民謡は心のふるさとであり、大地に根ざした郷土のすばらしい文化であり、後世に伝えなければならない貴重な文化遺産である。
春祭の歌詞(ヤーエ節) 一、こちの座敷はヤーエ祝いの座敷 鶴と亀との舞い遊ぶ 二、鶴と亀とはヤーエ何して遊ぶ 末は繁昌と舞い遊ぶ 三、とどけとどけヤーエ末までとどけ 末は鶴亀五葉の松 秋祭の歌詞(ノーエ節) 一、さすは大黒ノーエあがるは恵比須 あいにお酌は福の神 二、君は高砂ノーエ尾の上の松よ 私しやあなたの下に住む 三、野こえ山こえノーエ里うちこえて 来るは誰ゆえ貴男ゆえ 一般的祝賀の歌詞(ヤーレ節) 一、若松様よヤーレ 枝も栄ゆる葉も茂る 二、あみ笠様よヤーレ 少しゃお顔が見とござる 三、お若所様ヤーレ 裾にやぼたんの花ざかり
公卿唄は、祝歌の代表的なものであり、吉野朝時代、後征西将軍宮良成親王が矢部の里に陣された折、京都からお伴をして来た公卿方によって歌われたものが、この里に今も歌い継がれたものである。
お祝いの席で、まずお謡三番の次にかならず公卿唄三番を歌い、このあと伊勢音頭など普通の歌になるが、公卿唄が終るまで、ひざをくずしてはならぬ厳しいならわしである。
氏神様の春祭りの時には、「ヤーエ」秋祭りの時には「ノーエ」のつく歌詞を歌う。伴奏や曲譜はなく、口伝えで覚えて歌う。歌詞はみな目出度い意味のものばかりで、普通三番といって三つの種類の歌を歌い、最初の一節を一人が歌い出し、後は全部の同席者で相和して歌う。
また、歌詞は全国みな同じようなもので、歌い方は地方によってさまざまであるが、矢部の公卿唄は、都の公卿唄らしくみやびやかで、その切々たる哀調は聞く人の胸を打つのである。
ハァヤーレー 縁がないなら茶山にござれ トコサイサイ 茶山茶どころ 縁どころ ハーモマシャレモマシャレ トコサイサイ 茶山もどりにゃみなすげの笠 どちが姉やら 妹やら 茶山茶山と楽しゅで来たりゃ なんのよかろか 坂ばかり 茶山旦那さんなガラガラ柿よ 見かけよけれど しぶござる 茶摘みゃしまゆるじょうもんさんな帰る あとに残るは てぼ円座 今年これきり又来年の 八十八夜の 茶で会おう
八女東部は八女茶の産地である。この茶山唄は、昔からお茶をつむ時やお茶をもむ時に唄われてきた八女地方の代表的な民謡であるが、出来た時代や創始者など明らかでない。楽譜や楽器も伴奏もなく、口伝えに覚えられ伝えられてきたが昭和になって楽譜も編曲され、尺八の伴奏によって歌われるようになった。
歌い方は茶畑で茶を摘みながら唄う時は、気分のおもむくままのびのびと歌い、製茶の際茶の葉をもむ時は、もむ動作に合わせて歌い、歌わない者はもみながら囃子言葉を和して景気をつけ、作業の能率が上るようにする。
節まわしには、木挽唄調のものと天草節といわれるものと二とおりに大別されるが、天草節調は特に情緒が豊かである。おそらくこれを歌いこなせる人は今はいないのではないかと惜しまれる。
ハァァーアァァ アァァー 茶山もどりにゃ ハアコランコラン みなすげの笠 どちが姉やら 妹やら ハァー黒岩の坂ば上り下りさせらすとたん おどんが様なら そりゃさせんとばん
明治から大正、昭和のはじめにかけて、矢部を中心とする八女東部では茶摘みの最盛ともなれば、八女、筑後、柳川方面からはもとより、肥後の山鹿、宇土、天草方面からも大勢の人が泊り込みで茶摘みの加勢に来て、村は活気にあふれていた。茶摘みが終わり田植えの時期になると、今度は「手間がえ」といって、矢部や黒木、星野の人達が柳川、筑後方面へ田植えの手伝いに行くといったなんとものどかで、うるわしい交流の風習があった。こうした縁で結ばれた若者達も多かったであろうと思われる。
茶山唄の歌詞はたくさんあるが、ここでは一般的に歌われている代表的な歌詞をあげた。
ハァーいつも五月の田植えならよかろ 様の手苗で田を植えるよー ハーサンバイ サンバイ ハァー腰の痛さよ せまち(狭地?)の長さ 四月五月の日の長さよー ハァー今年ゃ豊年穂に穂がさいて あぜの小草も米がなるよ ハァー二百十日の風さえなけりゃ 親子三人寝て暮らすよー
はやし言葉の「サンバイ」というのは、田の神いわゆる稲霊のことであり、神に豊作を祈願しながら田植えをしたものであろう。
ハァー揃うたナーサー揃うたよ ハァー五本の杵が ハァーとろりナーサーとーんと トコ姐さんよく揃うた サノーサノサッサノ ハァー米をナーサつくには ハァー五人こそよけれ ハァー調子ナーサ揃えて トコ姐さんとろとろと サノーサノサッサノ ハァー調子揃えて ハァーとろとろつけば ハァー諸国ナーサ大名も トコ姐さん立ちどまる サノーサノサッサノ 以下略
米を大臼に入れて精白していた時代の唄で、年間を通じて歌われていたが、特に新米の収穫直後の月夜の晩などに農家の庭先に蓆を敷いて臼を据え、二人づき、三人づき、五人づきなどで調子を揃えてつく時に歌う民謡で、楽譜、楽器、伴奏もなく、唄の間の手にはやし詞が入るだけである。今は、歌える人もなく、絶滅したものと思われる。
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ハーア 今日は日もよし石づき頼む ハアーヨイヨイ どなた様にもよろしくたのむ なにか一言お祝いごとを こちらの屋敷は長者の屋敷 四方八方に倉たて並べ 倉のまわりに茗荷を植えて 茗荷栄えるふきぶきたてる(枝葉も茂る) 白いねずみが寄り集まりて 米を食えて米の山を積む 豆をくわえて大豆の山を積む 大判食えて金の山を積む 栄えゆくらん 長者の屋敷
何時からともなく伝わり、家を建築する場合の石づきの時歌う。歌の上手な人が一人で歌い、石づきの綱を引っ張る人全部が「アリャサー、コリャサー、ヤアートセー」と拍子をつける。
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嫁入り道具の箪笥、長持を婚家に運んで行く道中処々で立ち止って、歌いながら行くのである。いつの頃から歌い継がれてきたものかわからない。知っている人が一人で歌い、他の者ははやしを入れる。唄い手が上手だと、合いの手にショモー、ショモ(所望)とアンコールー、それにこたえてまた唄ったという。
朝も早よからカンテラ下げて 坑内下がるも親の為 アラキントラカネトリ 矢部の金山金つく音が 三里きこえてなりひびく アラキントラカネトリ 鉱夫女房にゃなるなよ妹 岩がどんと来りゃ若後家女 アラキントラカネトリ むこう通るは鉱夫さんじゃないか 金がこぼれるたもとから アラキントラカネトリ
地下の深い坑内で爆薬をつめるため、岩石に鋼鉄製ののみで穴をあける時、歌われた歌という。
今からおよそ二百四十年ほど前、桃園天皇御在世の宝暦年間、矢部村字蓼尾(田出尾)在の栗原喜寿郎なる者が京都に遊学し、文武の道を極め、公卿の娘正子姫と結婚して一緒に帰国した。時に喜寿郎二十四歳、正子十六歳であった。その翌年一児を設け、秀丸と命名した。一家は幸せな日々を送っていたが、秀丸満一歳の誕生日も近づいた初夏の夜、正子姫は突然腹痛をおこし、激痛に悶え苦しんだあげく、その翌日数え年十八歳の若さで急死してしまったのである。
正子姫の死後、なぜか今日に至るまで、田出尾に住む人々は、腹の病い(消化器系)で死亡するものが後を絶たなかったという。
小関ミツヨ(旧姓栗原)は、子どもの頃、祖母の故栗原フイからこのことを常々聞かされ、自分達の先祖に遠い遠い京都から年若くして嫁いで来て、悲運の生涯を終えた姫がある。その霊を慰めてあげなければ可哀想だと言って、お墓参りによく連れて行ったということである。
これは代々言い伝えられてきたものであり、四度にわたる火災に遇って家財全部を焼失し、記録は何ひとつ残っていない。ただ、正子姫の墓石といわれるものは今も残っており、石造の観音像とその台石には「釋尼妙正信女」「宝暦十三年夭五月五日」と銘がある。
「夭」というのは、若くして死んだという意味である。
最近何人かの祈祷師が近所の家に来た時、話もしないのに、この近くに昔お姫様がいて、そのお墓があるだろうとそれぞれ言ったということである。霊感というものについて考えさせられることである。
正子姫の従者の墓と思われる自然石の墓が、姫の墓の下方百メートルほどの所に二基ある。
姫の子孫である小関ミツヨ夫妻が祥月命日はもとより毎月一回五のつく日に、姫の墓に詣でて菩提を弔っているということである。
ちなみに、「正子」というように、女の子の名前に「子」という字をつけるのは、その当時は身分の高い人に限られていたという。
コズミドコの足掛地蔵尊 |
遠い昔、七世紀の末(六百九十年代)飛鳥の世に、大和国(奈良県)葛城の山中に役小角(えんのおづの)という巫呪師がいた。巫呪師というのは、当時世の人の不安、悩み、病いにまじないをかけて災いを取り除き、暮らしに明るい見通しをつけるよう祈祷するもので、託宣の神、一言主(ひとことぬし)神の取り継き役であった。
役小角は生来俊才で、三法(仏・法・僧)を敬信し、奥深い葛城山に篭って苦行を積み、神通力を授かり、神仙飛行の術までも会得していたと伝えられている。こうして、山の巫呪師として評判を呼び、その秘法を学びたいと全国各地から若者が集まって来た。役小角は、彼らに難行苦行を課して修行させたという。
こうして、役小角は、今日伝わる山伏修験道の祖師として世に知られるようになったのである。ところが、役小角の衆望をねたんだ連広足という仲間のひとりが「妖言衆をまどわす」といって、藤原宮にざん言をしたのである。役小角は京に検束され、伊豆に流されることになってしまった。世間ではその偉大な念力を惜しみ門弟達の手によって全国各地に「修験道」として広まったと「続日本紀」にしるされている。
この門弟達が、山伏として今日知られている修験者である。
ところで、役小角に師事した山伏に杣坊という若者がいた。役小角流島の際、「おまえは西方九州に修験の道を伝えよ」との託宣で、大和の国から豊前の宇佐へ上がり、幾山河を越えて釈迦岳の山頂にたどり着いた。杣坊が習い覚えた術法で、最も得意としたのは、「韋駄天の法」であったといわれている。盗賊も多かった当時の世の中、寺院の仏舎利を持って逃げ去るものを追ってよく走り、たちどころに取り戻す俊敏な走法を言ったのが「韋駄天走り」の始まりである。
足掛地蔵さま |
この韋駄天の走法で、此多(日田)の国から一足飛びで筑紫の国随一の高峰釈迦岳の山頂にたどりつき下っていたところ、清流の渓谷、うっそうたる樹木、鳴き交わす鳥の声、霊験改まる景色に心ひかれ、絶妙の修験の場所として杣坊は足をとどめたのである。
杣坊は、滝のかたわらに草堂を建て、師役小角の像を祀った。ここで、杣坊は日夜修業を積み重ね、「韋駄天の法」に磨きをかけたのである。この速く走る法のもとは、肢体の保護が素地をなすというところから足の切傷、ねんざ、足腰の弱さを治療する呪法(まじない)を究め、その神通力のうわさが筑紫一円に伝わっていった。
歴史は下って世は戦乱絶え間ない南北朝時代のこと、脚に弓矢の傷を負った南朝方の武将、栗原伊賀守が、この草堂の地蔵さまに祈願したところ、一ト月たらずで全快し、その再起の姿に敵方は恐れをなしたという話や、野猪を追った狩人が足をくじき、弱っているのを見かけた草刈りの娘が、男の足形を木片に形どり地蔵さまに奉納祈願したところ、二三日のうちに治り、それが縁で夫婦になり、この杣の里で幸せな一生を送ったという話がある。こうしたことから、いつのまにかコズミドコの「足掛地蔵」と呼ばれるようになって、広く親しく人々の信仰を集めるようになったという。それからお伊勢参りや英彦山詣りには、かならず「足掛地蔵さま」に願をかけて、旅に出たという風習も伝えられている。
人の弱り目は、足腰からとも言われている。「足掛地蔵さま」に詣でて、生涯健脚達者であったという村人も多い。今も参詣が絶えないのは、こうした「足掛地蔵さま」のありがたい霊験によるものであろう。
京都市で発行された「街道」 | 作品が次々と発表される |
田中稲城は、生来の繊細な感受性と清澄な叙情精神をもってその文才を期待されていたが、惜しくも三十二歳の若さで夭折した矢部が生んだ文学者である。
彼の短い生涯を年譜にまとめる。
明治四十四年(一九一一)一歳
三月五日、八女郡矢部村大字北矢部四八六九番地、善正寺住職田中穆の二男として出生。母タツノは、八女郡立花町(旧光友村)松尾家より嫁す。
善正寺は、東本願寺を本山とする真宗大谷派の寺院で、正保三年八月福島(八女市)正福寺から分れて創設された古刹である。
稲城の祖父智旭は、住職のかたわら矢部小学校を創設した江崎済を扶け、多くの子弟を育てた教育者である。
父穆は、住職のかたわら昭和八年から二十一年までの十四年間、矢部村長をつとめた。また、バス会社をつくり矢部・黒木間に乗合バスを走らせたり金山の経営にも参画したりした実業家でもあった。
長男満雄(戦死)、長女アヤ、三男穂積(戦死)、四男瑞禾(戦死)、二女米香、五男瑞城(現住職、矢部保育園長)、六男穂波(健在)の六男二女、八人兄妹の二男である。
大正六年(一九一七)六歳
四月、矢部尋常小学校入学
大正十三年(一九二四)十三歳
四月、矢部尋常高等小学校高等科一年より久留米中学明善校に入学し、三井町源正寺に下宿、この宿には、作家井上友一郎がしばらく滞在していたとのことで、兄満雄夫人蓮子(健在)は、鮮明に当時の思い出を語る。
この頃、矯々会誌に習作などを発表する。
昭和三年(一九二八)十七歳
京都大谷大学予科入学、在学中光彩炎という眼病を患い大学を中退、九大病院に入院中結核に罹患。福岡市今津日赤病院に入院、以後矢部村に帰り、療養生活を送る。
昭和七年(一九三二)二十一歳
療養生活のかたわら体調のすぐれた日など、寺の仕事を手伝ったり父経営のバス会社の経理をしたりしたこともある。
九州文学同人の稲城への見舞いの寄せ書き |
この頃より歌作を初め、京都市で発行されていた歌誌「街道」(編者萬造寺斉)に参加し、作品を発表する。
○母上の吾を指さし兄なりと 教えたまえど知らぬ弟は ○吾を兄と知りしかあわれ弟は 玩具持ち来て吾に示せり ○町に出し看護婦に新刊の書を頼み 帰り待遠く夢暮れにけり ○脈をとる看護婦の白き手見入る 熱高き日の眼の疲れかな ○雪かづく背振が獄にひとところ 入りつ日あかく映えて寒きも
昭和十一年(一九三六)二十五歳
二月、短歌雑誌「新樹」を創刊、プリント印刷の小冊誌。編集後記に「ほんのふとした動機で園田氏と思い立った歌会が、雑誌の発行まで進み、いよいよ編集にとりかかってみると、こんな田舎にこれだけの歌人が居たのかと今更驚かされた」とあり、「こうした一つの芸術的な集団を成長させていくことは、一村の文化の発展に参与することである。あの絢燗たる萬葉の文化は、誰の手によって成されたかを考えてみるべきだ」と抱負を述べている。
○事多き年は去りけり今にして 心に湧くはひそけき寂しさ ○鉾杉の緑さびたる谷山は かげり冷たく木枯の音 稲城
「新樹」同人は、園田麟太、井上萬治、津田広利、田中勲、栗原良雄、石川善一郎、坂本深里、安徳丈恵ら二十八名。
五日「新樹」第二集刊行
十月、歌誌「新樹」を「村」と改題し、活版印刷、総合文芸誌とした。表紙、カットは坂宗一、稲城は、小説「乳房」と随筆「霧の中」(杖立日記より)を発表。
詩二篇「のどかな瀕死」、丸山豊「白紙」、佐藤隆短歌十三人集
あとがきに稲城は、「村に生まれ村に死ぬる我々に「村」の呼び名はなつかしい限りである。・・・銭の穴ばかり覗いている人間にとっては、文学なんぞ凡そたわけたことであろうが、今の世の中には、こんなたわけ者が村に一人か二人位居る方がよいかもしれない」と述べ、暗に鯛生金山ブームに湧く村の浮薄な都会化風潮を批判している。この冊子は、不便な山村住いの稲城のために、久留米在住の詩人故丸山豊の助力が多大で、編集、装幀ともにユニークなものであった。
この頃、園田麟太郎を介して作家牛島春子と知り合う。のち稲城は牛島春子を「九州文学」同人に推薦する。
昭和十二年(一九三七)二十六歳
四月、矢野朗、丸山豊、池田岬らと久留米で同人雑誌「文学会議」を刊行する。稲城は第一集に小説「秋風の女」を発表。
病を得てはじめて自然と人情をかみしめる若い看護婦の心理の動きが、澄明な文体で綴られたリリカル(叙情的、情緒的)な筆致の作品である。
同誌には、矢野朗の「暗夜」、詩に丸山豊「太陽観察」、岡部隆助の「幻聴」が掲載されている。
六月「文学会議」第二集に、小説「花たゆたへる」を発表する。退役軍人一家のなかの娘を主人公に、大陸での重苦しい戦雲が漂いはじめた時代を背景に描いたものである。
この号より火野葦平が登場し、小説「山芋」が発表されている。
八月、東京で刊行されている文化雑誌「野火」に随筆「山住みの日記」を発表する。
「文学会議」第三冊に随筆「叡知の剣」を発表。その中で青年僧としての宗教生活の内面より文学に対する稲城自身の姿勢を述べている。
昭和十三年(一九三八)二十七歳
九月、「九州文学」第二期第一号に評論「小説と抒情精神」を発表し、川端康成の作品「雪国」を中心に論じている。
九州文学同人の名前が見える河童群像 |
十二月、「九州文学」に随筆「山家通信」を発表する。
この年、火野葦平「糞尿譚」によって芥川賞を杭州の陣地において受賞、稲城、葦平の軍事郵便を一通受けている。
昭和十四年(一九三九)二十八歳
二月「九州文学」二月号に小説「女人苦」を発表。
稲城の大谷大学在学中の体験をもとにした作品らしく、京都本願寺前の旅館経営の女将を描いたもので、岡本かの子の「老妓抄」の影響も見えるが、構成が巧妙である。この作品について「こおろ」の詩人、矢山哲治が批評の葉書を稲城に送っている。
三月、「白鳥に寄す」を発表。稲城の「丸山豊作品鑑賞文」ともいうべき随筆である。
十一月、随筆「風のふるさと」を発表。稲城の文学的感性がいっそう清澄度を加えてきたことがうかがえる作品である。
この頃、鹿児島薩摩郡に住む女流作家、勝野ふじ子を「九州文学」誌上で知り、書簡を交わし合う。
稲城にあてた劉寒吉の手紙 |
昭和十五年(一九四〇)二十九歳
七月、「九州文学」に小説「一茎の葦」(百四十枚)を発表。この作品はのちに「文芸」(改造社刊)十二月号に「文芸」推薦の有力候補としてあげられる。選者は、青野季吉、宇野浩二、武田麟太郎の三氏で選者三人の選評が述べられている。きわどいところで、池田源尚の「運・不運」が受賞となり、稲城の作品は二位となった。
八月、「九州文学」に随筆「文学の表情」を寄せる。十月、「九州文学」に随筆「立秋記」。この作品に詳細に述べられているが、この年の夏、病床にある稲城を見舞いに詩人安西均、佐藤隆、岡部隆助らが善正寺を訪問、寺に一泊して病床の稲城をいたく喜ばせている。
この頃、鹿児島の勝野ふじ子、しばしば稲城に書簡を寄せ、ほのかな思慕の情を寄せている。ふじ子の小説「南国譚」が「九州文学」で高く評価される。
昭和十六年(一九四一)三十歳
随筆「紅い実」を発表。この作品は稲城の随筆群のなかでも最も珠玉の作品ともいうべきか、島木健作の「赤蛙」に匹敵する。
昭和十七年(一九四二)三十一歳
三月、「九州文学」に小説「山郷」を発表。この作品によって第二回「九州文学」賞を受ける。受賞感想に「『山郷』は療養生活の明け暮れにわずか一枚二枚と書きため、半年も費やして書きあげた貧しい作品であります。もちろんそうしたハンディキャツプをもって自分に甘えようとしているのではありません。作品の批評はその表現されたものが一切だからです。私は最近の日本文学に於ける誤られたリアリズムの観念に対して微力を省りみず自分の作品を通じて闘いたいと念願してきました。新しい文学は、理想と永遠と高貴の精神に充ちた美しき世界を創造しなければならぬとひそかに信じているからであります。只、今後この信念のもとに精進すべく決意しています」と述べている。
五月、「九州文学」に随筆。「晩い季節」
九月、随筆「夏草」
十一月、作家勝野ふじ子、詩人夢野文代、来訪。
十二月、小説「春愁」を発表。
昭和十八年(一九四三)三十二歳
九月、作家勝野ふじ子来訪し、数日滞在する。
十二月、「早稲田文学」に小説「鏡」を発表、この作品が絶筆となる。この冊子が届いた頃から病状が悪化。「鏡」の掲載誌を胸に合掌しつつ十二月二十五日午後五時四十分、善正寺において静かに永眠。
昭和十九年(一九四四)
三月、「九州文学」に追悼田中稲城特集、「孤燈」矢野朗、「梅花匂う家」山田牙城、「永遠の故郷へ」池田岬、「裂けたる葦」原田種夫。
五月、大阪の明光堂書店より刊行された「九州文学選集」に小説「野薔薇」が掲載されている。
昭和四十五年(一九七〇)
十二月、第一回稲城忌を催す。この年雑誌「村」を田中瑞城、郷原副由、椎窓猛らにより復刊する。
昭和四十六年(一九七一)
十二月、第二回稲城忌、田中稲城の文学について丸山豊講演。
田中稲城作品集刊行委員会結成。
以後、毎年十二月二十五日の命日に、有志相集い、稲城忌を営み、故人を偲び冥福を祈っている。
昭和四十七年(一九七二)
「田中稲城作品集」を創元社より出版。
平成二年(一九九〇)
第十回田中稲城忌を矢部村中央公民館で催し、文芸評論家塩野実を迎えて講演会を開く。
田中稲城に届いた見舞いの手紙 |
田中稲城
「冬は花のない季節である。都会に住んでゐるとどんな厳寒の候でも、花屋の飾窓の中には色とりどりの温室咲きの花々が馥郁と薫ってゐる。併し、木枯に吹曝された野山には一輪の花の影もない。只谷間の日蔭に隠れたやうに開く椿だけが、紅い蕾を霜にうたれて堅く閉じてゐるだけである。併し、こんな一見寂寥とした世界にも、良くみるとさうした花々の代りに数々の美しい珠玉のやうな木の実がある。冬枯の樹立の陰や霜にうたれた末枯の草蔭に、それらの冬の木の実を見つける時、私は自然の摂理と云ふものの微妙さを感じる。
冬の木の実はみんな紅い。南天、梅もどき、万両などの庭の木の実を初め、藪蔭に人眼からかくれたやうに結んでいる。藪柑子、青樹、野茨それから冬苺や名も知らぬ葛の実など、どれも珠のやうに紅い。それらの木の実は紅葉が散る頃から色づき、春陽に花々が開き初める頃まで冬の一番厳しい季節を、朝々の烈しい霜や深い雪にもめげず永い間実ってゐる。それ所か永い風雪に曝されれば曝さるゝだけその紅色は益々磨かれた珠のやうに光沢をすらまして来る。それは恰もさうした厳しさこそが、己が生きる世界であることを自覚してゐるかのやうにすら感じられる。」
「阿蘇及び久住」の遺稿に出てくる「矢部」の一節
これは、田山花袋が昭和五年七月五日から百五日回にわたり、福岡日々新聞(現西日本新聞の前身)に連載した「阿蘇及び久住」という紀行文の遺稿の、七月六日付の記事「矢部」の部分である。挿し絵は、小杉未醒である。
当時の遺稿掲載の福岡日々新聞 |
これを読むと、大正末期から昭和初期の頃の矢部の様子、とくに道路、交通事情がよくわかって興味深い。
矢部の町は山間のさびしい一筋町で、茅葺と瓦葺とが雑ってゐるやうなところだった。いかにも深い山の中といふ氣がした。そこでは一臺の自動車が狭い通りに幅をして横たはってゐて、その運転手は何處に行って油を賣ってゐるのか捜してもわからず、日暮近い行程をやきもきしたことを覚えてゐる。で止むを得ず此方の運轉手がそれを傍の方へ動かしたりなどしてゐたが、その捜してゐた運轉手も戻ってきて『これは何うもすまんな・・・』などと言って、それを傍に寄せたので、やっと私達はそこを通り抜けて向ふへと行くことが出来た。
私は、南朝の末路を思はずにはゐられなかった。何というせまいところに、また何といふ深い山の中に、かれ等はその終りを見なければならなかったのか。吉野の方でも、終には高原から大臺原山の方まで遁れて行って、たうたうそこで何うにもかうにもならなくなったが、ここでもやっぱりそれと少しも異ならぬ終りを見せたのだった。私も阿蘇氏や菊池氏の勤王をくり返した。また、後征西将軍宮良成親王のことをくりかへした。親王はこの山の中に長い間年を経られて、再び京へ帰ることは出来ずに、そのまゝ、此處に墓となられて了ったのだった。
自動車は頻りに谷合から谷合へと走った。岸はかなり高くなって、下では渓が淙々とした響きを立ててゐる。ふと氣が附くと、小さな渓が左から落ちてゐるのが見えてそこに小さな橋がかかってゐるのが眼に入った。
U君は指して言った。
『そら、そこから入って行くんですよ…』
『良成親王の墓ですか?』
『まだ遠いんですか?』
『さうですね…。いくらもありゃしませんけれども…。三十町くらゐなものだと思ひますけれども・・・』自動車が橋をわたって行くのでその別な渓谷の方をU君は半ば覗き半ば指さすやうにして、
『もう一時間早いと行って來られたんですけれども、もうおそいですね。それに、自動車はとても入れませんからね。何うしたって歩かなくっちゃならないんですからね…。何ァに陵墓があるだけで別に大したこともありませんけれどもね。先年その親王を奉じて忠勤を盡された五條家についていろいろ宮内省からお訊ねがあったりして、段々世間にもこの親王のことが知れて行ってゐますね』
『さう、さう、そんなことが新聞に出てゐましたね』
『ここからその陵墓にお詣りして御前嶽に登ったことがありましたが、ちょっと変わってゐて好いところですよ。ここらあたりの山脈がそこから一目に見わたされますからね…』
『さうでしょうね』
この橋のほとりまでは、自動車の運轉手も來たことはあるのであった。けれども、また向ふ側の鯛生金山はよく知ってゐるのであったけれども、ここからその金山までは正面の路だから、ちょっと不安な氣がするやうなことを運轉手が言ふのを、U君は一行の先達らしく、
『なアに、大したことはないよ…僕が知っているから大丈夫だよ』
などと言って、頻りにそれを勵ますのだった。
尠くともその川筋は峻しいものだった。徒歩で行っても容易でないやうなところだった。それも初めは別にそれほどにも思はなかったのだが、兎に角自動車が入って行かうと云ふのだからひどいと云ってもそれほどではないと思ってゐたのであったが、行っても行ってもその路は盡きず、のぼってものぼってもその峠は到らず、次第に国境山脈の連互をその眼下に見るやうになっていった。否、そればかりではなかった。自動車は爆音を立てゝはのぼり、のぼってはまた爆音を立てた。それは何のことはない喘ぎ喘ぎ辛うじてのぼって行ってゐるやうな形だった。始めの中こそ崖から落ちはしまいかなどと心配したが、今はそれどころではなく、この難路にこの萬山の中に、途中で故障でも起きて車が動かなくでもなったら、それこそどうするのだろう、前に行っても後にもどっても人里まで二三里もあるところで、しかも、この日暮れに、そんなことにでも出會したら、それこそえらい目に逢はなければならない…。こんなことを思ってゐる中にも、自動車は怪物のやうな捻り聲をあたりに響かせ、山また山で次第に薄暮に近くなって行くのであった。
田山花袋(一八七一〜一九三〇)は、明治、大正を代表する文豪の一人で、本名を録弥といい、旧館林秋元藩の下級武士田山ワ十郎の子として、明治四年に群馬県館林市に生まれた。父が西南の役に従軍して戦死したため、幼時から書店などに働きながら苦学した。はじめは、漢学や和歌を学んだが、のち西欧文学に傾倒し、明治二十四年には、尾崎紅葉などを訪れ、その指導を受けて短編小説を試作した。明治三十二年「ふる郷」を出し、はじめて世に認められ、そののち、「野の花」「重右衛門の最後」などを発表した。明治四十年には「蒲団」を発表して文壇的地位を不動のものとし、「生」「妻」「縁」の三部作をはじめ「田舎教師」「一兵卒の銃殺」「残雪」「百夜」などつぎつぎに名作を発表したが、生前はむしろ島崎藤村らと比較して不遇であった。作家としての実質は、藤村に比較してもそれほどの距離はなかったと思われるが、ただ彼があまりにも多作にすぎたことが作品に粗雑さを見せ、彼を藤村の下位におかしめたものと思われる。小説のほかに随筆、紀行にもすぐれており、「阿蘇及び久住」紀行もその一端を示すものであろう。
花袋は昭和五年五十九歳で亡くなっているので、この紀行文は遺稿として掲載されている。
小森はる子 椎葉在住 ○音たてて流れる谷水ひき入れて わさび畠の白き草むら ○事あらば山の木売ると言ひて来し 老父は杉の安値を嘆く ○子の許へ移り行きたる老二人 愛せし猫は残し行けり ○逆えぬ会合の流れに巻きこまれ 力なければ口を開かず 栗原とし子 栗原在住 ○芋粥をすすりしこともまぼろしと なりて栄養過多の膳につく ○焼けあとに石づき音頭は軣きて 建ちし木造校舎今はなし ○水底に沈みて三十有余年 旧道現わる水放たれて ○暖冷房照明も自在の公民館 われら婦人会の寸劇の舞台 峡の四季 小関紀郎治(本名、治已) 古野在住 ○春の陽の匂ひて暮れし夜の冷え 燗酒一合コツプに満たす ○手に掬ひ漱く清流の水旨し 緑の光含みてあれば ○子も孫も離れ住む峡の八朔に 時借しみつつ栗飯を食む ○冬鳥の旅立つ日には呼びとめる 言葉もたねば菊を植え替ふ
民俗学者柳田国男の「冬野越え」
柳田国男は、我が国の民俗学の草分けで、民俗の踏査、研究によって我が国の民俗学を学問にまで体系づけた日本を代表する民俗学者である。昭和二十六年に、その功績によって文化勲章を受けている。 その柳田国男が、明治の終わりころ、肥後から冬野を越えて矢部に来ている。彼の「海南小記」に「私は此地を通って矢部川の上流に遊び、冬野という村を経て肥後の来民を越えて行き・・・」と書いている。年譜を調べてみると、明治四十一年十一月五日で、柳田国男が宮内書記官であった三十四歳のときである。 また「秋風帖」の「峠に関する二、三の考察」の一文の中に「肥後山鹿の奥岳間村から筑後の矢部へ越える冬野の山道は複雑していたが、肥後の方が表だったと記憶する・・・」と書いている。表というのは、岳間の方が南向きで日当たりもよく、登りに開いていった路で、表はふつう谷川沿いにだらだら坂になっているが、裏はめあての集落に向かって一気に降りるために急な坂道になっていると考えたのであろう。 日本を代表する民俗学者が矢部の地を訪れた事実は特筆すべきことである。 |
江田道律 ニツ尾在住
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いつの頃開墾したものか水の湧き出る迫々には、
かならずといってよいほど棚田が築かれていた。
春耕から収穫まで農耕の牛馬と人々がどれほど
往き来した道であろうか。それでいて此の
坂道の登り下りが苦にならなかった。
「山こがね」という稲を作っていたが、あの飯は
独特の匂いがして実にうまかった。
懐郷の念が私をしてそう思わせるのだろうか……。
村人はここを百枚田と呼んだ。古老の話では
松明をかざし鎌を持ち、うなぎを切って回ったと聞いた。
あるとき田を数えてみたら九十九枚……
どうしても一枚足らん。よく調べてみると
甚八笠の下に一枚隠れていたという話……。
それが猪の出没と減反というお国の政策が拍車をかけ、
何時の間にか山林に変容し、荒地は痩せて飢饉という
時代が来ないにしても二度と美田にかえることはあるまい……。
集落には祭り田というのがあった。その秋穫れた
新米を山の祠や鎮守の神に供え、祭りの宿元では
朝から女衆が総出で芋汁をたき、男衆は神事に、
若いもんはニワトリをひねり、川でこぎるドブロクを飲み、
呑むほどに酔うほどに宴たけなわとなって老若男女
夜おそくまで賑わった。
だがしかし、明日への活力と満足感と連帯感と すなわち「和」というものが、いまより以上に 強かったと思えるのは何故だろうか……。
静寂の中に集落の跡は苔に埋もれ、眠っていた。
廃家の軒先は朽ち落ちて、荒れ放題の樹木に蛇のように
容赦なく絡まるカズラが不気味であった。集落は、
その昔金鉱の栄華に花開いた時代があった。
人々が不安定な農の営みに見切りをつけ始めたのは、
何時頃だったか……。
ムラを捨て、住いを捨て、田畑に杉を植えて山を下った。
納屋の片隅には収穫の一線で活躍したであろうエンジンが
錆びて転がり、放り込まれた農の兵士の数々が
置き去りにされて……。
そんな中に、今しがた産声をあげたばかりの水がシャラシャラと
廃家の谷をかけ下りてくる。そこらに散らばる食器類や
陶片に春の陽差しがやわらかく、まぶしく反射する。
祠の山ざくらが一本、いま盛りである。
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椎窓猛氏は、教育者であり、矢部の山峡に住む詩人、文学者である。
小学校の教師のかたわら、目につくもの感じるものを詩や物語、童話に託し、「椎の実村通信」
「しゃくなげのむら」「風の棘」「山峡かぎんちょ草紙」など数多くの著書を著している。
この詩は、昭和四十年代過疎化にさいなまれる山村にあって、たくましく生きる覚悟を心底からの叫びとして歌いあげたものである。
高木 護
詩人高木護は多くの著書をもっているが、百数十回も職を変えた放浪の詩人である。彼の作品には生きている証(あかし)を求める純な魂の漂泊の祈りがある。
高木は日向神ダム建設にも従事し、飯場に泊りこんでさまざまな体験をした思い出を「放浪の唄」〜ある人生記録(昭和四十年二月五日初版、大和書房)の一節に奔放な筆致で描いている。
これはその一部であるが、このくだりを読むと、昭和三十五年に完成した日向神ダム現場の飯場のようすや、過酷な労働、人夫それぞれの生きざま、当時の矢部の様子が垣間のぞかれて興味深い。
『二月になっていた。
住みついていたクルメ駅前の八十円宿の世話で、わたしは福岡県八女の日向神ダム建設工事の飯場人夫になった。わたしのいった飯場は、孫請け飯場で、ダムエ事に付随する林道造りとダムを跨る吊橋のアンカ掘りをやっていた。人夫は総勢で四十名からいた。
その中の半分が朝鮮人で、残りが流れ人夫だった。ほとんどが偽名を用いていた。
わたしは朝鮮人の自称杉アンと宮アンたちと組んで、林道工事班になった。日向神は元来岩山の名所として県内外に知られていたが、到るところ峻厳な岩々がそそり立っていた。わたしたちの班は、その岩山の一部にマイト発破で跨り貫いて林道をつけることになった。そこは岩山の中腹あたりになるところであったが、高さが二十メートルから三十メートルもあって、一本の命綱をたよりに岩石の凹みに守宮のように取り縋って、手刳りで発破穴を刳った。
それがとてもじゃなく、作業のかかりっぱなから焼酎の角打ちをやらかした。
二月になってから毎日のように雪が降りつづいたので、岩肌が気色のいいように辷ってならなかった。
その日もかなり雪が降っていた。作業の棄権者が多かったが、それでも杉アンと宮アンとわ
たし三人は、めし焚き吉爺アンに焼酎をツケにしてもらって出かけた。高みの作業なら朝からでもめし焚きの吉爺アンに頼むと、一人宛二合までなら士気鼓舞の為に角打ちさせてくれた。
わたしは岩石のロープに取り縋ったが、雪は降るし足場がつるつる辷って、しっかり命綱にくくりつけたからだが、鞦韆のように宙に舞うので、作業にはならなかった。……』
「放浪の唄」〜ある人生記録より
戦後まもなくの矢部村大運動会 |
敗戦後、日本全土の農山漁村に吹き荒れ一世を風びした「ヤクザ踊り」や「マドロスもの」は、戦前、戦中派には今も懐かしい思い出として心の片隅に残っている。
放浪の文学者高木護と同世代の文学者仲間が「やくざ踊り」〜戦後の青春〜という本を「たいまつ社」から出版している。
これは幕末の「ええじゃないか」旋風を思わせる動乱・変革の時代相を、各地に在って自ら体験した戦中・戦後世代がありのままに表白した戦後民衆史ともいえるものである。
その十篇の中に、矢部村の詩人で現矢部村教育長、椎窓猛氏が「ジロマー時代」という表題で「やくざ踊り」や「田舎芝居」の始まったい
きさつやけいこ、上演の様子など、座長であった野口萬吉氏から聞いた話としてユーモラスに書いている。
当時の矢部村の生活や風俗のようすがうかがえて興味深い。
『青年学校の一教室は、畳が二十枚ほど敷かれ、裸電燈がひとつさがっていた。仄暗い教室に蓄音機が、かすれ声をあげている。
「影か柳か、勘太郎さんか、 伊那は七谷、糸ひくけむり 棄てて別れた 故郷の月に しのぶ今宵の ほととぎす」
茶つみどきに使う菅笠、紺の手ぎんに紺の脚はん、わらじ、着物の裾を帯にからげた白い股ひき、背中にたらした縞模様の合羽。あでやかに踊っているのは、やくざ風に厚化粧したヤッちゃんであった。
「なりはやくざに やつれていても 月よ見てくれ 心の錦 生まれかわって 天龍の水に うつす男の 晴れ姿」
思いきりひろげた左足をまっすぐに両足をそろえ、左手で刀の鞘をにぎり、右手に笠を高くかざし、前方を眉をひきしめてみつめるフィナーレのポーズに、ぼくは思わず手を叩いていた。団長格のトンさんは、まあ、まあの出来といった表情で顎を撫でている。ショウちゃんは拍手をするでもなく、梅干しの色にいくらか染ったにぎり飯を頬ばりながら、眼は蛇のようにヤッちゃんの粋なフィナーレ姿をなめまわしていた。
連日連夜、練習がつづいた。
さて。昭和五十三年正月、筆者の私は、宮ノ尾とよぶ村通りに住む野口万吉氏を訪ねた。たしか万吉氏は、戦後、村中部の"素人演芸"の座長さんだったと記憶するからである。
「今朝まで、久留米に嫁いでいる娘が子づれで里歩きに来とりましたが、帰りましたのでどうやらゆっくりなったところです」
「じつは、戦後の頃の話をききたいとです」
高校一年という末っ子の娘さんも、万吉氏夫妻の間にはさまって茶の間の火燵で、文庫本を読んでいた。
「なんば読みよるですか」と訊くと、森村誠一の『人間の証明』と答えながら、大人の邪魔になると考えたのか、茶の間をたっていった。それから、奥さんは火燵のうえに酒肴をならべはじめた。万吉氏は私に盃をさしながら、
「はあ、やりましたな。親爺がまたやくざ踊りにでて行くかとブツブツ小言を云うのを聞きながして、こっそり出ていったもんですたい」
と、述懐する。
万吉氏は今年五十三歳。ひろい額が光ってやや薄くなった髪をオールバックにし、一見明治の壮士風に見える。山林の売買を業とする人物だけに、ときに鋭い視線が矢のように私の眼にくる。だが、それも一瞬で柔和な笑顔にかえる。
もともと、父の勤めの関係で、万吉氏の家の近所の借家に私たちは小学校五年まで住み、「万ちゃん」と親しく呼んで遊んでもらった兄貴分である。
「万ちゃん」の家は、和傘をつくっていた。傘にぬるシブの匂いが思いだされる。家の周囲に乾かされている蛇の目傘が、陽にぱりぱりと音をたてるように光っている風景が思いだされる。"ハァーまたも雪空"と『満州想えば』を口ずさみながら、水彩画を得意そうに描いていた「万ちゃん」が思いだされる。
長男は大陸に出征。二男の万吉氏は図画が上手で傘はりよりも製図の方に進めたがよいとい
う小学校教師のすすめで、高等科から県立工業の専修科に入学。卒業後、羽犬塚町に新設されたラサエ業に入所した。それがのちに軍需工場になったために、兵役は人よりずっとおくれた。昭和二十年の五月に赤紙がきて、針尾の海兵団に入隊した。
「わたしたちが入った頃は、哀れなもんで菜っ葉服一着もらって、丸腰の水兵。もっとも衛生兵でしたけ、銃剣はいらんといったもののねえ」
沖縄地上部隊全滅の報が六月。八月六日に広島に原子爆弾。九日に長崎に原子爆弾。このとき、二日目に長崎市内から、大村の海軍病院に重傷にあえぐ人間をせっせと運びこむ仕事をした。女子挺身隊の火傷者もずいぶん救出に当った。だが病院に入れても薬品はなく、寝かせるだけのこと。火傷した女学生が痛々しく「水ヲクダサイ、水ヲ」と哀願する。軍医が水を飲ませたら駄目だと云ったのにもかかわらず、その哀願に耐えられず水を飲ませたら、たちまち息をひきとっていった。
「思いだしてもあれは地獄ですね。あのときのことはとても話しとうなかです」
十五日、終戦の詔勅。一カ月後、阿修羅の世界から、秋風そよぐ村に、菜っ葉服を着たまま復員した。
家ではめっきり年老いた親が、背中をまるめて傘をはっていた。材料が乏しくなって、粗製乱造であったが、よく売れた。
帰ってくると、昭和十六年の村火事で、天満宮も焼けたままになっていた。その造営奉仕にでたこともある。完成したのが二十一年四月。遷宮祭が営まれるというので、奉納に『素人演芸』をやろうといった話が、青年の間から持ちあがった。村中、各村落ごとに、だし物を考えるという。
宮ノ尾、福取村落が一グループで、青年七、八人が集まって協議した。そこで、万吉氏がこう提案した。
「ない知恵をしぼるより、知恵のある若菜中尉殿に相談しようや」
若菜中尉は、製材所の御曹子であるが、幼にして頭脳明敏、秀才の誉れは高く、村ではじめて陸軍士官学校に合格した人であった。村人は、「わが村からも、やがては陸軍大将がでる」と期待した。遺憾ながら終戦、復員してきた中尉は、そのまま胸部疾患に襲われ床に伏してしまった。
万吉氏が脚本依頼の用件を述べると、若菜中尉は「草むすカバネのような俺にできるかな」と自嘲気味に笑いながら引き受けた。
少々日時はかかると思っていたところ、中尉は一晩のうちに書きあげていた。呼ばれて万吉氏が病床にいくと、中尉は寝たまま、枕もとから、白く細くなった腕をさしのべ、ザラ紙に書きつけた脚本をとりだした。
脚本の題は『心臓入替病院』というのであった。一見、奇抜なアイデアに、万吉氏は思わず膝を打った。
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(札幌医大の和田教授が、日本で初の心臓移植の手術を行ったのは、昭和四十三年のことである)
『心臓移植』をテーマに喜劇を創案した中尉の、武骨な軍人らしからぬ才智に、秀才の頭脳とはこのようなものかと感嘆、万吉氏は脚本をうやうやしく押し戴いてきた。
さっそく配役をきめた。心臓入替病院長に、野口万吉。
看護婦 栗原カズヨ。原芳枝。江田春雄。
患者 爺さんに栗原正登。相撲力士に高原佐久馬。ダンサーに高山辰見、高山忠雄。
「おい、あのアルバムを持ってきて見せんか」
万吉氏はかたわらの奥さんに顎をしゃくるようにして云った。奥さんはすぐにとりだしてきた。
「ほほう、こりゃ貴重な写真ですね」
すでにセピア色にあせているが、当時のムードがうかがわれる。
「食糧難時代にしては、皆さん、まるまるとしていますね」
「やっばり思春期のせいかな」
「病院長役の万ちゃんちゃ、面白か人たいと、その頃見とりましたが、まさか、そんときはわたしの旦那さんにならすとは、夢にも思いまっせんでした」と、奥さんも、私が手にしたアルバムを横から覗きこんで笑った。
劇のストーリーは、要約すれば、心臓を入替えたために患者の性格が一変するという話である。病院長がうっかりして、力士の心臓とダンサーの心臓をとりちがえて移植する。アンコ型の力士に、ダンサーの心臓が入ったものだから、身ぶり手ぶりがすっかりなよなよと女らしくなってしまう。一方、ダンサーは「ドスコイ、ドスコイ」と、四股をふみながら、病院をでてくる。
写真でうかがうと、病院長役の万吉氏は、赤ひげの医者を思わせ、役柄が板についてユーモラスな貫祿を見せている。
「劇団の名前も考えましたな。あれこれ思案のあげく"ジロマー劇団"と名づけた。今でも、そんときの仲間と話すときには、ジロマー時代とか云いますたい」
「"ジロマー"ちゃ、どう意味ですか」
「あんまり、ものの役にたたん槌、つまりハンマーのことをジロマーとか云うそうで―」
「ほほう」
「この一作は村中評判になりました。みんな大笑いして傑作と云うてくれました。それでよその村落がまねして、気妙な病院名をつくりましたが、これにはかなわんとですたい。やっぱり"ジロマー劇団"の方が拍手喝采を受けよりました」
「西の方の村落の青年もはりきっとったな。水車のトンさんが座長格で。あちらさんは高級で、菊池寛の"恩讐の彼方〃などしょうらしゃった。しかしあれは田舎者には少々むずかしゅうて、老僧が槌をふるう手を休めて、メチール酒を飲んでみたり、シラミとりをする場面だけを面白がって―」
「戦後の世相を、おりこんで笑わせたとですね」
「股旅物もよく踊りました。そんころ本職の人が中村に疎開してきとりましたけん、習いにいきよりました。"男の純情""旅の夜風""流転""勘太郎月夜唄""赤城の子守唄"マドロスものもありましたな。"浮世かるたの、浮世かるたの浮沈み"なんていう文句なんか、あの頃の心境にぴったりときましてね。やくざに扮したあの恰好といや、粋なもので受けましたな―」
「ほら、西のほうにヤッちゃんとかいう娘がおったでしょうが、彼女なんか、そん当時の村のスターじゃったですたい」
「しかし、村も食糧難というときに、肥後までも米や芋を買い出しに行きながら、よう芝居をしたり踊ったりしたもんですたい」
「県境の峠をこえ、相良の観音さんの近所から鹿本の方へ、あの頃は肥後は食糧の宝庫ンごたった」
「家は傘を背負っていって交換してきよった。戦後一時は和傘も景気がよかったですたい。のちには洋傘に押されてさっぱり。そこへ、ここでパーマ屋をやった人が、町に帰るというので、まるごと引受けた。でも美容師をやとっては引きあわんので、女房は三十になって久留米の美容学校に行きました。わたしは、山の売買の仕事に切替え……」
戦中派は誰しも、思いもかけぬ方向に転職の余儀ない破目になっている。
「ジロマー劇団の連中も、今、村に残っとる者は三人しかおらんし―」
力士役の高原氏は、苦学するといって昭和二十三年から東京へでていった。国会議員の秘書になって、それから政界進出に野望を燃やした。万吉氏は語る。
「彼は、官房長官になったことのあるTと秘書同期とか云うとったが、どうもチャンスを得まっせん」
戦後の飢餓時代における青春回想の絵巻をくりひろげながら、万吉氏は私といっしょに酔いをましていった。
「あの頃二十歳そこら、親爺の小言を尻目にやくざ踊りに身をやつしていたが、家でじっと坐って傘はりしとると、あの原爆にやられた悲惨な人たちが眼に泛んできてどうにもならん。踊り狂って忘れようとしとったごたるですね」』
「やくざ踊り」〜戦後の青春より