農山村は今、全国的に農林業の構造的不況の中であえぎ、過疎化、高齢化に拍車をかけている。
矢部村においても従来から相当の努力を傾注してきたものの、全国の例にもれず基幹産業である農林業は低迷し、後継者不足による労働力の低下は著しく、このまま放置すれば村に生きる喜びや夢まで若者たちから奪うことになる。
閉鎖的な社会から発展は望むべくもなく、限りない発展を続けるためには広く情報を求める必要がある。また山村と都市が対等に生きていくためには、自然を通して、教育、文化や経済などの交流事業を積極的に推進することがその山村が浮揚する最後の機会ととらえ、「国土庁リフレッシュふるさと推進モデル事業」に取り組んだのである。
この事業は村の浮沈を賭けた事業といっても過言ではなく、当時の国土庁長官、故・山崎平八郎氏をはじめ郷土出身の衆参両院の国会議員や若杉村長、中司議長を筆頭に村議会議員全員と執行部による情報収集活動の結果、昭和六十二年度に採択されたのである。
当初の計画地であった御側の金比羅宮、大杣
公園周辺は、種々の難問題があり用地の確保がむずかしく、やむなく計画変更を迫られた。そこで当初の計画地を断念し、それから一・五キロメートルさかのぼった御前岳、釈迦岳の中腹、通称「四屋敷」に白羽の矢を立て、役場職員全員で調査に入ったが、大半の職員は「道もなくあんなところにどうして、誰が来るものか」と首をかしげていたのが本音である。
しかし、今の矢部村にとっては自然が最大の財産であり、そこには清流、滝、四季の変化を見せる山野草花があり、訪れる人を魅了する場所である。乱開発を避けできるだけ自然の形で建造物なども新しい感覚で配列し、ヤマボウシ、ミズナラ、ドウダンツツジ、ケヤキ、山桜などの木々を植栽しようと若い職員たちが学習会で提唱した。中でも三十年程前卒業生が記念植樹した御側小学校跡地のオオバカエデを「杣の里」のシンボル・ツリーとして移植した。今まで人の目にあまり触れられることのなかった大樹が渓流公園の中央にそびえ立ち、新しい歴史を紡ぎ始めたのである。
「甦れ杣の里、村の活性化のために!!」企業団体を問わず多くの方々がこの事業に関心を持ち、村の趣旨に賛同したのである。
財団法人「秘境杣の里」は、自然の中で村と都市との交流をテーマに村の振興を図る基地活動の核として創設された。
「杣の里」渓流公園内の調音橋 |
JR九州、福岡銀行、西日本銀行、東急エイジェンシー、グリーン・コープなど村外の力と農業協同組合、森林組合、商工会など村内のカが一体化し、村のイメージ・アップのために動き始めたのである。
国際女優として活躍中の栗原小巻をこの財団の名誉理事として迎え、「杣の女神」が誕生した。また、小巻の父で、劇作家の栗原一登と小巻父娘による村歌「ふるさと矢部」が創作されたことは、正に画期的なことである。
テレビ、新聞などのニュースとして矢部村が話題として取り上げられ、事業推進に大きなインパクトを与えてくれた。なによりも村民ひとりひとりが村おこしの主人公となり、自分の力で歩く喜びを感じ、プロジェクト活動を行うことの意義や大切さを知ることができた。
「ふれあえばここがふるさと……探していた本当の豊かさがここでは息づいている」自然と共に生きる村人が厳しくても苦しくても前を見つめ、二十一世紀につないでいく村づくりが、今始まったばかりである。
成果を早急に計ることはできないにしても、五年、十年、二十年と年を重ねるごとに確実に効果が上がることを村人は期待している。若い苗木がやがて巨木となり、村を地球を守ってくれることを信じている。
(前助役 伊藤信勝氏)
ソマリアンハウス |
矢部村の人口は、鯛生金山の閉山や県営日向神ダムの建設、本村の主産業である林業の不振などの影響を受けて年々減少しつづけ、過疎化、高齢化が深刻な問題となっている。この問題をどう解決していくかが村の最大の課題である。
この問題を解決し、村の活性化を図るために計画されたのが、国土庁の事業である「リフレッシュふるさと推進モデル事業」であった。この事業は過疎化地域の魅力、特性である自然を生かすとともに、地域のイメージアップを考えた都市と山村の交流事業で、九州でニヶ所が指定されることになっていた。この指定を受けるため、用地買収の交渉などを行い、その結果昭和六十二年半ばに指定を受け、北矢部字本川内に建設することになったのである。
山村の文化を象徴する「杣」をキー・ワードに総額約五億五千万円をかけて建設を進め、恵まれた自然環境を生かした都市との交流に力をそそぐとともに、雇用の場の確保、特産物の販売による経済的効果をねらうなど村の活性化の拠点づくりを目指すことになった。