「天災は忘れたころにやってくる」
これは寺田寅彦の言葉である。
自然の大きな力の前に、人間の力は微力であ
る。有史以来、人類は自然の脅威にさらされな
がらも、たくましく生き抜いてきた。地震、大
風、水害、干害、疫病などさまざまな災害を受
けながらも、それなりの智恵で災害に耐えてき
たのである。ところが、科学、技術が進歩する
につれて、人間は自然に対して傲慢になり、自
然を征服しようと試みるようになった。その結
果、人間は自然のしっぺ返しを食って、さらに
災害を大きくしている。正に人災だと言えよう。
ここに矢部村の主な災害を記して、自然の摂 理を正しく認識し、今後の災害を克服または最 小限に防止できるような対策を立て、この美し い自然と尊い人命、財産を守る道を見出す一助 にしたい。
江戸時代まで台風、水害、干ばつ、凶作、飢
饉、疫病などの多くの記録がある。その中で特
に凶作による飢饉、生活の困窮は、全国的な傾
向であった。享保・天明、天保の飢饉は三大飢
饉といわれ、何十万の餓死者が出たが、特に東
北地方は悲惨な状況であった。
杉田玄白の「後見草」によれば、「出羽(秋
田県)陸奥(青森県)の両国では……天明四年
(一七八四)は、いつもの年にくらべてとくに
穀物が実らなくて、南部(岩手県)津軽(青森
県)にいたっては、よそよりもひどく……父子
兄弟を見捨てて、われ先に他領へふらふらと出
かけて悲しげに食べ物をもらいにいく。しかし、
行く先々も同じ飢饉のときなので……毎日千人、
二千人と浮浪者が飢え死にしたとか。……村に
残ってとどまった者たちは、食べられるものは
全部食べたけれども、のちに食い尽くしてしま
い、先に死んだ人の死体を食ったという。ある
いは、子どもの首を切り、頭皮をはぎ取ってあ
ぶり焼き、頭がい骨の割れ目にへらを入れ、脳
味噌を出し、草木の根や葉をまぜて食う人も
あったという……」とその悲惨な様子を伝えて
いる。
当地方はそれほどではなかったにしても、さ
まざまな災害が起こっている。
主な災害を年表にまとめる。
元 号 | 西 暦 | 災 害 内 容 |
---|---|---|
天武 七年 | 六七八 | 筑紫の国に大地震起こる |
寛永 七年 | 一六三〇 | 干ばつ、飢饉あり |
寛永一六年 | 一六三九 | 近ごろ珍しい大風、社寺、家屋など破壊する |
寛永一八年 | 一六四二 | 春より冬にかけて疫病流行、その上凶作、飢饉となる |
万治 二年 | 一六五九 | 久留米藩、春飢饉、夏多雨洪水、田畑荒廃する |
寛文 八年 | 一六六八 | 大洪水のため田畑荒廃、人馬流失、溺死、家屋崩れ、 幕府巡検使を遣わし、被害を見る |
延宝 元年 | 一六七三 | 矢部川大洪水、濁流軒まで及ぶ |
延宝 三年 | 一六七五 | この春、久留米藩飢饉となる |
延宝 四年 | 一六七六 | 五月、八月、九月大雨つづき大洪水となる |
天和 元年 | 一六八一 | 久留米藩内、飢饉餓死するもの多く、公庫を開いて、 米一人につき一日一合六勺あて与える |
享保 九年 | 一七二四 | この頃大地震、干ばつ、長雨、いなごの害と続く |
享保十七年 | 一七三二 | 享保の飢饉、幕府救済金を貸し出す 久留米藩餓死者一一、一九八人,死馬四、○○○頭以上 柳川藩、飢民四五、○○○人餓死者一一三人、 死馬三、○○○頭 |
宝暦 四年 | 一七五四 | 久留米藩に宝暦の一揆起こり、 蜂起した農民十万人以上に及ぶ。死罪四七人、処罰者多数 |
天保 九年 | 一八三八 | ほうそう大流行する |
安政 五年 | 一八五八 | コロリ病(コレラ)大流行、久留米藩の死者二、二○○人、八女地方にも流行する |
慶応 三年 (明治元年) | 一八六三 | 四月八日、大霜により、茶、楮、 その他農作物大被害、生活に困窮し、柳川藩領上妻郡の十八ヶ村で粮米、俵を前借し、秋米を収穫して返済する上の覚え書きが、上野文書(立花町)に残されている |
明治三八年 | 一九○五 | 矢部川の大氾濫で、 殆どの橋梁が流失する |
大正 十年 | 一九二一 | 六月十七日、大水害 |
昭和十六年 | 一九四一 | 矢部村の大火(四月一日) |
昭和二八年 | 一九五三 | 矢部川の大氾濫 |
平成 二年 | 一九九一 | 矢部川南岸の大水害(矢部村、黒木町、剣持川、田代川、立花町辺春川の大氾濫) |
平成 三年 | 一九九一 | 台風十七号、十九号で山林被害甚大 |
大正十年六月、梅雨期に入り十三日から十六
日にかけて断続的に降り続いた雨で、矢部川は
増水を繰り返していた。特に十六日から三十四
時問降り続いた雨は、十七日未明から激しくな
り、午前七時から九時頃まで、しのつく豪雨と
なって矢部川、星野川に奔流し、流域二十一ヶ
町村に及ぶ未曽有の大水害となった。
記録によると、雨量は前日までの四日間(十
三日〜十六日)で約三百ミリ、十七日当日は実
に一日で二百二ミリに達した。そのため堤防、
堰堤、道路の決壊、家屋、橋梁の流失、田畑、
林野の荒廃、人畜の死傷など甚大であった。
矢部村においては、石川内橋は路面より二尺
以上(十二尺八寸)、宮ノ尾橋は御側川の水量
が本川よりも大で、九尺五寸にも達し、午前十
時頃には、村役場(宮ノ尾)以西は交通、通信
も杜絶して、全く陸の孤島となってしまった。
幸い死者はなかったものの、傷者一人、牛一
頭が死に、家屋流失十九戸、全壊三棟、半壊六
棟、土地の流失田四百反、畑百十五反、山林六
百反の被害を出した。また、小学校の臨時休校
日出小学校五日、御側小学校六日の記録が残っ
ている。
北矢部の御側川、樅鶴川流域に集中的に豪雨
が見舞ったのである。
六月初旬から降り続いていた雨は、六月二十
五日、二十六日の未曽有の豪雨で、西日本全域
にわたって前例のない雨量を示し、異常な大災
害を惹き起こした。八女郡における矢部川はも
ちろん筑後川も大洪水となり、筑後一帯の惨状
はその極に達して郷土、国土を戦慄させたので
ある。山地の崩壊、田畑の流失による農作物の
被害は甚大で、あまつさえ多数の人命や家畜を
犠牲にしたことは、前例に比なく、あるいは輸
送、交通通信の杜絶と混乱はその極に達し、罹
災者はただ茫然自失の状態であった。
濁流に浸った民家(石川内) | 御側川 |
水害の跡 |
宮ノ尾から、中村、高山酒店を見る |
六月二十五日の九時から翌二十六日の九時ま
でに四百ミリ、特に二十六日は雷光雷鳴を伴っ
た一大驟雨となり、三十分も満たない短時問に
百ミリを示した。
六月二十六日八時三十分頃、大分県境の猿駆
山の中腹の杉山が一大音響とともに幅八十メー
トルに及んで一挙に大崩壊し、下方の杉林を襲
い田畑一町歩に大亀裂を生じた。その勢いは、
竹原川に押し寄せ鯛生金山の廃砿石の山を崩し、
河川は大氾濫を起こしたのである。
御側川も樅鶴川も山林崩壊により、杉の立木
や製材用の貯木を押し流し、河川沿いの道路、
橋梁、田畑、人家などに大きな被害をもたらし
た。
矢部村の橋梁はほとんど流失し、道路は寸断
され、交通は完全に遮断された。食糧や衣料、
日用品の輸送も不能になり、電柱は倒壊し電線
は切断され、市外線はもちろん市内線もわずか
一部を残し不通となり、ラジオも不聴で、文字
どおり全く陸の孤島となってしまった。
この災害で三戸の農家が埋没し、六名の尊い
人命が失われた。また、決死の水防作業や人命
救助に活動中の消防団員二名が水魔の犠牲とな
られたことは、誠に痛恨のきわみである。
御芳名を記して、心から御冥福を祈る。
矢部村消防団 故 石 川 睦 朗 殿 故 栗 原 善 一 殿
福岡日々新聞より |
平成三年四月一日は、矢部村の大火からちょ
うど五十年にあたる歴史的な日である。
五十年前の昭和十六年四月一日、その日は矢
部小学校が国民学校と改称された入学式の日で
あり、太平洋戦争開戦の直前で、皮肉にも村で
は防火避難訓練が行われた日であった。
午後四時五十分頃、村の中心街をなす中村の
民家から出火、折からの乾燥した春風にあおら
れ烈風を巻き起こし、またたく間に中村の民家
二十余戸を舐め尽くした。さらに百余メートル
離れた対岸の宮ノ尾の集落に火の玉となって飛
び火し、老松天満宮の境内を取り巻く形で燃え
広がり、宮ノ尾の集落もほとんど灰燼に帰して
しまったのである。
当時の民家は、ほとんどが藁葺きかカヤ、杉
皮葺きであり、出火と同時に消火活動に奔走し
たが、次々に火の子が飛び移り、どうすること
もできなかったという。
長時間に及ぶ消火活動には、地元の消防団は
もとより大渕村、黒木町、中津江村からも駆け
つけ、懸命の消火活動によって午後七時五十分
頃ようやく鎮火した。
中村、宮ノ尾は村の中心街をなし、役場、矢
部小学校、矢部郵便局などがあったが、火勢が
強く火のまわりが早かったので、重要書類や備
品など搬出するひまもなく焼失し、民家でも家
財道具など運び出すこともできない状態であっ
た。
焼失家屋は、村役場、矢部小学校、矢部郵便
局、老松天満宮のほか民家五十五棟に及んでい
る。幸い死者は出なかったものの、罹災者は五
百余名に達している。直ちに救援活動が行われ、
村内および近村の警防団、国防婦人会等が救護、
炊き出しに出動した。鯛生金山からは二百人が
出動して救護、炊き出しにあたったという。ま
た、近隣の市町村からは、大渕村から米五十俵
とか、村内栗原団九郎米何俵とか、村内外から
米、漬物、味噌、野莱などの火災見舞いの金品
が沢山送られて来た。
福岡日々新聞(今の西日本新聞)も翌日の朝
刊の社会面に「両部落殆ど全滅、八女郡矢部村
の大火」と大きく報道した。
我が国は折から日中戦争の泥沼から太平洋戦
争へ突入しようとする非常時であった。そのた
めに復旧への道は困難をきわめた。建築資材は
乏しく、特に釘やかすがいなどの金属類は極度
に不足して、入手が困難であった。
また、太平洋戦争に突入(昭和十六年十二月
八日)すると、お上の達示で二階建ての建築は、
全面的に禁止されたという。
今日、役場、矢部小学校、矢部郵便局、老松
天満宮などの焼失により、戸籍簿や学籍簿、郵
便書類、その他の参考文献が少なく、村誌編纂
にも大火以前の資料が求めにくく、誠に惜しま
れる。