在満家族慰問 |
在満家族慰問 |
明治、大正、昭和の戦前にかけて、日本は「富
国強兵」「殖産興業」そして「大東亜共栄圏の
確立」のかけ声とともに、欧米諸国と肩を並べ
るほどのめざましい発展を遂げたが、それは日
本国民とアジア近隣諸国を犠牲にした日清戦争
(明治二十七〜八年)、日露戦争(明治三十七
〜八年)、第一次世界大戦(大正三〜七年)、日
中戦争(昭和十二年)、太平洋戦争(昭和十六
〜二十年)という悲惨な戦争の歴史でもあった。
大正の一時期には、大正デモクラシーという
民衆の目覚めと動きもあったが、昭和六年の満
州事変を契機に、昭和七年五月十五日、時の首
相犬養毅を暗殺した五・一五事件や昭和十一年
二月二十六日、農村や労働者の窮状を憂えた青
年将校たちが、政党政治や財界に不満を持ち、
国家改造を叫んで岡田啓介首相その他政府の要
人を襲ったいわゆる二・二六事件は、日本の運
命を左右する大きな出来事であった。ここに民
主政治の原点である政党政治は終わりを告げ、
統帥権をたてにとった軍部と極右団体、国粋主
義者の暴走が始まったのである。
満州事変、五・一五事件、二・二六事件を経
て、軍部の独走により昭和十二年、宣戦布告な
き戦いといわれた日中戦争が始まると、国家総
動員法や国民徴用令など次々に公布され、経済
は統制され、軍需品生産のため生活物資は極度
に制限され、戦時体制が固められていった。
「お国のために」という合い言葉のもとに、
毎日のように赤紙の召集令状が届けられ、一家
の大黒柱や働き盛りの若者が、つぎからつぎへ
と戦場や軍需工場に送られていった。町の駅頭
や村の広場や鎮守の森では、家族や在郷軍人、
国防婦人会、学童たちの歓呼の声に送られる出
征兵士の出発風景があちこちに見られるように
なった。
昭和十二年(一九三七)十月、日中戦争が起
こると同時に防空法が制定され、戦争の拡大に
伴って昭和十四年には、今まで各市町村の防護
団と消防団が防空組織を強化するために警防団
として発足した。
戦時体制下の庶民生活に深いかかわりあいを
持っていたもうひとつの組織に、市町村の町内
会、集落会があり、その下に隣組の制度があっ
た。
昭和十五年(一九四〇)九月十一日、内務省
は、町内会、集落会、隣組の整備強化を図り、
国策遂行のための市町村の補助機関として制度
化していったのである。戦争末期には、町内会、
集落会を法律上でも市町村事務の一部を補助す
る行政補助機関として制度化し、町内会長、集
落会長は、行政職に準ずる身分が保障されるな
ど、上意下達の命令機関となってしまった。
隣組は、相互扶助を目的とした自治的な屋敷
内をもとに、十戸位を単位に組織されたが、戦
争が熾烈になるにつれ相互扶助はもとより、防
空演習や回覧板の配布、出征兵士の見送り、軍
人遺家族、留守家族への救援、慰問、物資の供
出、配給、廃品回収など戦争遂行のために動員
されるようになったのである。
男性が戦場や軍事工場にかり出されて少なく
なっていく中で、女性たちは国防婦人会を結成
し、モンペ、タスキがけで食糧増産、防火訓練、
軍人遺家族の慰問、戦場への慰問袋や千人針な
ど銃後を守る役目を果たした。
国家総動員法が施行されたのは、昭和十三年 (一九三八)五月五日である。その第一条には、 「国家総動員法は、戦時に際し国防目的達成の ため、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう 人的および物的資源を運用することをいう」と あった。こうして、政治はもとより、産業経済、 教育、文化、報道、通信などすべての組織、機 関が戦争貫徹のために組織され、動員された。 さらに、昭和十八年(一九四三)に公布された
北支出征軍家族慰問 |
北支出征軍家族慰問 |
日中戦争から太平洋戦争へと戦局が泥沼化し
ていくにつれて、「節約と代用品で長期戦に備
えよ」という指示のもとに金属回収が行われ、
お寺の梵鐘や家庭の鍋、釜まで供出し、米は一
日一食かパン、うどんを食べるように強いられ
るようになった。国民は、空き地や学校の運動
場まで耕し、さつま芋などを植えたりして食糧
増産に努めた。綿に代わってスフ(人絹)が代
用され、お盆の提灯さえ禁止されるようになっ
た。
昭和十三年七月、政府は物価騰貴の対策とし
て、物品の販売価格を公定価格(公)にし、経
済統制を強化した。
昭和十四年十月には、米穀配給統制法が施行
され、米の配給制度が始まった。
米は、切符制
で配給されることになったが、一般の成年男子
の配給量は、一日二合三勺(約三百五十グラム)
であった。当時働く人は一日四合ぐらい食べて
いたのであるから、その約半分で当然足りるは
ずがなく、闇米を買うか雑穀(麦、粟、稗、大
豆粕、コウリャンなど)、いもなどで補うほか
はなかった。
その他、ガソリン、小麦粉、砂糖、味噌、醤
油、酒、たばこ、魚、肉類、野菜(じゃが芋な
ど)木炭、マッチ、衣料、石鹸など日常生活用
品のほとんどが配給制となった。また灯火管制
も行われ、ローソク送電の暗い中で、国民は欠
乏のどん底にあえいだ。
男子は国民服に戦闘帽、ゲートル(巻脚絆)、
女子はモンペ姿で、パーマネントも禁止され、
戦時型のひっつめ髪が強制された。国策に添わ
ない者は非国民として指弾された。
昭和十四年九月には、毎月一日を「興亜奉公
日」と制定し、内地も戦場と同じ気持ちで、勤
倹、貯蓄、節約に励むよう強制された。
教育も戦争の枠組みに組み入れられた。昭和
十六年四月から小学校は国民学校と改称され、
教育内容も皇国の道を教える国民科と身体の練
磨をはかる体育科が重視されるようになった。
高等科の生徒を中心に学校田や校庭を開墾し
たり、農家の深刻な人手不足を補うために田植
えや稲刈りに動員された。中学校以上では、学
校勤労報国隊が編成され、三年生以上は男女を
問わず、勤労の義務が負わされ、軍需工場や飛
行場建設などにかり出され、農村に動員された。
太平洋戦争が始まったのは、昭和十六年(一
九四一)十二月八日である。ラジオの軍艦マー
チにのって「……米国オヨビ英国ニ対シテ戦イ
ヲ宣ス……」という宣戦の詔勅を身のひきしま
る思いで聞いたものである。
ハワイ真珠湾の奇襲攻撃、マレー沖海戦から
フィリピン、インドシナ、マレー半島、南太平
洋諸島を電火のごとく席捲し、初期の戦果はま
ことにめざましいものがあり、国民も戦勝に
酔ったのである。しかし、戦局が長期化するに
つれ連合軍の物量と近代兵器に物をいわせた反
攻によって戦局はじり貧になっていった。日本
の敗北を決定的にしたミッドウェー海戦で、日
本海軍は壊滅的な打撃を受け、大陸では中国軍
の頑強な抵抗を受け、時局はいよいよ急迫を告
げていった。ビルマのインパール作戦や南洋諸
島における苦戦と壊滅的打撃から、ガダルカナ
ル、サイパン島、グアム島、アッツ島、硫黄島
の日本軍の玉砕と敗色は日一日と濃くなってき
た。サイパン島の陥落後は、米空軍のB29の本
土空襲により、日本の主要都市はほとんど焦土
と化してしまった。
昭和二十年(一九四五)三月には、連合国軍
が沖縄に上陸してきた。日本軍は沖縄を本土の
最前線とみて島民をまきぞえにして決戦を挑ん
だが、猛烈な砲火を受け、日本軍約九万人の戦
死者のほか、九万人以上ともいわれる県民を犠
牲にして占領されてしまった。
日本では、指導層の一部に和平交渉を進める
動きもあったが、軍部は「本土決戦」を唱えて
無条件降伏を勧めたポツダム宣言を黙殺すると
発表した。
八月六日広島に、八月九日には長崎に世界で
初めての原子爆弾が投下され、両市は一瞬にし
て壊滅してしまった。広島と長崎で、戦後の昭
和二十五年(一九五〇)までにあわせて三十数
万人にものぼる死者とそれ以上の負傷者が出た
のである。
招魂社 |
慰霊碑 |
八月八日には、ソ連が日ソ不可侵条約を一方
的に破棄し、満州、樺太に怒濤のように侵攻し
てきた。
こうしたなかで、日本は昭和二十年(一九四
五)八月十五日、天皇の聖断によりポツダム宣
言を無条件に受諾して降伏し、何百万人という
尊い人命と、膨大な資源を犠牲にして太平洋戦
争は終結したのである。
こうした日本や世界の動きは、この山村の矢
部村にも決して無関係ではなかった。山村のこ
ととて、戦争の直接的な被害はなかったものの、
食糧、物資も乏しく、生活は戦時色濃厚で厳し
かった。狭い土地で食糧や木炭の増産に精を出
し、防空訓練、軍事訓練も日常的に行われた。
村人の話では、宮ノ尾区の壮年で組織した一心
会は、真弓尾の川で水ごりをとって権現神社ま
で裸で走り、戦勝を祈願していたという。戦争
末期には、B29が西北から東南に向けて編隊を
組み、キラキラと輝きながら飛び去っていくの
もたびたび見られた。あるときは、照明弾が殊
正寺の奥の方に落下し、山火事が発生したこと
もあり、機関銃の弾丸なども見つかっている。
生活品のカンパン、砂糖、煙草、酒、衣料など
の配給は矢部村の農協
であつかっていた。
村人に召集令状が来
ると、役場職員が防諜
のために近所にわから
ないように夜二人で密
かに配達したというこ
とである。
村内の生活も苦し
かったが、その間には
たくさんの村民が兵役
に召集され、大陸に南
方に転戦し、多くの方々が戦場の露と消えてい
かれたことは、誠に痛恨のきわみである。
村内の戦没者数二百七十五柱、老松天満宮の
境内には戦没者慰霊碑が建立されているが、毎
年四月には国のために尊い生命を捧げられた戦
没者並びに消防団殉職者の慰霊祭がしめやかに
催されている。戦後四十六年を経た今日、遺族
も年老いて参列者に老人が多いのも年月の経過
を思わずにはおられない。
ここに戦没者並びに消防団殉職者の方々の御 芳名、没年、戦死地を記載して、心から御冥福 をお祈りするものである。