えていたらしい。年齢は五 十六・七歳であったという。

いろいろな考証の末、明治十一年(一八七八) 四月二十五日宮内省は八代郡宮地村(八代市) にあるお墓を宮のご墓所と決定した。
懐良親王位牌(大円寺)大円寺蔵

懐良親王位牌(大円寺)

大円寺蔵


矢部で亡くなられたのにお墓が八代にあるの は、矢部でひそかに葬り、その後良成親王が八 代の高田征西府におられた元中七・八年(一三 九一・二)ころ、菊池武朝に命じ親王の遺骨を 移されたといわれている。九州南朝方最後の結 束を固めようとされたのであろう。もともと八 代は親王が肥後に入られる前、南朝の公家中院 義定がいたところであり、また正平十三年(一 三五八)以後は名和顕興がいた南朝ゆかりの地 である。八代市郊外にある中宮山護神寺境内に 親王の墓を設け、菩提寺として中宮山悟真寺を 創建したという。その悟真寺霊殿には.、懐良親 王が書かれたという父後醍醐天皇と母霊照院禅 尼の霊牌が納めてある。この書体と肥前神崎郡 東妙寺にある親王の書かれた梵網経(ぼんもうきょう)の写が一致していることからもお墓は八代と定められた のであろう。また、墓地内の宝きょう印塔は、 弘和元年(一三八一)母君の三十一回忌にあた り懐良親王が奉納したものと伝えられている。

御墓所は西向きで東西二七・三メートル、南 北二〇メートルの土居うちの東に内玉垣があり、 その中の下部を切石で囲んだ小円墳が親王の御 墓である。楠・桧・杉の老樹がひとむらうっそ うとした神厳な聖域となっている。また悟真寺 は、その後小西氏の時代に破却にあい、加藤氏 のとき現在地に復興した古刹である。

明治十三年八月三日、宮の霊を祀った八代宮 は官幣中社に加えられ、良成親王の霊も合祀さ れている。

後征西将軍良成親王と矢部

良成親王は嶽の御所で南朝の再興を企てられ たが、菊池武朝を好まぬ者がいて、親王および 武朝を懐良親王に訴えたことがある。そのため 兄長慶天皇が、弘和二年(一三八二)八月二十 四日付の文書で良成親王をさとされたことが あった。その後元中四年(一三八七)には良成 親王は宇土におられたことが五条家文書でわか り、その文中に頼治在所大渕河内築足というの がある。築足は月足で河内とともに大渕村(黒 木町大渕)小字であろうと思われる。

宇土では川尻広覚、阿蘇惟政、名和紹覚など と手を結び、武朝はその総帥として遠く五条頼 治と通じ、再興の計画を立てていた。一方、今 川了俊は弘和五年(一三八五)大挙して肥後に 侵入し、兵糧攻め作戦で菊池の外城を次々に攻 め落した。親王は菊池武朝、澄安に守られ逃げ のびられたが、菊池武照はその子澄安に遺髪を 託して討死した。ここに征西府は消滅したので ある。さらに今川了俊は元中七年(一三九〇) 九月、深堀等のすぐれた兵をもって川尻、宇土 を攻撃した。

武朝は親王を奉じて八代をさけ、名和顕興の もとに走った。了俊はさらに進んで元中八年(一 三九一)三月、八代方面に移り諸城を攻め、九 月にはすっかり攻め落としてしまって隈本(熊 本)にある藤崎の本陣に帰った。

親王はこの時了俊と八代で和を結び、八代の 奥にある高田の御所に入られ、武朝も菊池の城 へ帰ったようである。その後親王は、五条氏を たよって筑後に帰られたのである。

大友氏の矢部攻撃

五条家屋敷

五条家屋敷

今川了俊は、官軍のよりどころとして矢部だ けが一つ残っていたので、攻めようと計画した。 大友親世は了俊の命を受けて元中八年(一三九 一)十月、氏親・氏信らとともに筑後・豊後の 諸兵を率いて、軍を二手に分けて攻めてきた。

一軍は十月七日大手を攻めようとして筑後方面 から進み、他の一軍は搦め手から攻めようとし て十月八日に日田郡津江、大野に進出した。五 条頼治はただちに兵を出して津江の官軍に加え、 搦手の敵を撃退した。大手口は大変難戦で、大 友軍は九月牧口の陣(八女市忠見)を出発して 黒木の猫尾城(調山)を襲ったので頼治はまた 兵を出して防戦した。このとき黒木定善の孫黒 木四郎らが筑後の官軍に加わって勇ましく戦い、 敵数百人を傷つけ、数十人を討ち取った。十一 日夜、敵とひそかに通じるものがあって多数の 敵を山中深く導き入れたが、定善の一族が日頃 から野武士を配置していたので、合戦にならず 敵は退いた。このようにして大友勢も矢部を攻 め陥ることができず、矢部は依然として官軍の よりどころとなった。

十月二十三日付をもって良成親王から頼治に 感状を送られていることが五条家文書でわかる。 親王の活動の様子が全く見られない点から、そ のころ良成親王は八代方面におられたものと思 われる。

一方、中央では元中九年(一三九二)南北朝 の合一が行われ、後亀山天皇が後小松天皇に神 器を譲られたのである。

当時のこととて中央の情報が伝わらなかった こともあったろうが、良成親王はあくまでも新 年号「明徳」を用いず、「元中」の年号を用い られている。このことからも親王がいかに南朝 の再興を願っておられたかがうかがわれる。
  
五条家略系図

五条家略系図

その後、元中十二年(一三九五)大友氏の一 族の道徹なるものが矢部を襲ったが、頼治と良 遠の子良量によってすぐに撃退された。五条文 書に十月廿日付で良量あてに、その時の五条氏 の忠勤に対する親王自筆の御書状が残っている。 書状の左上隅に別筆として「御在所矢部大杣、 御筆、元中十二年十月廿日」と記してあるから、 その当時親王が矢部におられたことは確かであ る。しかし、それが親王の消息を知り得る最後 の史料であり、その後の親王の消息を記したも のは見当たらない。

したがって、親王のなくなられた年代や年令 など知ることができないが、宮の誕生を正平十 六年(一三六一)頃と推定すると、元中十二年 すなわち応永二年(一三九五)には、三十五歳 になっておられたもの思われる。

明治十一年五月、高良大社宮司船曳鉄門等の 史家が文書や種々の考証をした結果、宮内省は 矢部村大字北矢部字御側にある墓を良成親王の 御陵墓と決定した。

陵墓の側には親王が朝夕使われたという「三 水の井」という井戸が残っている。また王塚山 龍顔の峰、見参平、公家坂、三(御)倉などの 地名があり、矢部の住民に栗原、江田、山口、 轟、江良、壬生を称する姓が多く、すべて当時 の幕下の将士または五条氏の家臣の末えいであ ることが推察される。