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    お盆会
   
  お盆の何日か前にご仏壇のこ仏具類のお磨きもんばしよった。
広うか"もろ蓋"の上に香炉、香炉台、お花立、お燈明皿、ご仏供器お金茶碗、鐘、てん何 てんばのせて、何人ででん、磨粉に油ばまぜたつでさっさと磨きょった。毎年あんまり磨く もんじゃけん、大っか銅(からかね)のお花立の模様てん香炉てんお燈明皿のつり金具の模様 の、磨き減って半分な消えかかっとったたい。

大体うちは曹洞宗でご仏壇でんピカピカした真宗とは違うて、うるし塗りの地味なご仏壇 じゃった。一間幅にちょいときるる位じやった。ばってん飾のついた色々なご仏具は、 ひいばばさんと、ひいお祖父っつぁんのお里方が真宗のけんじゃっつろ、ちょうど真宗んご 仏具のこたるもんどんがあったたい。

  昭和の戦時中、金物は何でん供出せにゃんち云う時に、もし供出せんで残してどんおった なら孫子の末の者がどうして供出せじゃっつろかち云うじゃうち思うたけん、みんな供出し たたい。大人の頭にかぶられよった大っか鐘にゃ、出羽大椽明珍宗何とかち銘の入っとって、 ほんによか音でいつまででん、余韻の残りょったよか鐘で、ちょいと惜しかったばってん……。
後で聞きゃ、神仏具は供出せんでんよかったてうち云うごたるこつじゃったばってん。

  お盆の迎え火ちゃこの辺な焚かんもん。午後三時か四時になると、ご仏壇てんお前提灯に おあかりつけて、お線香上げてお水ば供えて丸か寒晒団子作って、小豆あんつけて、お座禅 豆添えて、お仏さん用の小形の高お膳に十人前と無縁さんに供えて、主人始め家中の者がち ゃんと着物着かえて、紋付のかたびらどん着て拝みよったたい。そん時お仏さんのお入った ち云うこつになるとたい。

お祖父っつぁんな年とってからは、夏はお縁に籐の寝椅子でどんひるねしょんなさったばっ てん、ご先祖のお客さん方のお入っとるけんち云うて、お盆の間は決してそげん横にだん成 りゃ居んなさらじゃった。そっでうちん者も、決して寝そべったりはせじゃった。

  無縁さんのこつはこの辺じゃ餓鬼どんち云よったばってん、うちは無縁さんち云よった。 お仏さんのお膳な小形に作ってそれにそうた小さか漆塗りの器物(うつわもん)じゃったたい。 ばってん、十人前のおごちそば上ぐっと、そりば下げて頂く時ややっぱ人数の多うなかと頂 ききらんもんじゃけん、家の人数の少のなるにつれて、お仏さんのお供えも五人前になし、 また二人前になす始末たい。

無縁さんに上げたもんな菰でつとば作って下げとって、それに入れよった。そして十五日の 精霊送りのとき送りよった。ばってん何せ暑か時でねまるけん、その日その日で川に流して 送るごつ後にはなしたたい。お仏さんばかりじゃなし、お神棚の御幣器(おへぎ)類も、洗う 桶てん、ふきんてんそれぞれ、神仏のもんな家の器物とは別に、してありょった。

流し台も別にしとったたい大正頃迄は。総体世間がたいがいの家がそげな風にけじめつけとっ たたい。お神てんお仏さんてんな、けがれんなかごっち大切にしとったけんの。

  お仏さんのお供えは十三日はお迎え団子だけ、そりば下げてあとにお水ば供ゆるだけ。十 四日朝はいつも通りお仏供御飯にお茶とお水、無縁さんの分がかたるだけ。お昼は五つ組、 下げてお茶、お茶時(おやつ)は西瓜、夜も五つ組、下げてからお茶。十五日は、朝、昼、夜、 とも十四日に同じ。

お茶時ゃおそうめん、そして夜に入ってこんどは寒晒で長ダンゴ作って小豆あんつけて、そ りば下げてお水供えて、そのあと、だんごてんお供えしとったお花、お野菜類ば下に敷い とった菰に包んで、舟のこたる形にくびって、それにお線香の束に火ばつけたつと、造り花 のれんげの花にろうそくつけたつば突きさして、ご仏壇にもお線香てんお燈明ば上げとって、 夜十二時頃馬入川にその菰舟ば送り行きよった。送り行って帰ってまたこ仏壇ば拝うで、 そっで済みよったたい。

  精霊送りゃ、うちへんな町のごつ仰山にゃせじゃった。お盆のお料供の上げ物な同じ品ば 二度使わんごつ、お野菜類も時のもんの中から、いろいろ選びよったたい。

今から考えて珍らしかち思うもんな、そげんなかばってん、お酢和えに南瓜の葉の柄の皮む いたつてん、はすいもの葉の柄のうす切ば塩もみしたつてん、お壷に冬瓜のあんかけ、ひよ の胡麻みそ和えてん、そげんとが今思や珍らしかつたつかも知れんたい。その頃じゃあたり 前のお料理じゃったばってん。夕ご飯ばお仏さんに上げといてお墓参りばしよった。

  墓参りはうちが村で一番どん尻じゃった。お墓に参りがけてん帰りてんに知り合てん、出入 うちの人どんが、うちのお仏さんに参りに寄りょったけん、その人達の接待で、どげんして ん、うちのお墓参りゃ出足の遅うなるもん。

昔ゃ男は裃(かみしも)着て参りょったらしかばってん、あたしが覚えとる頃は紋付、羽織、 袴、女も紋附てん、よか着物ば着て行きよった。絹てん麻てんの、絽てん、ちぢみてん、生 平んごたるもんたい。

  東の出口から高良川渡ってお墓山さん行くとこは、橋の無し川のなかに、飛石のごつ大っ か石ば並べてあるけん、その上ば行きよったばってん、大雨んのちどんな、川水のふえとる けん、足袋でん履物でんぬいで、裾からげて渡って行かにゃならじやった。

お祖父っつあんのこ葬式のとき、仮橋ばうちから架けとったつの、何年か保(も)てとったけ ん、その間はその橋ば通りょったばってん、昭和の初めごろ、土手ん出来て、橋の出来るま で、飛石伝いじゃったたい。

  お墓はお盆前に、お花筒ば一つのお墓に一対づつ立てよったけん、男達が藪からお花筒竹 に頃合いの良かつば切って来て作りょった。お線香立ても小まか竹ば切って一つのお墓にひ とつづつ供えよったたい。

三十近うお石塔のあるもんじゃけん、お花竹てんお線香立ては男がめご(籠)で荷のうて行き よった。家紋の付いた手桶、ひしゃくも持って行って花筒竹にゃ高良川の水ば汲んで入れ よったたい。

高良川もその頃までは鮎の上りょった位、美しか水じゃったもんじゃけん。お花はもいっ ちよ向うの、うちの山から"あく柴"ば切って来て上げよった。うちは花物なお墓にゃ上げは おらじゃった。直ぐ枯れて穢のうなるけん。

藪のあるうちはお花筒も十分出けよったばってん、藪ん無かごつなってからはだんだん略し て、今だん、上ん段さん登ったとこに一対だけどん上げよるたい。

お花筒は、お盆にだけ立てかえよったどこでん、そっでお盆前になると、お花筒はどこんと でんみんな、ほいと(乞食)てん何てんが薪(たきもん)に取って、行くけん、古かっはきれい さっぱりかたづきよった。

どこでんお盆前にゃ鎌てん鍬てん持ってお墓掃除が大ごつじやったたい。うちは其頃迄はお 仏さんの御命日には必ず男がお掃除に行きよったけんお盆じゃけんちわざわざお掃除ち大ご つはせじゃったたい。

  お盆のお墓参りん時は初盆のとこはどこでん親類縁者から上げたお提灯ば竹竿にづらっと 提げて火入れて新墓の前に竹ん棒二本立てたつに掛け渡しよった。その提灯の多かつが自慢 じゃったたい。

そりばってん、うちはそげんなしよらじゃった。ただ小まか石燈籠のあるとに、お明り人れ て造花のれんげのろうそく立てに小まかローソク立てて、一っのお墓に一本宛上げよったけん、 美しかりよったたい。

上ん段の北西隅に、小まか地蔵さんの首の取れとっとんあったつば、人は犬のお墓ち云よっ たばってん、お祖父っつぁんな遙拝所ち云うて、れんげのおあかりば立てて拝みよんなさっ たけん遙拝所じゃったじゃろたい。

  そげな風で遅うお墓に詣るもんじゃけん、帰るときはもう夜になって仕舞うて、旧暦じゃ けん、お日和の良か日だん、川の曲って中島んごつなっとるとこの松林の向うから十五夜の 満月のこう昇って来るもん。

川の水にその光のキラキラうつって砕けて、ほんに美しかりよった。いまでんその美しさは 忘れられんたい。そりにくさい、すず虫てん、何てんがほんにないてくさい。


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