久留米城(笹山城)の歴史
久留米城主
留米年表
本年表
天正15年
(1587)
小早川(毛利) 
秀包(ひでかね)
伊予国(愛媛)宇和群から久留米城に転封される。 豊臣秀吉、九州平定のため下向、吉見岳に在陣し、肥・筑の諸士豪族に謁見する。

文禄の役

太閤検地

 

 

慶長の役

 

 

関ケ原の合戦

天正16年
(1588)
発心城主・草野家清、秀吉の命により肥後国(熊本)南関で誘殺され、草野家滅亡する。
天正19年
(1591)
秀包、高良山坐主麟圭(りんけい)良巴(りょうは)親子らを誘殺する。
文録元年
(1592)
秀包、兵千五百名を率いて朝鮮に出兵する。(同三年帰国)
文録4年
(1595)
山口玄播、筑前・筑後で検地を行う。(太閤検地)
慶長元年
(1596)
高良山坐主の子秀虎丸(のち尊能{そんのう))となり、千石の山領寄進をうける。
慶長2年
(1597)
秀包、再び朝鮮に出兵する(翌年帰国)
このころ キリシタン大名秀包夫妻、城下に天主堂を建立、地方に信徒七千人という。
慶長5年
(1600)
筑後諸大名、西軍に加わり関ヶ原役に出兵して敗れる。黒田如水軍、久留米城を接収する。
慶長6年
(1601)
田中吉政 三河国(愛知)岡崎城から筑後の国主に移封、柳川を本城とし、久留米城には次子主膳正則正(吉信)をおく、城郭の規模改修される。  
慶長8年
(1603)
田中則政  柳川、久留米間に新道を開通し、沿道に津福町・目安町・山野町等を立てる。 徳川家康、江戸に幕府を開く 
慶長9年
(1604)
  筑後川に瀬の下新川を開削して、直流化する。  
慶長11年
(1606)
  久留米城主・田中則政没し、坂本和泉ら城代となる。  
慶長13年
(1608)
  吉政、筑後の国検地を行う。田中高75万石を打ち出し、寺社領を削減する。  
慶長14年
(1609)
吉政、江戸参勤の途中、伏見で病没する.  
四男忠政が相続する。
 
元和2年
(1616)
田中忠政 忠政、善導寺に家康廟を建立する。 家康没 
元和3年
(1617)
  忠政、兄康政に生葉(浮羽)、竹野、山本半郡を分知する。  
元和6年
(1620)
(藩祖)  
有馬豊氏
(とようじ)
忠政、江戸で病没する。嗣子なく家断絶する。重臣ら供養搭を山本町千光寺に造立する。

有馬豊氏、丹波国(京都)福知山(8万石)より、北築八郡(三潴・御井・山本・生葉・下妻・上妻・竹野・御原)に移封の命をうける。(21万石)

 
元和7年
(1621)
  この春、豊氏入国、「掟七ヶ条」を公布する。

城郭の修造、城下町建設に着手する。祇園小路,経隈の住人を移して縄張りを拡大、寺院を寺町に集め、菩提寺の梅林寺を建立。

 
元和9年
(1623)
  内検高を二十八万石と定める。城、堀、武家屋敷等普請が進む。城の大手口を東面から南面に変える。 3代将軍家光
寛永元年
(1624)
  家中・家老屋敷でき、長町五丁目(四丁目までは古町)より東に家並みできる。  
寛永5年
(1628)
  豊氏、大阪城普請の役を勤める。 長崎でキリスト教徒処刑 
寛永7年
(1630)
  豊氏、江戸城二の丸普請の役を勤める。この年洪水、流屋多数。  
寛永8年
(1631)
  城郭、濠ほぼできる。筑前黒田家・肥後加藤家からも加勢する。  
寛永14年
(1637)
  島原一揆起こり、家老稲次壱岐・有馬内記ら出兵する。  
寛永15年
(1638)
  豊氏,忠頼親子も着陣、出兵総数七千三百名、死傷千二百余名。  
寛永18年
(1641)
  高良玉垂宮仮社殿造営終わり、遷宮される。  
寛永19年
(1642)
(2代)忠頼
(ただより)
9月30日卒豊氏没、74歳、11月5日忠頼襲封する。この頃給禄の士三百五十人。  
寛永20年
(1643)
  忠頼、四十五条の「覚」(掟)を発する。キリシタン訴人に褒美でる。西久留米郷山王社、城内から洗切りに移される。小倉藩大里に船入場を借りる。  
このころ   筑後川安武堤防できる。  
正保2年
(1645)
  忠頼、日光普請役を勤める。洗切の町人を瀬の下に移し、跡地を御船手方とする。  
正保3年
(1646)
  筑後国絵図を幕府へ、提出する。長町が十丁目まで完成する。(延享二年通り町と改称)  
正保4年
(1647)
  東久留米郷山王社、城内から十間屋敷に移される。西派一向宗寺院へ東派転宗を命じる。  
正保5年
(1648)
  筑後川大久保渡し、(小森野村)廃されて宮地渡しに変わり、古筑前往還が廃止となる  
慶安2年
(1649)
  外濠の深浚と築地の尚上げ始まる。(明暦元年終わる)・忠頼、日光奥の院普請を勤める。  
慶安3年
(1650)
  尼御前社(のちの水天宮)、瀬の下に社地を賜り新町から移る。  
承応元年
(1652)
  忠頼、高良山に家光の廟(大献院廟)を建立する。  
承応3年
(1654)
  忠頼、高良山に大石鳥居を寄進、年貢を土免法(定面取り)に改める。  
承応4年
(1655)
  3月20日忠頼没53歳.この代に庄島に扶持人屋敷できる。  
明暦元年
(1656)
(3代) 頼利
(よりとし)
7月3日頼利(四歳)襲封する  
万治3年
(1660)
  頼利、高良玉垂宮社殿造、普請奉行丹波頼母、大工棟梁深谷平三郎。  
寛文4年
(1664)
  大石、長野水道できる。  
寛文5年
(1665)
  初めて寺社奉行をおき、宗門改人別帳を作成、踏絵・誓詞布告する。  
寛文7年
(1667)
  原古賀町追々できる。長町から出火、町屋焼失百六軒に及ぶ。  
寛文8年
(1668)
(4代)頼元
(よりもと)
江戸増上寺火の番を命じられる。(以後久留米藩の受け持ちが恒例化)6月24日頼利没、17歳。8月21日頼元転封する。義兄有馬豊範に松崎一万石を分知する。このころ、給禄の士四百五人。  
寛文9年
(1669)
  高良山座主寂源入山。藩主に訴え、三百年ぶりに祭礼を再興する。府中下宮社再興される。  
寛文12年
(1672)
  尼御前社祭礼始まる。  
延宝3年
(1675)
勝手方差支え初めて家中に知行物成の三分の一の上米を命じる。(以後慣例化する)寂源僧正、藩主より人夫を受けて神篭列石を発掘する。
延宝6年
(1678)
  松崎経由 筑前国境乙隈村から山家宿への新筑前街道できる。  
天和元年
(1681)
  初めて藩札(銀札)が発行される。  
貞享元年
(1684)
  松崎藩 幕府に接収され(元禄十年本藩に返還)豊範父子は久留米城内に閑居する。  
元禄3年
(1690)
  勝手方見積書でき、銀千百二十一貫百九十目不足、財政破綻が目立つ。  
元禄7年
(1694)
  祇園会が再興され(翌年より八丁別当掛けから引き山がでる)、藩主の上覧が恒例となる。  
元禄9年
(1696)
  庄島町白石宅から出火、家中・寺社・町家合計三千七百軒焼失(白石火事)  
元禄14年
(1701)
  筑後国絵図、郷村帳を幕府へ提出する。藩主初めて国主格を仰せつかる。 3月刃傷松の廊下 
元禄15年
(1702)
  二代忠頼以来の福岡藩黒田家との不和、坂井雅楽頭の仲介で解消する。頼元、御井郡光勝寺村(藤光町)に真言宗東林寺を建立蔵米三百石を給する。 12月吉良邸討ち入り 
宝永2年
(1705)
(5代)頼旨
(よりむね)
7月20日頼元没52歳、9月5日頼旨襲封する。犬鳥類憐令が布告される。  
宝永3年
(1706)
(6代)則維
(のりふさ)
4月8日頼旨没22歳、旗本石野家から嗣子となり、5月21日則維が家督を相続する。  
宝永7年
(1710)
  家中の地方知行を改めて蔵米支給とする。この領内検本高二十九万石余。  
正徳元年
(1711)
  在町に門松を許可する。則維、国政を直裁とし、新たに御用席を設ける。  
正徳2年
(1712)
  床島堰、江戸水道ができる。検見方下見算用役農民から選び、草野叉六裁判して田畑の春法検見始まる。三分の一を年貢、残りを作徳とする。  
正徳4年
(1714)
  寺社、在々、町掟発布される。(正徳条目

年貢を春免法(定免取り)とし、田畑課税台帳の整備に着手。夏物成りは銀二百五十貫を定数とし、諸公役を高掛かりから物成り掛かりとする。朝妻焼きが藩営として始まる。肥前から工人、石は天草から入れる。

 
享保元年
(1716)
  大庄屋に帯刀が許可される。(庄屋脇差しは同八年)この頃領内検本高三十二万八千六百石余に増加する。高良山祭礼が再興される。 8代将軍吉宗 
享保7年
(1722)
  牢屋敷を城内から庄島に移す。(仕置き場)は前年津福村二ツ橋に定める。  
享保9年
(1724)
  被差別部落民の身分が法制的に強化される。原古賀町出火、二百軒焼失。  
享保11年
(1726)
  城内田代家から出火、城下大半(四千二百軒余)焼ける。火災後城下町入れ替え、両替町北側原古賀町、池町は小頭町へ移り、狩塚門口御使者屋は片原町に再建する。  
享保13年
(1728)
  生葉・竹野・山本三郡中心に農民一揆起きる。郡方総裁判本庄主計引責処刑される。  
享保14年 (1729) (7代)頼僮
(よりゆき) 
則維、農民一揆処理、嗣子問題で家老中と対立、7月6日隠居する。7月6日頼僮が襲封する。   
享保15年(1730)     竹野郡亀王村庄屋竹下武兵衛、領内で始めて櫨木(はぜ)を植える。   
享保17年 (1732)   大雨洪水。蝗(いなご)害おこり、領内飢饉発生して死者一万二千人、幕府から一万五千両借りる。   
享保19年 (1734)    農民一揆解決の功労者、家老稲次因幡が知行を奪われ、御原郡に蟄居させられる。   
元文3年 (1738)   4月1日則維没65歳。この年頼僮、発心(ほっしん)山に観桜する(以後藩主の慣例となる)  
寛延2年(1749)   藩主祈祷寺の福聚寺造営終わり、古月和尚入山する。狩塚門口に直訴箱が置かれる。  
寛延3年 (1750)    在方費用で五穀神社と境内円通寺が完成。新しい筑前往還筋に一里塚できる。   
宝暦元年 (1751)    羽犬塚娼妓らを三潴郡向島村若津に移す。若津港追々開けて榎津港に代る。   
宝暦3年 (1753)    御勝手方御用聞46人を選ぶ。日田公米の長崎運送を久留米藩で扱う。   
宝暦4年 (1754)     人別銀賦課を機に領内約十万の農民が騒動する。藩庁への要求20数条、大庄屋・庄屋・富豪をも襲う。農民37名処刑、郡・村追放71名、過料47名。   
宝暦5年 (1755)    京隈小松原出火、士屋敷、町屋158軒焼ける。   
宝暦6年 (1756)    草野町大火、130軒焼ける。   
宝暦7年 (1757)    小森野の風水神社、総郡出費で高良川に遷座する。この年郡中戸数二万八千八百。   
宝暦11年 (1761)   羽犬塚・松崎の御茶屋普請できる。頼僮、大善寺川傘橋を寄進する。  
明和4年 (1767)   府中町大火、御茶屋も焼け、南三分の一残る。  
明和6年 (1769)   頼僮、和算書「拾幾算法」を刊行する。府中町御茶屋再建される。  
明和8年 (1771)   高良山座主寂信、伏見稲荷を勧請し、大学稲荷社を祭る。  
安永7年 (1778)   頼僮、郡中三十三観音巡礼所を定める(高良山本地堂が一番)。  
天明3年 (1783)   11月23日、頼僮没、(70歳) 天明大飢饉 
天明4年 (1784) (8代)頼貴
(よりたか)
1月23日、頼貴襲封。  
天明5年 (1785)   両替町に御講席(講談所、のち城内修道館)始まり、町人にも聴講が許される。  
天明7年 (1787)   善導寺本堂(安永5年焼失)再建される。大檀那有馬頼僮・同頼貴。  
寛政4年 (1792)   藩庁、諸役方を統合して冗費を省き、在方への賦課を改める(寛政改革)  
寛政5年 (1793)    高山彦九郎、櫛原村の森嘉膳宅で自刃する。岡良山ら、高良山に桃青霊神石祠を建立する。   
寛政8年 (1796)   明善堂(前年焼失の修道館改称)が城内に新築される。   
寛政11年
(1799)
  田中久重(からくり儀右衛門)生まれる。  
寛政12年 (1800)   井上傳、久留米絣を発明する。  
享和2年 (1802)    大雨、耳納山中山津波起きる。瀬下町大火、百五十軒焼ける。郡方役所全焼し書類焼失。   
享和3年 (1803)     高良山御手洗橋石橋に改築される。領内菜種大阪回送に6人仲間結成、藩補助金を出す。   
文化2年 (1805)   備荒貯蓄のため囲米制を確立、上納俵一表につき二合を大庄屋の蔵に蓄える。  
文化3年 (1806)   五穀神社の石造太鼓橋を郡中から寄進する。  
文化6年 (1809)   諸役方人員を整理、京、伏見留守居役廃止、財政対策に藩の講方が在町講を始める。高良山新清水観音堂開帳始まる。瀬下町大火、179軒焼失。  
文化9年 (1812) (9代)頼徳 
(よりのり)
2月3日頼貴没67歳。頼徳3月18日襲封。   
伊能忠敬、領内に入り測量する。
 
文化11年 (1814)   藩大阪蔵屋敷、40万石の空米切手を出し市場混乱、藩財政が以後危機を深める。  
文政元年(1818)   江戸芝の藩上屋敷に水天宮を分霊する。頼山陽、筑後川を下り、樺島石梁を訪れる。  
文政3年(1820)   藩庁に産物方が設けられ、指定国産物の藩外流通を規制する。  
文政6年(1823)   藩主の帰国旅費のため大庄屋中から五千両を才覚する。  
文政8年(1825)   頼徳、柳原遊園普請に着手する(文政12年完了)  
文政11年(1828)   大風雨、城下町家屋倒壊三千軒、領中一万三千軒、高良山杉・檜三万本倒れる。   
文政12年(1829)   庄島から出火、城内、櫛原及び城下各町計372軒、土蔵69戸焼失する。  
天保3年(1832)   竹野郡亀王組二千余人、村役人の失政を追及して騒動、頭取4名死罪、その他多数が処罰される。豊後の人、工藤謙同(シーボルト門人)、久留米に始めて蘭法医を伝える。この頃御庭焼「柳原焼」始まる。  
天保10年(1839)   十間屋敷出火、通町に延焼して200軒を焼く。高良山本坂石段、郡中の寄進でできる。津福村の大塚太蔵、絵絣の組み方を発明する。  
天保12年(1841)    木村三郎、水戸に遊学、以後村上守太郎、真木和泉らが続く(藩内に水戸学盛行する)   
天保14年(1843)   新たに藩勝手方御用聞を64名任命する。この頃から献金、借り入れ激増する。   
天保15年   弘化元年(1844) (10代)頼永  (よりとう) 4月23日頼徳没48歳。6月17日頼永襲封。この頃木村・村上・真木ら水戸学派が同士を集めてグループをつくり(天保学派とも別称)、藩政改革を論じる。   
弘化2年(1845)    領内一統へ五ヶ条の大倹約令が布告され、藩債の返済を据え置き、新規調達を止める。  
弘化3年(1846)  (11代)頼咸  (よりしげ) 7月3日、頼永没25歳。10月12日弟頼咸襲封。天保学派内に藩政改革をめぐり、対立が生まれる。  
嘉永2年     (1849)    頼咸、将軍家養女精姫を夫人に迎える。婚儀費用五万六千両余、財政を圧迫する。   
嘉永5年     (1852)    真木・木村及び水野正名ら、政権から反対派(村上派)の家老有馬河内、参政有馬豊前、不破孫市らの排除に失敗、幽囚の身となる。(嘉永の獄事件)   
嘉永6年     (1853)    矢野一貞の名著「筑後将士軍談」成る。真木和泉、水田村(筑後市)に山梔窩(くちなしのや)をつくり、門人を教育。  ペリー浦賀に来航 
安政5年     (1858)    真木和泉「大夢記」を書き、始めて倒幕論を説く。  日米修好通商条約に調印 
万延元年    (1860)    明善堂改革され、武芸稽古所を武館(講武?)、明善堂を文館とし、合して学館と称する。  桜田門外の変 
文久元年    (1861)   江戸学問所教官本庄仲太「為尭編」を藩主に献上、鋭く藩政と藩主の不徳を批判する。   
文久2年     (1862)   真木和泉、脱藩上京、寺田屋事件に関わり、門下生九名と幽囚される。 生麦事件 
文久3年     (1863)   真木一党、朝廷の内勅・津和野・山口藩の進言で解囚され、多くは親衛隊として上京。京都の大仏の変により、真木・水野ら尊壌派一同、七卿と長州に下る。藩庁、公武一和を国是と表明、国元の尊壌派25名幽禁される。  
元治元年    (1864)   藩庁、富国強兵策として海軍創設、洋式兵制の採用、開国と殖産興業のため開成・成産・開物三局を新設。久留米絣などを新たに国産品に指定する。真木和泉蛤御門の戦いに敗れ、天王山で自刃する。藩兵千名、征長戦に遠賀郡山家に出張する。 禁門の変

下関戦争 

慶応元年    (1865)    藩庁、岩井溶鉄所を設置、医学館を庄島小路に設置する。野中村に製陶所を始める。  
慶応2年     (1866)   第2次征長戦に藩兵小倉に出張。田中近江、佐賀藩から帰国し、銃砲製造。今井栄えら軍艦購入のため上海に渡航する。英国領事アストン一行招かれて藩主に謁する。  
慶応3年     (1867)   日田代官の要請で幕領宇佐郡59ヶ村を預かり、四日市陣屋に要員を派遣する。 大政奉還 
明治元年(1868)   小河真文ら尊攘派24名、参政不破美作を暗殺、親幕派を政権から一掃する。藩主挙兵上京する。藩政改革され、水野正名が政権を指導、応変隊編成される。藩兵、奥羽・函館に出張する。 戊辰戦争開始 
明治2年(1869)   旧政権指導者9名が屠腹を命じられる。頼咸、天皇の東京行幸の前駆を辞退して帰国する。版籍奉還し、藩知事に任命され、高良山座主邸に居館を移す。  
明治3年(1870)   小河真文・古松簡二ら尊攘派、反政府運動を主唱、長州藩脱走大楽源太郎らを藩内に匿う。  
明治4年(1871)   藩内反政府運動鎮圧のため、巡察使四条隆謌が山口・熊本藩兵を率い、高良山に来り、大参事水野正名・小河真文らを捕縛する。尊攘派有志、大楽ら脱徒を殺害して自首。藩知事閉門、処罰者数十名。藩が廃され、一時久留米県となるが、のち三潴県に入る。  
明治5年(1872)    三潴県庁、若津から久留米両替町元御使者屋に移る。久留米城の廃城化進む。   

 
 

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編集 久留米市史編纂委員会  発行 久留米市