高屋城址から見た大杣路 |
中村、宮ノ尾の南面、矢部川を隔てて矢部小
学校を背に、屹然と聳え立った標高六百四十二
メートルの峻峰がある。日向神ダム方面から臨
むとコニーデ型の均整のとれた山容を見せる。
高屋城といい、地元では城山とも呼んでいる。
「筑後将士軍談」によれば、「五条氏の祖、頼
元の三男良遠の築城にかかる」とある。
代々良遠より十一代統康までの居城であった。
良遠は父頼元とともに懐良親王が肥後の国に下
向される折、親王のお伴をして菊池城に入り、
のち筑後に入って矢部村を領地として拝領した
時、高屋城を築いた。懐良親王が失意のうちに
矢部村に隠遁されたのちは、良遠が専ら親王に
仕えていたらしい。
中世の城は、高屋城のようにみな山城で、天
嶮の要害を利用して、石塁や土塁を築き、櫓な
どを組んだ簡単な城であった。平時には物見な
どを置き、いざ合戦というときにここに拠った
ものと思われる。おそらく、高屋城は、大杣御
所の前哨線ではなかったろうか。五条氏や家臣
団は、城山の麓あたりに居を構えていたのであ
ろう。それは所野の台地であったろうし、二ツ
尾には、五条屋敷といわれる広い田んぼも残っ
ている。
城は三層の城郭をなし、第一層の外城は岩石 が屹立して、正面から山頂をめざすには、所野 の荘厳寺あたりからか、中村の対岸から登れる が、急峻な谷間の岩をはい登り、林を分け入っ てかろうじて達するのである。今は道も定かで なく、登頂はむずかしい。城の背面からは比較 的登りやすく、二夕板、古巣家を通り、惣見か ら左手に折れ、山道を歩くこと三〜四十分くら いで山頂に立つ。肥後の国に通じ、当時菊池氏 と連絡するのに便利であったろう。
虎伏木城址 | アイノツル城址 |
正に天然の要害として、全く天下無双の地で
ある。
山上には、当時の石塁を二、三間残すだけで
あり、山頂から矢部の全景を見下ろすことがで
きる。今は周囲四方杉木立と雑木の巨木で視界
がさえぎられ、NHKのテレビ塔が立っている
だけである。
城山の中腹の荘厳寺の上に墓があるが、五条
氏の祖先、七代良邦の墓であろうということで
ある。
この附近一帯は竹林が多かったが、ここの竹 は不思議なことに、火にあっても燃えないとい う。それは五条氏の当主が病気のとき、竹の燃 える音を聞き、「やかましい」と一喝したために、 今でもその墓三、四間四方の竹は、火に燃やし ても音を立てないという言い伝えがある。
浮羽郡の川原正人氏の「懐良親王記」によれ
ば、「高屋城を一名栗原城と称す」とある。「筑
後史」、「筑後将士軍談」、「八女郡郷土誌」によ
れば、高屋城とは別城となっている。
それによれば、栗原城は字栗原にあって、五
条氏の家臣栗原伊賀守の居城であって、懐良親
王が矢部に隠退されたころ、この城にも居住せ
られたとあり、天正年間には五条統康も居住し
ていたとある。
城址の位置がどこなのか、古老に聞いても知
らないという。正に幻の城である。
石岡の地には五条屋敷があったといわれる田 が広がっている。また、とのんたつじょと呼ば れる高台がある。
鬼塚の集落を背にして、数十メートルの柱状
節理の崖が屹立していて、正面からは登れない。
「太宰府内誌」によれば、アイノツル城という
が、アイノツルがどういう字をあてていたのか
わからない。
山上は広い台地になっていて、崖縁には櫟や
雑木が縁辺をかざり、畑が開けている。桑の平
方面から入ることができる。
このアイノツル城は、向かい側の高屋城と相
対していて、往時はおそらく敵の侵入や情報を
いち早くのろしなどで知らせる見張り台の役割
を果たしていたのではないかと思われる。
城郭としての遺構は残っていない。
「六百余年のいにしえに 皇子のいませし虎伏木城 ああ虎伏木城 虎伏木城 祖先の勲しのびつつ 正しく学ばん高巣小学校」
これは、今は廃校となった 高巣小学校歌の一節である。
懐良親王遺品 茶釜(江田氏蔵) | 懐良親王遺品 古鏡(江田氏蔵) |
元高巣小学校の東方、国道四四二号から虎伏
木橋を渡り、左手の道を上ると、眺望の展ける
高台に立つ。柴庵を望む絶景の地が虎伏木城址
である。
この城は、南北朝時代懐良親王が一時おられ
た城跡であると村人は言う。
虎伏木の集落の一番高い奥まった所に、古い
が大きな構えをもった江田家がある。
懐良親王を守護して九州に下向した武将の中
に新田義貞の一族がいたらしいが、戦い利あら
ず、大義名分をなくし姓名を江田と変えて将軍
に忠誠を尽くしたという説がある。
この虎伏木には、城にまつわる小字や地名が いくつか残っている。
遠見鼻=敵を見張る展望所 構ン本=砦といったところか 賀篭ン据場=将軍の篭を置いたところ 射ン場ノ本=弓の射場
なお、城址の一部とされる古塚の近くにある
江田家には、懐良親王の遺品と伝えられている
古鏡と茶釜が保存されている。
鏡は二枚木製くりぬきの古びた丸箱に納めら
れていて古風を帯び、緑青をふいている。
ひとつは表面の真中に亀が浮彫りされ、その
周囲に鶴四羽が配置されている。全体に菱形の
筋目があり、菱形の中には菊と桐が交互に鋳写
されている。もうひとつは、鶴と松の図柄であ
り、菱形の筋が入っている。裏面はいずれも平
面にして、経の長さは四寸二分(約十二センチ
六ミリ)である。
また、金の茶釜といわれる古い茶釜があるが、
多年使用していて磨滅し、肉眼では確認できな
い。鹿、もみじ、放駒、そして取手に獅子頭が
彫り込まれていたということである。この茶釜
でお湯を沸かすと独特な音がして、お茶が大へ
んおいしいということである。
これらは、懐良親王の御愛用の遺品だという
ことであるが、当家には火災などで、それらを
裏付ける文書がないのが惜しまれる。
その他、戦前には刀剣などもあったというが、 戦時中に軍に供出し、今ではこの二つだけが 残っている。