矢部村の開発

矢部の旧道

柳川道

柳川道(古田〜蚪道)

矢部は、すべて奥深い山の中にある。
四方峻 険な山々に囲まれ、矢部川とその支流に沿って 細長く伸びる谷間に狭い土地がへばりついてい る。

矢部への道は、おそらく原始時代からその矢 部川沿いに、谷を渡り岩間をつたい、杣道をた どって細々とつづいていたであろう。

かつて南北朝の動乱期は、天然の要害として、 南朝方のとりでとなったのは必然であった。杣 人や武人の通行も多かったであろうその道は、 ほとんど尾根を越え、谷を渡って細々つづく杣 道であった。都の竹の園で育たれた両親王や供 奉の都人にとっては、地の果てに来た思いで あったろうことは想像にかたくない。

最近でもはじめて矢部を訊ねて来た人が、こ の上に人家があるのだろうかと心細くなったと 話す人もいる。昭和十六年に宗像郡から椎葉に 嫁した小森ハルコ(六十九歳)は、こんな山中 にまだ人の生活があるのかと心細くなり、あま りの淋しさに涙したことを昨日のことのように 述懐している。

筑後路の主要道路を整備し、交通の便を図っ たのは、慶長九年(一六〇四)、関ヶ原の功に より筑後一円を領して柳川城に入った田中吉政 である。吉政は、新田の開発や河川の改修にも 力を入れたが、矢部川を境に北に方二間、高さ 一間の塚に、榎、樫などを植えた一里塚を築き、 南側に一里石を建てて柳川からの里程とした。

江戸時代になると、矢部村は矢部川をはさん で久留米藩と柳川藩の領有となった。道路は、 矢部川をはさんで久留米道と柳川道があった。 久留米道(矢部道)と柳川道ともに、両藩では 最長の道路で、風光明媚ではあるが、峻険な坂 道であった。大渕より上流は、峻峰群立して河 岸に迫り、行手をさえぎり、通行や貢納物、産 物の輸送はきわめて難渋したルートである。道 路の開削、整備には、多くの辛酸と犠牲の歳月 を要したことであろう。

久留米藩の矢部道のルートは、大渕の花巡り から八升蒔、平野を通り空室(うつろ)からこう仏谷(奥 日向神)を巡って鬼塚へ出たらしい。

柳川道は、柳川街道という。大渕の上月足か ら通称朝開き(おそらくここに朝日が一番早く 当たったであろう)から九十九折の急坂を越え、 日向神の黒岩トンネルの上おうむ岩を巡って椎 葉に抜け、谷野から伊良道(いらどう)(蚪道(いらど))を通って西 園、飯干、笹又、所野へとつづいていたようで ある。蚪道の柳川道に十二里の一里石が建って いる。のちに、椎葉から分岐して谷野に下り矢 部川沿いに上って飯干、笹又へ通じる新道が出 来たという。現在、西園橋の三又路に「右大ぶ ち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っている が年代はわからない。笹又の三又路に建ってい たのをダム水没のため、現在地に移したもので ある。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の 篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に 「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建 てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便 を図っているが、笹又の道しるべも、あるいは その良作という人が建てたのかもしれない。

正保四年(一六四七)に「久留米領大道小道 之帳」という道路台帳のようなものが作られて いる。それによると、

「一、本分村より矢部村豊後境目迄六里六町、 但豊後ノ内梅野村へ出ル  此内川壱ツ 渡リ七所   黒木川ちんノ内(陣の内) 渡リ         広サ拾五間、深サ壱尺   同川塚瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐尺   但久留米領木屋村より柳川領木屋村へ渡ル   同川とくう瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐   尺、但柳川領木屋村より久留米領木屋村へ渡ル   同川花遶ノ渡リ、広サ拾三間、深サ弐尺、   但久留米領大渕村より柳川領大渕村へ出ル   同川鬼塚ノ渡リ、広サ七間、深サ壱尺五寸   但柳川領矢部村久留米領矢部村へ渡ル   同川三瀬ノ渡リ、広サ八間、深サ壱尺、但   久留米領矢部村より柳川領矢部村へ渡ル   同川柴庵ノ渡リ、広サ五間、深サ壱尺五寸   但柳川領矢部村より久留米領矢部村へ渡ル」 とある。

笹又の道しるべ

笹又の道しるべ(西園橋三叉路)


道しるべ

道しるべ(黒木町牟田)

黒木町本分から矢部村柴庵まで七ヶ所の瀬を 渡っていたが、そこには小さな板橋か丸太橋が かかっていたのであろう。また、久留米領から 柳川領へ、柳川領から久留米領へ交互に入って いるのもおもしろい。けわしい谷間がつづくこ の地では、両藩の了解で、通行手形なしで行き 来した生活優先の事情がよくわかる。

矢部村では、鬼塚と三瀬、柴庵の三ヶ所の渡 りがある。鬼塚や柴庵の瀬は大体想像がつくが 三瀬とはどこであろうか、中間から下った谷の 合流点あたりを三ッ渕というそうであるから、 その辺りの瀬ではなかったろうか。

貞享元年(一六八四)北矢部柴庵から竹原峠 を越えて日田郡梅野村(中津江村)に通じる「川 沿新道、別名豊後別道」が開かれ、豊後への往 来も便利になった。それまでは杣道であったの を官道として整備したのであろう。柴庵から八 知山鉱口あたりを通って竹原へ上る近道がそれ に当たるのではないかと思われる。

蚪道(十二里)所野(十三里)虎伏木(十四 里)に残る一里石や西園橋の三又路に残る道し るべは、当時の交通、道路のようすを知るうえ で貴重な史料であり、子孫に継承すべき史跡と して大切に保存しなければならない。

なお、久留米領の笹又にあったといわれる一 里塚や肥後境三国山の麓にあったという一里石 や境木は今は見あたらない。

一里石

旧柳川領の一里石


黒木町串毛(七里)黒木町上月足(十一里)虎伏木(十四里)

黒木町串毛(七里)

黒木町上月足(十一里)

虎伏木(十四里)

立花町北山(四里) 黒木町久保(十里) 所野(十三里)

立花町北山(四里)

黒木町久保(十里)

所野(十三里)

山門郡東山(三里) 黒木町原(九里) 蚪道(十二里)

山門郡東山(三里)

黒木町原(九里)

蚪道(十二里)

明治以降の道路

客馬車 南筑軌道

客馬車

南筑軌道

明治になると、産業、経済も発達し、物資の 交流や人馬の往来も頻繁になり、黒木、大渕、 星野はもとより、日田、肥後方面への往来も盛 んになった。木材や木炭など矢部の産物が出さ れ、行商人も入ってきた。

明治二十二年には、黒木の犬山トンネルが開 通し、久留米、熊本県木葉間に鉄道が開通した のは、明治二十四年であった。明治二十七、八 年の日清戦争や明治三十七、八年の日露戦争に は、羽犬塚駅で出征兵士を見送る家族や郡民、 学生で賑わったという。

福島(八女)、黒木、矢部の県道が矢部川沿 いに開通したのは、明治二十六年であった。よ うやく矢部村も発展の契機を迎えたのである。 当時は、ほとんど徒歩が多かったが、明治三十 六年には、羽犬塚、山内間に南筑馬車軌道が敷 設され、大正十二年に黒木、山内間に南筑軌道 が開通し、羽犬塚まで軌道が走った。

矢部村では、大正元年に黒木、矢部間に五、六 人乗りの客馬車が走るようになった。

当時六人乗り客馬車の先走りをしていたとい う臼ノ払の石川光蔵氏(明治三十五年生まれで、 現在九十一歳、今なお健在)は、当時の様子を 語る。当時、矢部村では石川氏の叔父月足喜次 郎(笹又)のほか、古川イノ吉、古賀トモ、の ちに宮尾の関又次郎などが客馬車の経営にあ たっていた。

石川氏は、飯干小学校卒業後、十三歳で月足 喜次郎の経営する客馬車の先走りとして、約二 年間矢部(宮ノ尾)黒木(津江神社前)間を毎 日往復した。

客馬車は、座席付の幌馬車で、鉄の車輪で石 ころのガタガタ道を一日一往復、定刻はなくお 客があれば九時頃出発し、黒木まで約二十キロ、 約四時間かかったという。お客は村の資産家か 鯛生から山越ししてきたお客がほとんどで、一 般の人は黒木まで歩いていた。運賃がいくらで あったか記憶にないというが、別の古老の話で は二円であったというから、当時かなり高い運 賃であったと思われる。

石川氏の仕事は、助手席に乗り、馬車の到着 を待合室に先ぶれしたり、交通整理をしたりし て危険を防止することであった。当時の旧道は、 現在月足の分岐点から矢部川沿いに松瀬を通り、 今の松瀬ダム沿いに日向神峡に入り、矢部に抜 けていた。旧道は、松瀬ダム沿いにダム堰堤の 所まで一キロほど残っている。

幅約九尺(約二メートル)、砂利道でカーブ が多かったため、長材を積んだ牛馬車と離合す るときが一番苦労したという。カーブで見通し のきかない所では、馬車から下り先駆けして対 向する馬車の有無を確かめ、対向馬車があれば、 離合する場所を確保して馬車を誘導するのであ る。

待合所兼休憩所は、大渕堀迫の旧大渕発電所 下の「榎木茶屋」(現在の清水屋の湧水あたり) と木屋平橋と下ノ払の中間で旧黒木町と大渕村 の境、国道の両側に大きなイチョウがあるとこ ろにはミカン茶店があり、馬の水飲み場も設け られていた。
ミカン茶屋附近 えのき茶屋附近

ミカン茶屋附近

えのき茶屋附近

難所は、月足から矢部の道と、瀬戸峠の長い 坂道で、御者も馬車を下りて馬の轡(くつわ)を取ったと いう。また、雨の日も難渋し、洪水や水害のあ とにも悩まされたという。

石川氏の楽しみは、黒木に着いて、茶店で三 銭くらいのおかずを買って弁当を食べることと 下り坂や平坦な道になると、お客の少ないとき などに馬車に乗せてもらうことであった。

その客馬車も大正十四年には廃止され、乗合 自動車が開業されている。自動車は、米国製 フォードとかシボレーといった六〜八人乗りの 車であった。会社は、経営者の変遷はあったが、 矢部定期(柴庵―黒木)、林田(フナバンとも いい御側―黒木)、堀川(中村―黒木)の三社 があった。

運賃は一区間五銭で、宮ノ尾、黒木間は五十 銭、当時大人の一日の人夫賃に相当したので、 村の資産家か鯛生金山関係の人が乗客で、村民 のほとんどは歩いていた。

当時、フナバンの運転助手をしていた石川忠 三郎氏(西園在住、七十歳)によれば、定刻に 発車するように心掛け、発車した時刻を逐一黒 木警察署に電話で報告するようになっていたと いう。発車時刻を故意に後らせると、他社の乗 客を奪うことになり、他社から苦情がでるので、 トラブルを避けるため警察署に報告したのであ る。

停留所の中間で拾った客の運賃をどうするか 助手として困ったことや、切符はなく助手が現 金をカバンに入れたこと、定連には助手の才覚 で五銭を割引きしていたことなどがあった。

昭和八年、堀川バス有限会社が、黒木、鯛生 間のバス路線を買収して今日に至ったのである。

戦争が激化すると、ガソリンの供給が少なく なり、木炭バスが登場したが、性能が悪く、し ばしば故障を起こした。

昭和三十五年、日向神ダムの建設に伴い、県 道は上月足から四つのトンネルを抜け、ダム沿 いに走るようになった。

昭和五十年四月には矢部を貫く県道小国線は、 国道四四二号線に昇格した。

目下柴庵から竹原峠を越えて鯛生に抜ける交 通の難所は、新道を建設中で、その開通が待た れる。しかし、日向神ダムに沿った国道は、カー ブが多く、スリップその他の事故が発生しやす いので、ダムに橋をかけて直線化したり、道路 を拡幅したりして交通の便を図ることが、矢部 村の活性化にとって必要である。また、村の中 心部、中村、宮ノ尾の市街地の道路の幅員も狭 く、将来バイパスを通して交通の円滑化を図る ことも考えなければならないであろう。

その他の県道や村道の支線は、往時から見れ ば、舗装工事もほとんど終わっているが、日出、 御側、その他狭隘な道路の拡幅が必要である。

林業構造改善事業や農山村振興事業により林 道の開発も進み、昭和五十八年には広域基幹林 道奥八女線(二十六キロメートル)、平成二年 度には、六年の歳月と十七億円をかけて矢部線 (十七キロメートル)が完成した。なお、今後数 年の歳月をかけて北矢部から星野に通じる二十 三キロメートルの北矢部線が施行中であり、矢 部村のみならず八女東部の農林業の発展、村の 活性化に大きな役割を果たすはずである。
昇格祝賀会

国道442号昇格祝賀会

矢部村は、大島村とともに県内では信号のな い村として自慢していたが、本村にも宮ノ尾橋 の三叉路に点滅式の信号灯が設置された。村の 自慢のひとつが消えたのも時代の流れといわざ るを得ない。モータリゼーションの進歩と経済 の発展に伴って、現今ではほとんどの地区に車 が入れるようになったし、通勤や農作業に車は 欠かせない足となり、各家庭には二〜三台保有 する時代になった。

ただ、車の時代になって、人間は歩かなくなっ た。便利さのあまり、つい車に頼ってしまう。 今から足腰を鍛えなければならない小中学生さ え、学校の登下校に車の送迎を見る。昔から「山 坂達者」という言葉がある。八十〜九十歳をこ えた古老達が今なお矍鑠(かくしゃく)として生きておられ るのは、小さい頃から山道を歩いてこられた賜 物であり、私たちは車の功罪を改めて見直し、 賢い村民にならなければならない。

上野用水の開発

矢部村は、平地の少ない山間地とあって、川 沿いの段丘や山の斜面に高い石垣を築き、田畑 を開いていった。土地の開墾、用水路の開発に も、祖先の並々ならぬ苦労があったのである。 今でも竹原、山口、田出尾、御側、日出、横手、 古田、臼ノ払などに素晴らしい水田や畑が広 がっている。
上野用水、上野の水田

上野用水、上野の水田

中村の北、崖上の上野という台地に五町歩余 りの美田が広がっている。ここは広くて肥沃な 台地であるが、水利がなかった。そこで、明治 の末頃、下御側の女鹿野から御側川の水を山の 中腹に用水路を造り、上野に引いたのである。

長さ約四キロメートル、幅約一メートルの水 路であるが、けわしい山腹のうっそうと立ち 茂った薄暗い杉林の中を、蛇のようにくねくね と迂回しながら、今も清冽な清水を楚々として 流し続けて美田をうるおしている。

記録も残っておらず、それを詳しく知ってい る古老もいないので、年代や工事費、工事の様 子も詳しくは分からないが、竣工は明治四十五 年であったという。それにしても、測量技術も 十分でなかった当時としては、たいへんな難工 事であったらしい。古老の話では、数メートル ごとに提灯を灯して千分の一の勾配を取り、溝 を切り、赤土粘土を塗り込めていったという。 勾配を急にすると、すぐ壊れるので、ゆっくり した勾配をつけたのである。その執念と努力は 並大抵のことではなく、工事は困難をきわめた という。

竣工後は、毎年四月から五月にかけての田植 え前には、井手普請(井手さらえや、用水路の 修復など)に一週間から十日くらいかけなけれ ばならなかった。また、増水の時などは、取水 口までいって水の調節もしなければならないな どその維持管理は、たいへんなものであった。 また、ひでりの年は、下の田にこっそり水を引 く者があったりして、その監視にも気を遣った という。

この用水路も、戦後、農業構造改善事業によっ て立派な三方コンクリートの用水路に改修され ている。

その他、牧地区では昭和七年、神ノ窟では昭 和十一年、古田地区十四年、今屋敷十五年、山 口地区二十七年と用水路の開発改修と耕地整理 が行われ、耕地の拡大なかんずく水田の増大に 心血をそそいだ努力がなされた。

しかしながら、十数軒もあった三倉の里など、 猪の跳梁や過疎の波に追われて山を去り、かつ て粒々辛苦して開いた山田が、杉木立の中に埋 もれ、その石垣がつたかずらにおおわれてし まった光景に胸の痛む思いがするのである。

古田地区の耕地開発

古田地区の水田

古田地区の開墾地の水田

古田地区は西園から入って、蚪道への道の周 辺に点在する二十戸の集落である。

ここは、字鍋平、中野、椿原、向園からなる 高原地で、五分の一乃至三十分の一の勾配をな している。開発前の昭和初期までは、畑六町四 段余り、山林九町九段余り、計十六町三段ぐら いであったが、実際には畑としての利用度も少 なくほとんど山野であった。

土質は腐蝕土壌で心土は黄褐色の粘土から成 り、保水力に富み、地味は肥沃で開墾に最も適 していた。しかし、ここから生産するものは、 麦七十七石、大豆四十四石と甘藷、それに薪四 万九千斤で、総収入は僅か二千二百十円に過ぎ なかった。これでは地区民の生活向上は到底望 むべくもなく、開墾によって水田十五町一段九 畝、水路三段八畝、道路七段七畝を設け、米四 百二十五石、麦二百十二石を増産し、年間一万 三千百八十四円(当時の収益の六倍)をあげる ことによって地区民の生活向上を図ろうとした のである。
蚪道堤

蚪道堤(小窪溜池)

昭和九年一月十日、古田地区三十五人は役場 で集会を開き、全員の賛成を得て、古田耕地整 理組合を設立することにした。経過報告のあと、 これまでの費用四百三十七円五十銭の承認を得、 組合長に故椎窓芳蔵、副組合長に故堀下正記の ほか評議員七名を互選により民主的に選出し、 設立計画書を作成したのである。

昭和九年一月二十三日、認可が下り、九月よ り着工した。

総工費七万八千円のうち助成金三万四百六十 九円を受け、起債として日本勧業銀行から一万 四千円を年三分九厘で十五ヶ年の年賦償還で借 り入れた。また農協からも借り入れた。ただし、 長期債は、昭和二十五年までに支払うことに なっていたが、昭和十八年頃からの物価値上が りにより農家の収入がよくなったので、全額十 ヶ年目に支払いを完了することができた。
 工事は、まず十五町の水田を賄うに必要な水 量を割り出し、年間降水量など綿密な計算のも とに貯水池の段別九段九畝、堤防の長さ十九・ 七間、貯水量九千八百七立方坪、水路の長さ二 千八百三十三間など詳しく設計した。

特に溜池築造については、苦労が多かった。 当時は、まだ現在のような道路はなく、旧柳川 道が主要道路であり、資材など一切は、牛馬や 人力で運搬された。堤防の底を岩盤まで掘り下 げ、測量を重ねながら、その上に粘土を築き上 げていくのであるが、固い岩盤は、人力で穴を うがち火薬で爆破し、土や石はモッコで運ぶと いうふうであった。当時、人夫賃が熟練者で一 日一円、普通の人夫は七十銭から九十銭、女性 は四十五銭であった。当時酒一升が一円であっ たという。単純に計算すれば、現在酒一升が二 千円であることを思えば、労働量に比していか に安い人夫賃であったかが想像できる。

この計画は、昭和十六年八月には完成の予定 であったが、太平洋戦争のため人夫の雇い入れ が困難となり、二ヵ年の延期を当局に申し出て いる。

その後少しずつ開田が行われ、昭和二十年八 月三十一日をもって組合事務完了になっている。 それまでに開墾された水田面積は十二町六段二 十二畝、畑二町七一畝二十四歩に及び、大体当 初の目的を達成している。

それにしても道路も整備されておらず、技術 的にも充分でなかった当時のこととて、着手か ら十ヶ年以上にわたった当事者の苦労は並大抵 ではなかったろうと察せられる。古老の話によ れば、勧業銀行も抵当を入れなければ貸してく れず、開田費も杉山を売却して調達するなど、 苦労と心配も多くて、第三者から再三中止した らという忠告を受けたこともあったという。

特に資材や人夫の雇い入れの世話から、補助 金の申請や金策に県庁や出先機関に何回も足を 運んで苦労された組合幹部や、開田に労力を提 供された組合員の労苦と努力には頭の下がる思 いがする。

その血のにじむような苦労が実を結び、荒れ た土地が青々とした美田に生まれ変わり、地区 民の生活安定の基礎が築れたことは、矢部村の 開発の歴史に大きな足跡をとどめている。

今、城山(高屋城)を真東に臨む古田地区の 開墾地に立つと、青々とした水田と茶畑、そし て杉の美林が一望のもとに見渡される。開墾当 時は水田が多かったということであるが、政府 の減反政策で、茶畑になったり、杉が植えられ たりして、かつての美田は少なくなったと古老 は嘆いている。

小窪溜池も満々と水をたたえて、古田地区の 美田をうるおしている。

われわれは、明治、大正、昭和にかけての祖 先や先達が、村のため、子孫のため心血をそそ いで営々として築いた偉業を忘れてはならない。

電灯が灯る

矢部村の中心部に電燈が灯ったのは、大正末 期頃で、山間へき地であったにもかかわらず、 黒木町の大渕などより早かったという。それは 鯛生金山の操業には電力が欠かせず、また資材 運搬のための道路の開削、整備が早くから行わ れたためであろう。ただし、それは県道(現国 道四四二号線)沿いに限られていて、県道から それた山間地の電灯設置は、かなり遅かったよ うである。

それ以前は、行灯やろうそくや囲炉裡の火で あり、やがて石油ランプに代わった。したがっ て、村人は朝早く起きて働き、夜は早く寝る生 活であった。石油ランプのホヤ磨きは、日常生 活の重要な日課であり、子どもの役割であった。

九州電力の配線が来ていないところでは、自 家発電を行っていたところもあった。片山の栗 原団九郎は、浮羽郡から技師を招き、自宅の裏 山から水を引き、自家発電をし、共同して数軒 に電力を供給していたという。大正十年の水害 で流されてしまったが、今もその跡が残ってい る。また、御側地区でも自家発電を行い、御側 小学校などに供給していたという。

椎葉地区では、大正十五年に、九電により送 電され点灯している。当時は、一軒一灯という 定額料金であったので、二灯以上つけるときは、 ひそかに配線して点灯していたと古老は言う。

日出地区に電灯が灯ったのは、終戦後の昭和 二十二年である。当時は、先方線といって、電 柱や電線などの器材や敷設の労力などの資金は、 一切地元の受益者負担で、電力だけを送電する 条件であった。一戸当たり三十万円の前金で あったという。電灯の誘致は住民の永年の待望 であり、加入者も多かった。なかには、九電の 名をかたった悪徳業者にだまされて、前金を持 ち去られた人もいたという笑えない話もあった。 こうして灯った電灯も、電圧が低く、ロウソク 送電である。古巣家公民館前に、立派な電気点 灯記念碑がある。御側地区に電灯が灯ったのは 昭和二十九年である。

「由来、当地は矢部道路より約三粁の奥にあり、 ために文化の恵み少なく、永い間無灯火地域と して取り残されていた。随って電灯引き入れは 切実な願望であるとともに、部落の大きな課題 であった。

然るに、今回世話人及び区民が一致協力して 当たる一方、別記関係諸氏の御援助により、串 下を起点として古巣家、臼ノ払、今屋敷まで二 十四戸、総工費百九万六千円の巨費を投じて、 昭和二十九年十月二十一日、竣工点灯す。ここ に多年の宿願成りて一同歓喜に堪えず、一碑を 建立して一同の苦労とよろこびを記念すると共 に、御援助に対し、深甚なる謝意を表わす。

撰書 矢部小学校長 野崎政夫  世語人    組合長 仁田原実  十万三千円        樋口常五郎 九万五千円        石川富蔵  七万六千円        山浦一登  三万五千円        仁田原友樹 十五万三千円        石川文雄    石工  宮崎昌登     」

地区の人達がいかに電灯のつくのを待ち望ん でいたか、またそのためにいかに苦心、努力し たかがわかる。

昭和二十九年といえば、戦後九年目で日本も ようやく敗戦の痛手から立ち直り、経済復興の めざましい頃である。昭和二十六年にはサンフ ランシスコ平和条約、日米安全保障条約が締結 され、民間放送も開始されている。

翌二十七年 には、オリンピック大会に戦後初参加、NHK テレビが開始されている。それより二年後であ るから、いかに電灯の敷設がおそく、文化の恵 みに浴せず不自由な暮らしをしていたかが察せ られる。

記念碑には、相応の浄財を拠出した人々の名 前が刻まれていて、当時の区民の労苦、努力の あととよろこびの様子がしのばれる。