戦後の矢部村

太平洋戦争は、我が国だけでなく世界の国々、 わけてもアジアの国々に大きな惨禍を残して、 昭和二十年八月十五日、日本の無条件降伏とい う形で終結した。

日本を占領した連合国は、連合軍総司令部(GHQ) の命令として、次々と日本の戦後処理と 民主化政策を進めていった。

陸海空軍の武装解除、戦犯容疑者の逮捕と処 罰、公職追放、政党の復活、普通選挙法(婦人 参政権)の実施、財閥の解体、農地改革、教育 制度の改革、地方自治制度の改革、そして日本 国憲法の制定など枚挙にいとまのないほど次か ら次へと改革の手を打ったのである。

農地解放(農地改革)

農地改革ともいわれ、封建制の強かった農民 は解放され、農村は大きく変わった。 それまで大地主の広大な裾野を支えていた零細小作農は、 全体の六〇パーセントを占め、貧しい生活を余儀なく されていたのである。
 昭和二十年十二月に公布された改正農地調整 法による第一次農地改革は、

「@不在地主保有の全小作地と在村地主の保 有面積限度を五町歩とし、これを超える分を五 年間に解放する。   A物納小作料(米の現物小作料がほとんどで、 よ米といった)を金納化する。   B小作地の解放は、市町村農地委員会の承認 をとること。」
などであった。

しかし、これに反対する労農運動が広がり、 事態を憂慮した連合軍総司令部(GHQ)は、 この実施を停止させ、改正案の作成を政府に命じた。

その結果、農地調整法と自作農特別措置法の 二法を柱とするいわゆる第二次農地改革が、 昭和二十一年十月二十五日に公布された。

第二次農地改革の要点は、

「@在村地主の小作保有面積の限度を約一町 歩とし、それを超える分を二ヶ年のうちに国が 地主から強制的に買収して、それを小作農に 売り渡す。   A買収は二十年十一月にさかのぼる。買収価 格は、田は賃貸価格の四十倍(全国平均反当り 七百六十円)畑は四十八倍(同四百五十円)と する。   B高率な物納小作料を禁止し、低率金納化とする。   C市町村農地委員会が買収計画作成からその 手続きなどの業務を担当する。」
というものであった。

買収の費用は国債が充てられた。

矢部村の場合は、昭和二十五年八月までに、 農地を解放した地主が百七十六戸、農地の売り 渡しを受けた小作農が三百二十一戸にのぼり、 面積は五十二町歩、対価は二十三万五千三百五 十二円であった。

GHQはさらに戦時中から市町村に組織され ていた「農業会」の改革を指令した。これが農 業協同組合である。
  ※矢部村農業協同組合のあゆみ参照

こうして、農地改革によって農地が解放され 新しい自作農が誕生し農村の民主化が促進され たが、山林の改革は行われなかったのである。

一時期、山林の所有については五町歩までと いう噂が広がり、山林地主をあわてさせたが、 結局山林解放は行われず、山村では依然として 山林地主が広大な山林を所有しつづけることに なったのである。

本村では、矢部村民の山林所有者よりも、他 町村の地主が多いのが実態である。