明治維新は、旧来の封建制を打破して、近代
中央集権国家を建設した我が国史上の一大変革
であった。地方行政においても、版籍奉還、廃
藩置県、区長、戸長制度、地租改正などである。
明治八年の地租改正実施とともに町村の一部
が合併され、新名称の町や村が生まれた。明治
三年七月、柳川藩の矢部村は、廃藩置県により
久留米藩に属し、明治四年三潴県と名称を改め
た。明治九年、福岡県となり、上妻郡第七扱所
に配属されたが、明治十一年扱所廃止により上
妻郡に属するようになった。明治二十二年には
町村合併により、北矢部、矢部の二村を合わせ
て矢部村になり、現在に至っている。
日向神屋から見た奥日向神(昭和初期) | 旧県道(松瀬ダム附近) |
矢部村から県道が開通して黒木町まで車が通
るようになったのは、明治二十六年のことであ
るが、当時は幅員も狭く、カーブが山合いの谷
間をぬって走っていた。当時の矢部村の様子の
一部を明治の文豪田山花袋が、矢部を通って久
住、阿蘇へ抜けたときの印象を書いている。八
女郡では、国道、県道、郡道が開かれ、自動車
運送が盛んになると村から山へ山道が開かれ、
自動車も通るようになった。これは産業の急速
な発達により物資の交流が盛んになった結果で
ある。
矢部村では、木材、茶、こんにゃく、櫨(はぜ)
など
の産物の搬出が多くなった。特に藩政時代には、
村民に大した利益をもたらさなかった山林が、
資本主義の発達により経済的な価値を持つよう
になった。人口の増加、都市の発達、工業の発
達などによって、木材の需要が急速に伸び、杉
や松などの植林が進み、木材の伐採、製材が行
われた。さらに、明治二十六年に黒木、矢部間
に県道が開通すると、搬出が便利になり、木材
は急に値上がりした。
初代村長坂本鉄之進は、村の開発に尽力し、
今日の林業の基礎を築いた功労者である。また、
飯干の実業家中川耕一郎は、県道の開発、産業
の振興、植林事業に尽くされた恩人である。明
治三十五年頃、矢部に吉野杉を移植したのも、
矢部に最初の製材所を臼ノ払につくったのも、
中川であったという。
こうして、矢部村の大部分の人々が、山仕事
と製材によって生活するようになった。木挽唄
が盛んに歌われたのもこの頃である。
明治四十年頃から、茶業が盛んとなり、茶ブー
ムによって生産額も急増した。
五月の茶摘みの最盛期ともなれば、近隣の町
村からはもとより八女、筑後、三潴、柳川、肥
後の宇土、天草などからも泊り込みで茶摘みに
来る人で村はにぎわった。
八女地方の代表的な民謡「茶山唄」に
○縁がないなら茶山にござれ 茶山茶どころ縁
どころ
○茶山旦那どんなガラガラ柿よ 見かけよけれ
ど渋ござる
○今年ゃこれきりまた来年の 八十八夜の茶で
会おう
などとあるが、当時の茶摘みの風景が彷彿と
して面白い。
茶山旦那どんの家には、茶摘みの手間賃を
誰々に何十銭払ったなどという控え帳が残って
いる。田植えや秋の稲刈りの時期になると、
「手間替え」といって、矢部からも多くの人が
下っていったものである。星野村からも茶摘み
の手伝いに来て縁があり、矢部に嫁ぐ女性は、
村内の結婚に次いで多く、「星野女に矢部男」
という言葉も生まれた。
天草・柳川などが見える手間替控え |
矢部村には村内商業の様子をうかがう史料と
して、明治十七年の当座帳と大正九年の諸品貸
与帳が小畠家に残っており、山村の消費生活の
様子をうかがい知ることが出来る貴重な史料で
ある。小畠家は、居酒屋、雑貨屋を営み、豆腐
製造も手がけていたが、村ではこのような雑貨
店が自然経済と貨幣経済の接触するところであ
り、村人の消費生活の様子を示す場所でもあっ
た。
明治十七年の当座帳には、山物三品として楮、
茶、芋の三種が先ず現われる。芋はこんにゃく
芋で、掛け買いした村人は現金でも支払いする
が、山物三品の現物で、いわば物々交換で決済
することも多かった。
次に大正二・三・七年の諸記録で当時の産業
と生活をうかがうことができる部分をとりあげ
ると、
まず、日雇労働には次のような種類がある。
括弧内は賃金で、大正二年は米一俵六円五十銭
と記されているので、それと比較して考えるこ
とができる。
田植え(七円五十銭)、田のくろきり、田のうっ
ち、田うめ、畑の利場(畑利上)畑うち、畑粟
まき、山畑うち、粟つくり、粟かり、芋うえう
ち、そばかり、杉さし(一人手五十銭)杉山く
さぎ、皮きせ、杉山さらえ(五円五十銭)杉の
挿穂(千本乃至五千本)、かやきり、茶つみ、
茶立(二十五銭)、楮うむし(二人手六十二銭)
などがあるが、意味がよくわからないものもあ
る。
つぎに穀物、野菜の種類として、もち米、も
ち菜、のいね、稗、粟、そば、らん京(らっきょ
う)かる、さくら島、朝鮮白菜、聖護院、練馬、
体菜、甘藷、二斗芋などの記載がある。
物価を示すものとしては、
なば五合十四銭、こんにゃく芋五斤十七銭五
厘、杉の皮十五坪三円(大正二年)とある。な
お、大正三年の記録には軍人見舞、軍人祝、が
いせん祝、桜島見舞(桜島大噴火の見舞い)と
してそれぞれ若干の金額が記載されていて、そ
の時代が反映されているのも興味がある。
また、酒二本七十銭、正中(焼酎)一本十銭
で、「のふらい(直来)酒三十五銭四八割一人(意
味不明)」「正中村かり」などと見え、稀にビー
ル六十五銭、ビル六十銭、ビルビン四本八銭な
どと記されており、ラムネの名も見える。
海産物としては、たら、ます、さば、いりこ、
その他、むきみ、あげまきがあり、川魚、いだ
八合八十銭、川魚日十銭、きびなご一升五十五
銭、
鳥(鶏)、四羽三十五銭、三羽一円七十銭、
雑貨、わらじ一足五銭、
日用品、石油一升八十銭、二合十六銭、
菓子、あめ、せんぺい、たいわん明仏六十銭、
煙草、はぎ、さつき、しきしま(十五銭)、
あさひ(二十三銭)、あやめ(八銭)、なでしこ
(四十匁三十銭、二十匁十六銭)、白梅、
酒と煙草の記載は度々現われるが、貧しい村
人が掛け買いで苦労したことが推測される。
このほか、小畠家には耕作地の所有者として、
日雇賃労働者を雇って農業を経営していた記録
も残っている。それによると、
いねこぎ六十銭、田植え手間(女)八十銭、
手間一人六十銭、麦うね切手間一人一円二十銭、
田のじゃりのけ手間一人一円、赤土よせ手間一
人一円、道つくり一円十銭、のこは切賃、竹切
手間、柿取り、われ木割、畑つくり賃、茶いり
二人二円六十銭、一人一円三十銭、かごおむく
手間五十銭、壱畑作り賃四十銭〜五十銭、杉な
る出年間一円八十銭、そのほかに現物或は労働
で支払いする例も多く、「入」として、あら蜜
五斤半九十三銭、さけ五円、鳥五斤三円五十銭、
米二斗九升、もち米三升一円二十銭、竹の子二
十二斤四十四銭、粟二升、麦三升、茶から七十
銭などのほか、杉なる出し年間一人一円八十銭
は「入」となっているから、労働で掛け買いを
払ったものと思われる。
明治、大正、昭和前半は、矢部村にかぎらず、
農民、労働者の生活は貧しく苦しかった。
当時の服装は、ほとんど木綿の着物で、履物
も下駄か草履であった。家は麦藁葺きか茅葺き
杉皮葺きである。日用品としてマッチは貴重品
であり値段も高かったのでめったに買えず、煙
草に火をつけるのにも数人で大事にまわして火
をつけていた。そのため、火種は貴重なもので、
囲炉裡やかまどに樫や火持ちのよい雑木の丸太
を燃やし続け、火種を絶やさないようにした。
他に火を移すときは、つけ木を用い、火種がな
いときは、隣近所に火種をもらいにいっていた。
昭和の初期の土方(道路のバラス入れ)の人
夫賃が大人一日五十銭、中人(十四歳)四十五
銭であった。清酒一升五十銭から八十銭であっ
たから、当時の人夫賃がいかに安く、日雇い労
働者の生活がいかに苦しかったかがわかる。
大正十四・五年ごろが鯛生金山の全盛時代で、
矢部も景気に湧いていたという。人口も増加し、
柴庵、八知山などには金山関係の事務所や社宅、
商店が建ち並び、宮ノ尾、中村の繁華街には、
福寿館、シンポ館、八媛館、山田屋、日出屋な
どの旅館や飲食店があり、映画館や芸者置屋も
あったという。村人や若い人は、そこらで飲み
遊ぶのが唯一の楽しみであった。
また当時の楽しみは、鬼塚や中村の広場で幔
幕を張り、小屋がけした芝居や浪曲やカマ師(び
わひき)を見ることと、高良山、英彦山、宮地
嶽さん詣りなどであった。英彦山詣りなどは、
樅鶴川をさかのぼって日田に出る径路で、往復
三泊四日の行程であったという。
明治二十六年五月二十五日、北白川宮能久親
王が陸軍中将第六師団長の折、御側の後征西將
軍宮良成親王の御陵墓に参詣され、御霊に玉串
を奉呈されるとともに墓前に桜の木を御手植え
された。
また奥日向神峡を探勝され、日向神山を八女
津媛山と命名された。現在日向神ダム堰堤の下
旧県道脇に八女津媛山の記念碑が建っている。
なお北白川宮は黒木町大渕の五条男爵邸にお
泊まりになって、庭に杉の木を御手植され、そ
れが今天をつく大樹になっている。
後征将軍良成親王御陵墓参拝の |
昭和五年三月三十一日、元帥閑院宮載仁親王
が、奥日向神峡を探勝されたあと、後征西将軍
宮良成親王の御陵墓に参詣された。
当日はあいにくの小雨であったが、十一時半
ごろお元気に日向神に到着され、郡民、村民多
数のお迎えの中、広瀬黒木警察署長の先導で、
徳川家達公爵、金山師団長、西川中将、和田御
附武官、松本福岡県知事らを随えて、八畳敷に
立たれて奥日向神の景色を観賞された。
八畳敷で昼食を摂られたあと、午後一時ごろ
御側に御到着、五条男爵の先導で御陵墓に玉串
を捧げ良成親王のご冥福を祈られた。ついで平
井元八女高等女学校長の懐良親王、良成親王の
御治績について説明を聞かれ、桧を御陵東面の
地に御手植えされた。
午後二時四十分、黒木町私立黒木女学校に着
かれ、五条男爵と同校寄贈者武藤精宏に単独拝
謁され、特設の蚕室をご覧になった。
午後三時三十一分、大森熊本県知事の出迎え
を受けられ、列車で次の目的地熊本県に向かわ
れた。
昭和五年八月十四日、陸軍大学生として太刀
洗飛行隊で午前中学ばれたあと、午後三時半ご
ろ、秩父宮殿と同妃殿下が奥日向神八女津媛山
を探勝された。不意のことであったので、広川、
福島方面の沿道は殿下の通られるのも知らず、
黒木から東の方はようやく電話などで来られる
のを知ったくらいで、奉迎する人もあまりな
かった。
ちょうど大風雨のあとで、水は清かったが、
道や橋はあれていたという。
約一時間位日向神を探勝されたが、時間の都 合で御側の御陵に参詣されるのを断念され、帰 途につかれた。殿下は軍務に精励中であったの で、内々で巡幸されたのである。
昭和六年八月四日、閑院宮春仁王妃殿下が、
御側の御陵に参拝され、その足で奥日向神を探
勝された。
「是(ぜ)」とは「道理にかなったこと、正しいこと」
「一般が認めてよいとすること」と広辞苑にあ
る。また、「国、県、郡、町村をあげて是と認
めたものの意、確定している施政方針」とも書
かれている。今で言えば、村の政治の施政方針、
基本計画ともいうべきものである。
明治時代に、八女郡では郡是、矢部村では村
是が策定されていて、当時の政治、経済など村
の様子がよく分って、興味深い。
是八女郎是・矢部村是 |
村是 |
矢部村是は、初代村長坂本虎之助ほか九名の
調査員と九名の方面調査員により 明治三十一
年十二月に発刊されている。
ぺージ数は、九十八丁(百八十六ぺージ)で、
緒言と調査要領として、現況調査の部と参考将
来の部から成っている。
現況調査の部は、総論から戸口員数、反別地
価、地租、余米、貸借金、財産、生産と消費、
総決算などきわめて詳細に調査されている。
また、参考将来の部では、総論を述べ、基本
財産養成、各産業の今後のあるべき姿を微に入
り細にわたって述べ、村の未来像を論調高く提
言し、結論付けている。
現況調査の部の緒言に、村是発刊の目的のひ
とつとして、
「而シテ事物其物ニ就イテハ之ヲ既往ノ成蹟
ニ鑑(カンガ)ミ、之ヲ現在ノ事態ニ察シ、以テ将来百年
ノ企図ヲ立ツルニアラズンバ何(イズクン)ゾ能ク町村ノ発
達ヲ企図シ、吾人ノ権利自由ヲ伸暢(シンチョウ)スルコト
ヲ得ンヤ、カクシテ即チ本調査ノ起ル所以(ユエン)ニシ
テ……」とあり、当時の村長をはじめ役場職員、
村民あげて村づくりに情熱を傾けられた先人の
努力と苦労に頭の下がる思いがする。
以下、要点を抜粋して、その一部を記す。
「風俗ハ一般ニ朴直温良風アリト雖モ又僻(ヘキ)ス ウノ山間ニ住居シ、衣食住ノ程度最モ低ク、且 ツ生活ニ困難ヲ感ズル事少キヲ以テ進取事物ノ 改良ヲ企ツルノ意想乏シキノミナラズ平素悠長 怠慢ニシテ一家ノ生産ヲ増殖スルノ計ヲ爲サズ、 且ツ近来賭博流行シテ産ヲ傾ケ業ヲ怠ルモノ少 カラザルニ至リシハ実ニ慨嘆(ガイタン)(なげかわしい) ニ堪ヘザル所ニシテ速ニ此弊害ノ風ヲ矯正(キョウセイ)シ、 生産事業ノ発達ニ意ヲ注ガザレバ遂ニ究迫ノ悲 境ニ陥リ、時運ニ伴フ事能ハザルニ至ラントス」 とあり、矢部村の現状を深く憂え、将来に備え ようとする心情が格調高く述べられていること は、矢部村民として考えなければならないこと である。
(2)戸口員数
在籍戸数 七百六戸 現住戸数 七百五十六戸 在籍人員 四千九十一人 一戸ニ付五・七九人 現住人員 四千二百二十人 一戸ニ付五・五八人 農業戸数 七百二十三戸 内専業 五百七十二戸 兼業 百五十一戸 商業戸数 九十七戸 内専業 二十八戸 兼業 六十九戸 職工戸数 六十七戸
(3)反別地価地租
総反別 二干七百五十五町四反二畝十九歩 地価 二万七千九百十五円十銭五厘 地租 六百九十九円三十八銭八厘
(4)総決算
歳入の部 現今生産額 二十万四千四百九十九円九厘 他町村ヨリ輸入スル余米 百七十六円七十七銭八厘 貸付金利子 千二百七十三円四十一銭二厘 公債 百十九円三十八銭一厘 計 二十万六百六十八円五十八銭 歳出の部 現今消費額 一万一千七百四円八銭三厘 他町村ニ輸出スル余米 三千六十三円五十銭九厘 借入金利子 一万六千七百十三円七十五銭六厘 負担額 三千九百二十六円七十五銭一厘 計 二十万七百四十四円六十六銭一厘 差引過金 五千三百二十三円九十一銭九厘
「産業ハ国家富強ノ基ニシテ苟(イヤシクモ)モ国家ノ実力
ヲ発達セシメント欲セバ、須(スベカ)ラク産業ノ振起拡
張ヲ謀(ハカ)ラザル可ラズ、産業ノ振起拡張ヲ謀ラン
ト欲セバ、宜シク既往及び現在ニ於ケル事物ノ
盛衰消長ヲ稽査(ケイサ)シテ時勢ノ向フ所ヲ察シ、将来
之ニ応ズルノ設備ヲ整エ、而シテ着々之ガ実行
ヲ期セザル可ラズ、
一郡一村ノ事又然リ、一身一家ノ事又然ラザ
ルハナシ、然ルニ本村ハ自治制実施以来既ニ二
十年ノ星霜ヲ経テ此間法律ノ結果トシテ町村行
政ノ事務及ビ教育衛生ノ如キハ稍々見ルベキモ
ノナキニアラズト雖モ、自他各般ノ事業ニ至リ
テハ未ダ基設備ヲ整ヘタルノ事実アルモ見ズ、
一村経営上実ニ遺憾トスル所ナリ、
今茲ニ本村事物ノ状況ヲ調査シテ一村経済ノ
実相ヲ査察スルニ、村内二千七百五十町四四反
十九畝ノ土地ト七百五十六戸四千二百二十人ノ
知識ト労力トヲ以テ二十万四千四百九十九円九
厘ノ生産ヲ収メ、十七万七千四十一円八銭二厘
ノ消費ヲナシ、二万七千四百五十七円十二銭六
厘ノ過剰ヲ生ジ尚之ニ土地収益及貸借金並ヒ負
担金等ヲ加ヘテ之ヲ相殺スレバ、五千三百二十
三円九十一銭九厘ノ過剰ヲ生セリ、然レドモ人
口ハ年々百五十八人ノ割ヲ以テ増加シ、社交ハ
日一日ニ頻繁ヲ加ヘテ村民衣食住ノ程度愈々上
進シ、国運発達ノ結果ハ年ト共ニ経済上ノ競争
益々激甚ヲ加フベク、吾人ノ前途実ニ多望ニシ
テ其責任の重大且ツ大ナル、豈永(アニ)ク今日ノ現状
ヲ以テ安ンズ可キノ秋(トキ)ナランヤ、宜シク世ノ大
勢ヲ洞察シテ一定ノ方針ヲ確立シ曲節ノ時勢ヲ
参酌シテ適法ノ施設ヲ整ヒ、一致協同以テ事ニ
当リ一村一家ノ福祉ヲ増進シ、自治独立ノ本義
ヲ全フシ、村運発達ノ目的ヲ貫徹セザル可ラズ、
而シテ今調査ノ結果トシテ本村設備事項ヲ査
察スルニ基本財産ノ養成、農会ノ活動、植林及
養護、畜産蕃殖(ハンショク)、勤勉貯蓄、運輸交通、信用
組合及規時会ノ開設企画等最モ急要ナルモノニ
シテ、其他十余ノ設備事項ハ皆本村経済ノ発達
増進ヲ企図スベキ要件ニシテ、爾本村ハ一致強
力運振作ノ重任ニ当リ以テ一村自治ノ名実ヲシ
テ完カラシメザル可ラズ、斯レ即チ本調査ノ精
神ニシテ茲ニ将来七年ノ目的ヲ確定シテ着々之
ヲ実行セントスル所以ナリ。」
(略)
(略)
「一村経営ノ要ハ民力養成ノ方針ヲ確立シ
各々適法ノ設備ヲ整ヒ大小緩急之ガ実力ヲ期ス
ルニアリ、而シテ此等ノ責ニ任ズルハ実ニ吾人
村民之免(マヌカ)ル可ラザル義務ニシテ又時運ニ判フ可
キ一村ノ要務ナリトス、左スレバ方針一タビ決
定セバ、其施設実行ヲ誤ラズ着々成果ヲ収得セ
ン事ヲ期セザル可ラズ、斯ノ如クシテ民ガ始メ
テ充実シ自治独立ノ基礎茲ニ定リ自営自動ノ機
能之ヲ事実ニ認メ得ベク、而シテ自治之名実随(シタガイ)
テ挙リ吾人ノ福利ヲ増進シ一村ノ体面ヲ保全シ
真正確実ナル自主統一ノ行動ヲ全フスルヲ得ベ
キナリ……(中略)
抑モ吾人ガ国ヲ愛シ国ヲ憂フルノ心ハ国ノ形
勢ヲ知了スルニ起ル、郡村ニ於ケルモ亦然リ、
今ヤ調査ノ結果トシテ本村経済ノ実況ヲ知悉(チシツ)
スル事ヲ得タリ、将来本村ハ一ニ村是ノアル所
ニ従イ一村ノ全力ヲ挙ゲテ之ヲ遂行セザル可ラ
ズ、而シテ今ヤ論議ノ時代既ニ過ギテ実行ノ時
代トナレリ、一番ノ先覚者タルモノ之ヲ目ニ見
ズシテ之ヲ心ニ見、社会ノ趨察(スウサツ)シテ之ガ施設実
行ノ任ニ当リ、以テ一村一家ノ福祉ヲ増進セザ
ル可ラズ、然レドモ事之ヲ口ニスルハ易ク之ヲ
行フハ最モ難事ニ属ス、吾人ハ此幾多ノ困難ヲ
排シテ完全ナル本村独立ノ基礎ヲ確立センコト
ヲ期セザル可ラズ」
この調査にあたっては、明治三十一年十二月
五日に調査委員会において調査法の大要を協議
し七日に調査主旨の大意を各戸に示すため区長
を召集して説明した。そして八日から各区ごと
に実地調査を始め、二十一日には下調べを完了
している。また、十二月十七日から二十日まで
方面調査員を招集し、消費、収穫率および商工
収益の下調べを完了している。その後、編集に
従事し、二十一日間昼夜を分かたず努力した結
果、十二月二十五日をもって結了したという。
わずか二十日間でこれだけ詳細に調査し完成
したこと、矢部村の現状を厳しく分析し、村の
未来像を構想していること、そしてその内容、
論旨とも的確で、格調高く述べていることなど
驚嘆に値する大事業である。
また、村民が村の現状を認識して村の将来の
あるべき姿を描き、独立独歩の精神をもって村
民一人ひとりの意識を改革し、勤勉努力する要
を力強く訴えている。
先人の労と気慨を多とするとともに、村民一 人ひとり自分の在り方に資して欲しいものであ る。
明治政府は、近代国家としての基礎を固める
ために、財政の確立を図った。
今まで幕府の財源は、石高で表わす年貢(米)
が基準であったが、米は輸送や保管や販売に手
間や無駄が多かった。そのうえ、豊凶による米
価の変動で収入も一定せず、歳入、歳出の予算
をたてるのが難しかったのである。
そこで、政府は、国民に土地の所有権を認め
るとともに、田畑の売買を自由にした。ついで、
明治六年(一八七二)から、全国の農地の面積
や田畑のよしあしを調べて土地の値段を決めた。
そして、土地の所有者に、その面積と地価を明
記した地券を与え、その地価の三パーセントに
あたる金額を地租(土地の税金)として、その
税金を現金で納めさせることにしたのである。
これを地租改正という。
地券(表)・(裏) |
その結果、政府の収入は安定し、財政の基礎
は確立したのである。しかし、地租はほぼ江戸
時代の年貢に相当したので、農民の負担は軽減
されず、生活は依然として楽にならなかった。
一方、地主はこれまでどおり小作人から小作料
として米などの現物で受け取り、米の値段が高
いときに売ったりしたので、大きな利益をあげ、
ますます裕福になっていった。小さな自作農の
中には、地租が払えなくて、やむをえず土地を
手離さなければならない者もあり、貧しい小作
農に転落した人や都会へ出て行くものも増えて
いった。
生活に追い詰められた貧しい農民たちは、全
国各地で百姓一揆を起こし、役所や富農を襲っ
たので、事態を憂慮した明治政府は、一揆を鎮
圧するとともに、やむなく地租を三パーセント
から二・五パーセントに引き下げることにした。
しかし、農民の生活は依然として苦しく、農村
は疲弊し、農村の近代化はずっと遅れてしまっ
た。つまり農村や農民は、日本の近代化のため
に、最も過酷な犠牲を強いられたのである。
矢部村も、当時の地券を保存している家があ るが、当時の様子は全国各地と同様であった。