日向神 |
後征西将軍宮がこの地に来られた頃、親王に
供奉する五条氏に従う栗原氏、江田氏などは、
盛んに武術を練ったものと思われる。とくに、
弓術が盛んに行われ、篠竹が沢山生えていたの
で矢作りの家が多く、「矢の部」が矢部になっ
たといわれている。
昔は弓場が各所にあり、また弓術会が各地で
行われていて、弓のたしなみのないものはいな
かったという。
片山の栗原家には「射法の巻一軸」が残って
おり、老松天満宮の春の例祭では、悪魔退散の
祈願をこめて青木の弓で三十三本の矢を的に当
てる神事が残っている。また、中間の原島家は、
屋号を射場頭(イバガシラ)
というが、弓矢の頭がいたところ
であろう。二ツ尾に松葉という地名があるが、
もとは的場(マトバ)がマツバになまってしまっ
たという説もある。
ともあれ、矢部は中世の武人が住み、弓矢が
盛んであったことから、矢部といったことはま
ちがいない。
古事記、日本書紀に記されている瓊々杵尊(ににぎのみこと)
と木花開耶姫の間に生まれた彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、
火明命(ほのあかりのみこと)、火酢芹命(ほのすくりのみこと)などは、「日向神神書」
によると、八女の奥の空所(うつろ)(黒木町大渕、宇津
呂、溝状の谷という意)を御産所とされてお産
みになったと記されている。お産の時敷かれた
敷物を捨てられた所を「子敷岩屋(古思喜岩屋
とも書いてある)という」とある。今の大渕の
古敷岩屋である。
木花開耶姫の寝殿は、陽光を避けた暗い陰の
地に造られ、その名を「月足」の里と名付けら
れ、夫の瓊々杵尊の寝殿は、陽光のよく当たる
地に造られ、この地を「日向神」の里と号した
という。
日向の神さまが、この地に飛遊された折、景
趣の美しさにみとれ、乗っていた天馬のひずめ
で蹴破られたのが、日向神の蹴洞岩であるとい
う伝説がある。
地質学的に言えば、日向神峡の岩々は、水の 浸触作用によって出来たものである。
八女津媛神社のある集落を神ノ窟という。神 杜の境内に高さ八○センチ、幅十五センチくら いの一対の灯篭がある。その一本には次のよう に記されている。
奉寄進石燈篭一本 元禄六歳癸酉五月吉上日 上妻郡矢部仏岩屋村 栗原権兵衛尉
神ノ窟は、二百七十二年前ころは、仏岩屋と
いっていたのである。
では、いつ頃から神ノ窟と呼ばれるように
なったのであろうか。
善正寺の過去帳に、宝暦八年(一七五八)に
は仏岩屋とあるが、嘉永二年(一八四九)には、
神岩屋と出てくる。
八女津媛神社は、六所権言または岩屋権現と
もいって、養老三年(七一九)の創祀といわれ
ているが、その後、天正十年(一五八二)に源
親直が再興した由緒ある神社である。
権現とは、仏が衆生済度のため、化身して仮 に神として現われたものである。いわゆる本地 垂述の神仏混淆の信仰で、仏の岩屋から神の岩 屋となったのであろう。神社として祭りが盛大 になってきた江戸時代の終わり頃に神の岩屋に なり、明治になって神窟となったらしい。
後村上天皇の第六皇子後征西将軍良成親王の
御陵墓のある地を御側という。御陵墓の側です
なわち「御側」の地名になったと考えられる。
御陵墓の玉垣から小さな流れをはさんだとこ
ろに、釈迦如来を祀った祠があり、昔の人たち
はこの釈迦堂を「王様の墓」といっていた。
昔はよく御堂に旅の者が泊っていたが、一晩 中武士に襲われるような剣の音や、木を倒し竹 を割るような音がして眠れず、土地の人が入る と音がハタと止んだという言い伝えがある。親 王の忠臣たちが死んだ後も親王をお守りしよう としたのか、失意のうちに亡くなられた親王の 魂魄の叫びであろうか。
浦安の舞 | 御陵墓参道 |
今は、御霊は宮内庁管轄として鎮座され、訪
れる人々に一掬の涙をそそがせる幽邃のたたず
まいを見せている。
御陵墓の西側には、親王が朝夕つかわれたと
いう「三水の井」があり、そこから流れ出る水
が御側川に落ちる所(今の村営駐車場あたり)
を(尾谷尻)王谷尻という。また、尾谷尻から
宮の御座所までの細い坂道を土地の人は「公卿
坂」と呼び、近くには宮が諸将を謁見されたと
いう「見参平」というところがある。
村では、毎年宮の命日に当たる十月八日に、 村内外の来賓を招いて、墓前において「御陵墓 祭(大杣祭典)」を開き、宮の霊を慰めている。
矢部川の支流御側川の三倉橋を渡り、梅地藪
を通って山道をさかのぼると三倉に着く。
この三倉は御倉ともいわれ、その昔、征西府
の倉庫があったところらしい。近くには蔵屋敷
というところもあったという。昔は集落に十数
メートルもある杉の大木が何本も立ち並んでい
た。
三倉は御側とともに征西府の要の地点にあた
り、食料や武具の保管には最適の場所であった。
五条家文書の中に轟薩摩守と出てくるが、おそ
らく御蔵の守衛の長であったと思われる。
三倉集落には、戦後しばらくは七・八軒の人 家があって、全部轟姓を名乗っていた。今は離 村して一軒もなく、廃屋や石垣が残るだけと なっている。
三倉の東方に大野塚という美しい草原がある。
王の塚ともいう。宮が毎年、元旦に日の出を拝
されたところである。逢か東方を拝し、吉野の
御所にまします父君を思い、都恋しさに身の不
遇を嘆かれたことであろう。
この山にひとつの塚がある。掘ったら罰があ
たるということで、誰も掘るものがいなかった。
明治のはじめの頃、炭焼きの人が秘かに掘った
が、石堰の中をのぞく前に日が暮れてしまった。
ところが、夜になって枕もとに沢山の家来をつ
れた気品のある武将が現われたので、翌日塚を
埋め、麓から自然石を運び上げ、建てたとのこ
とである。噂によると、金の鶏と盃が埋ってい
るとか。
この山の中腹に津江に通ずる倉所というとこ
ろがある。また、この坂道を「米かるい道(米
を担ぐ道)」という。三倉が征西府の倉庫であっ
たとすれば、半里山奥のこの倉所は、第二の非
常倉庫であったと思われる。当時津江村には大
野氏、西正面には五条、黒木、星野の各氏がそ
れぞれ守備にあたっていて、食料や武器を密か
にこの倉所に蔵めたものと思われる。
また、三倉附近に山法師塚があるという。あ る人がこの塚から太刀一振、鎧一重ねを堀り出 したというまことしやかな噂話もある。
臼ノ払に窟がある。菊池窟という。南朝の忠
臣菊池武敏が、筑前多々良浜の合戦で足利方に
敗れ、太宰府から肥後に逃れる途中、敵の追撃
が急で、万策尽きた武敏が久しくこの窟内に隠
れていたという。
この道路沿いの川筋に川海苔を産するが、里 人は武敏が放尿したためであると言い伝えてい る。
御側の下方が女鹿野である。昔は原野で女鹿
を放っていたところから女鹿野という地名が生
まれたという。大正の頃、堰開きの時鏡と壷が
掘り出されたが、壷には動物の骨らしいものが
入っていたという。鏡の行方はわからない。
御側の上に六本松という集落があり、そこに
経塚という塚があった。古老の話によると、お
経を収めたところであるという。昔は寺屋敷と
いって寺があったらしいが、今は観音堂(八十
八ヶ所四十番礼所)が建っている。また石燈篭
の破片や御側と同じ灯明の器も残っている。
察するに、宮が亡くなられたあとに建立され、 密かに宮の御冥福を祈ったものであろう
矢部村には、栗原、江田、山口、轟、新原、
中司、壬生、藤原などの姓があり、また黒木町
大渕には、橋本、堀川などの姓がある。
漆器の台付盃 | はまぐり型の什器 |
本村には、栗原姓を名乗る家が広く分布し、
世帯数の約二〇パーセント以上を占めている。
栗原氏は、両征西将軍宮に供奉した五条氏の
家臣団の一族と思われ、矢部村の代表的な家系
である。
古い文書にも、栗原伊賀守や栗原越前守とい
う名が出てくるし、栗原伊賀守のものと伝えら
れている墓が石川内のほかにも一、二ヶ所あり、
栗原越前守の墓といわれているものが神窟にあ
る。ともに自然石で確かめるすべもないが、栗
原越前守の墓はもと小堂があり、文書もあった
と聞く。越前守の弟、栗原義徳の墓は、片山に
あるという。
脇差 |
飛地区の栗原富男宅には、故晨護氏が昔から
保存していた文書や什器類があるが、氏の突然
の死去で未整理のまま、保存されている。
その中に、刀一振、脇差二振と五段重ねの大
きな漆器の台付盃、それにはまぐり型の大きな
什器がある。
刀の袋には、絹布の説明書きが付けられてい
る。
「四代前の祖、栗原久助(年代不詳)が久留
米藩財政困難な折、金八十両献上し、賞として
名字帯刀許可別当仰付、農家繁栄、積善明鏡録
に大盃五段組及びハマグリ形器具とともにいた
だいた」と記されている。その裏付けとなる文
書(感状)もあったというが、今は見当たらな
い。
脇差一振の柄には、「備州長船祐□作、弘□
三年四月□日」と銘がある。弘のつく年号は、
弘安、弘和、弘治、弘化があるが、弘安三年(一
二八○)であれば、今から約七百十年前であり、
弘和三年(一三八一)であれば、六百十年前、
弘治三年(一五五七)なら四百三十年前である。
弘化三年(一八四六)ならずっと下って百四十
五年前の江戸時代後期の作である。
いずれにしても、他の二振の無銘のものと比
べて、硬質で錆も少なく、貴重なものと思われ
る。
この際、保存品が損傷したり散逸するのを防
ぐために、調査して整理する必要がある。
新田氏の一族と思われるが、御側の山の口に
住んだ関係から山口と名乗ったということであ
る。山口家の墓石から堀口の姓と宝暦の年号を
読み取ることができる。また、弘安という年号
を刻した石塔に征西将軍宮の供人、江田、堀口、
竹川の文字を発見している。
五条家の別家と思われ、五条家文書に轟薩摩
守の名前が明記してある。轟地区には石堰があ
り、その一部がかつては残っていたということ
であるが、今は確認できない。
二氏は公卿衆らしい。中司は、ナカシと呼ん
でいるが、往時はナカツカサとも読む。壬生は
ミブと読む。京都には新撰組の屯所として地名
が残っている。
その他、原島、新宮、堀下、江良、若杉、郷
原などの姓がある。
八女津媛神社の権現杉 |
老松天満宮の大いちょう |
老松天満宮の大杉 |
椎葉の大いちょう |
桑の平のカヤ |
善正寺の大槇 |
妙見堂のガラガラ柿 |
二ツ尾のカツラ |
コズミトコのカツラ |
古野のイロハモミジ |
枳殼の木 |
○老松天満宮の大杉 宮ノ尾所在 (矢部村指定天然記念物) 樹齢 推定約四百六十年 幹回り 約一・四〇メートル 樹高 約三九メートル
○老松天満宮の大いちょう 宮ノ尾所在 (矢部村指定天然記念物) 樹齢 推定約四百六十年 幹回り 一・七四九メートル 樹高 二四・八○メートル
大杉もいちょうの木も、昭和十六年の大火にも、度々の 台風にも耐えて、老松天満宮の空に毅然として立って いたが、平成三年九月二十七日台風十九号のために 大杉は倒れてしまった。
○八女津媛神社の権現杉 神ノ窟所在 (矢部村指定天然記念物) 樹齢 推定六〇〇年 幹周り 約五・七メートル 樹高 約四四・七五メートル
○善正寺の大槇 殊正寺所在 樹齢 推定約四〇〇年 幹周り 約三・八メートル 樹高 約一四・五メートル
○桑の平のカヤ(御神体) 桑ノ平所在 樹齢 推定約三〇〇年 幹周り 約三・ニメートル 樹高 二五・五メートル
○椎葉の大イチョウ 椎葉所在 樹齢 推定約三〇〇年 幹周り 約五・一メートル 樹高 約二二・五メートル
○コズミトコのカツラ コズミトコ所在 樹齢 推定約三五〇年 幹周り 約五・四メートル 樹高 約二四・五メートル その他矢部村には次の御神、巨木がある。
○二ツ尾のカツラ(御神木) 二ツ尾所在
○妙見堂のガラガラ柿 石岡所在
○枳殼(ゲズ)の木 枳殼(ゲズ)所在
○古野のイロハモミジ 古野所在
四国八十八ヶ所の霊場が、いつの頃に開創されたものであるかは明らかではない。一般には弘法大師によって、大同(八〇六〜八一〇)弘仁(八一〇〜八二四)の年間に開かれたものであると信じられており、各札所の緑起にもそのように書かれているものが多いが、四国霊場を大師が開いたと認定する史実はないようである。
衛門三郎という人が四国霊場を巡った時、天長八年(八三一)十月二十日に、阿波国(徳島県)名西郡下分上村馬地の杖杉庵で、弘法大師に出会ったという言い伝えから判断すれば、その頃既に八十八ヶ所が完成していたかもしれない。現在の八十八カ所の札所には、いずれも昔から本堂の他に大師堂が祀ってあり、また八十八カ所を遍路する人の持つ金剛杖が、弘法大師を意味するという信仰によって、遍路者は何人も弘法大師と同行一人であると信じられていることからも、四国八十八ヶ所と弘法大師と切っても切れぬ深い関係であることはまちがいないと考えられる。
ちなみに、弘法大師(空海)は、唐から帰国して、三年ほど筑後地方を巡回したと伝えられていて、各地に大師ゆかりの古蹟がある。
この四国八十八ヶ所が全国各地に広まり、この矢部の地も神聖な地の一つになり、弘法大師を仰敬し、心身を修業するため、また願いごとがかなえられるようにと札所巡りが盛んになったのである。
今日でも「弘法さん詣り」といって、親から子、子から孫へと引き継がれ、うるわしい郷土の伝統として息づいている。また、札所の御神体は、それぞれの地域での守り神として崇められている。
この札所巡りのことを霊場巡り、遍路、巡礼ともいう。「二人同行」と書いた白衣姿、手甲脚絆、草鞋に身を固め、手には金剛杖、肩から頭陀袋、手には数珠と鈴を持ち、すげ笠をかぶって札所を巡るのである。
矢部村の新四国八十八ヶ所はどのようにしてつくられたのか、札所の記録がいくつか残っている。栗原にある第五十八番札所(本尊十一面観音)の小堂に掲げられている「両矢部三十三番霊場案内」の板書が、昭和四十年七月に発見されている。墨書がうすれて三分の二くらいしか読めない。 藤本宏隆によれば、
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この頃から、この矢部の山から山、谷から谷へと遍路されていたのであろう。
嘉永年間までは、三十三ヶ所であったのが、新四国八十八ヶ所札所となったのは、矢部新四国八十八ヶ所縁起によると、明治になってからである。
現在の第一番札所は石川内にあって、奉納の額には「矢部新四国八十八ヶ所、第一番、霊山の釈迦のみまえにめぐりきて よろずの罪も消え失せにけり、明治三十六年旧十月四日、八女郡矢部村大字矢部真弓尾早稲田充」と記してある。
なお、神岩屋(神窟)第四番札所には、明治三十七年三月、大正十年三月二十五日改と書かれたものが残っており、第九番稲付、第六十二番古野にも同様のものがあるので、明治、大正の頃に整備されて、現在の昭和十一年七月の改正の額が上がるまでになったのであろう。それを裏付ける資料が石川内の「子安弘法大師」の像に刻されたものから知ることができる。この像は、昭和七年三月に建てられたもので、この柱身の側面に「明治三十七年三月、矢部村新四国八十八ヶ所開基」とあり、反対側に「昭和七年三月十三日、子安弘法大師開眼、日田明王覚月足聖道梶原教禅」とある。
また、この上方にかかっている滝の岩山に、本尊不動明王を祀ってある第五十四番札所(中村)がある。本尊の他岩壁に十五体ほどの不動明王がある。風雨にさらされ、苔むしているが、この不動明王の開眼入仏式は、「昭和八年、日田郡日田町明王寺副住職田中隆、他二名、発起世話人松崎健蔵、松崎盛蔵、中塚軍蔵、石工は日田郡の箸本幟」と記されている。
最後の八十八番札所は、中村の鹿子島宅の門口にその額がある。札所が改築されて、最も新しいものは、昭和四十年六月に建立された惣見の山中にある第五十三番札所である。
椎葉の十一面観世音菩薩像 |
椎葉の集落から山路にかかるところに観音堂があり、矢部新四国八十八カ所第二十四番札所である。
本尊は十一面観世音菩薩像である。像はカツラの木像で、本体の高さ約一一〇センチメートルである。彫刻はやや荒けずりであるが、体躯は長身で堂々として柔和な表情である。
金箔がはげおちて下地のトノコや朱色の粉をふいている。像の背面に墨書があるが磨滅して全部は読めない。制作年月日は正徳三年(一七一三)巳正月二十九日とあり、今から二七八年前になる。製作者は肥後熊本□□□作とあるが肝心の名前が判読できない。また建立者として二十名ほどの名前がある。小畠、森、小森、栗原、黒谷などの苗字は読めるが、名前は□ヱ門などの字がかすかに読みとれるだけである。
はめこみ式の光背に
村内 家内 | 安全ノ為 |
とある。
村内安全、家内安全のために、十一面観音像を祀ったということであるが、安産にも霊験があるという。
観音様のおかげで、椎葉集落では今日まで一度も火災や災厄もなく現在に至っているという。
妙泉山本興寺 |
本村大字矢部中村にある妙泉山本興寺は、日蓮宗の寺院である。
日蓮宗は、鎌倉時代に仏法の真髄を法華経に見い出し、辻説法によって布教した日蓮を祖とする日本仏教十三宗のひとつである。
教義は、教・義・国・時・序の五綱教判と本尊、題目、戒壇の三大秘法を立て、草木国土悉皆成仏を期する。本山は山梨の身延山久遠寺である。
妙泉山本興寺の創立は明治十二年にさかのぼる。
慶応元年(一八六五)六月に矢部村に赤痢が大流行したとき、法力によって赤痢を克服したのを縁として宝塔を建立し、明治十二年北矢部字秋伐に清正公堂を建造したことに始まる。
明治二十年に妙法講結社が設立され、さらに明治三十四年に地元の新原元厚、伊藤滝次郎等の助力によって字石川内(現矢部中学校裏)に妙法講法王結社が設立された。
昭和十六年の矢部大火により矢部小学校が類焼し小学校を石川内(現矢部中学校)に移転改築するため、石川内教会の敷地と交換に現在地に移転し、秋伐教会石川内教会が合併した。
昭和二十一年に寺号を妙泉山本興寺と公称し、二十一年に本堂、二十二年に庫裡、五十年に書院が建造されて今日に至っている。
住職は九代を数える。
信徒は二十軒ばかりで護持会を組織しているが、ダム水没や過疎化のため他町村に転出している信徒がかなりある。
寺宝として三宝尊、鬼子母神像、清正公像、大黒天像、北辰妙見大菩薩像などがある。