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    手芸のけいこ
   
  屋敷つづきの小まか家ば、三角出身の井上さん(忠也)ち云う軍人さん、中尉さんか少尉さ んかじゃっつろ、に貸しとった。三角の旧士族ち云うこつで両親も来とんなさった。

  井上さんのおっ母さんな、手でするこつは何でん出来よった。おひとさんち云う女中さん も来とったが、そげな手仕事習うため、女中さんになってついて来とったっげな。あたしも そげなこつが、ほんに好いとったけん習よった。あたしゃ当世の刺繍が習いたかったばって ん、久留米にゃ誰りんそげな新しかこつ教ゆる先生ん居んなさらんけん、井上さんも旧式じ ゃったばってん井上さんに習よったたい。
井上のおっ母さんが、自分でさっさと下絵描いて やんなさった。岩の上に美しか鳥の向い合とる図柄じゃった。そりば初めに刺繍したたい。

  織物もまた上手で機(はた)から持って来とんなさった、四っ足機で、ちりめんてん、何て ん織りょんなさった。あたしも習うて絹紬ば織ったりゃほんに布肌の毛か何かんごたる感じ じやった。おっ母さんのお里にあるきに着て行ったりゃ、ほんによかち褒められた。うちに あるあり合はせの糸じゃったばってん…。

ちりめんも織ろうち云うて、ちりめん糸は撚らにゃならんもん。新町にちりめん織るとこの あったけん、そこで糸撚って貰うて、ちりめん織った。茶色じゃったが、そりゃあんまりよ う出けじゃった。後お父っちゃまの兵児帯にどんしとった。

  お花もお茶もお父っつあんもおっ母さんもしよんなさった。あんまり長う居らんで転任し なさったけん、折角の習いごつが、また途中でおじゃんになったたい。
そののち息子の軍人 さんが、こっちに出張で来なさったとき刺繍糸ばたーくさんお母さんのことづけなさったち 云うて、頂いたこつのあった。

  そんときの良う出来た方の手織の絹紬の着物ば泥俸に盗まれたたい。雨の降るけんほかの 洗濯物と一緒に小屋の中に夜干ししたなりしとった。魚捕りの投網も一緒に干してあったり ゃ、そりも盗んどったばってん、網んこつ知らん泥棒じゃったじゃろ、投網の綱ば付け根か らブッスリ切って行っとった。
何日かして裏の大しぶ柿の根方の蕗畑んなかにバラバラに切 りさいて捨ててあった。

  着物から子供のおしめまで盗まれたが、網より外にゃ何にん出て来じゃった。巡査さんな 近所ん者の仕わざじやろち云うて、お父っちゃまに「あんたんあんまり網打ちばかり行きな さるけん、網だけは誰か内ん者が、にくじにそげんしたっじゃなかの」ち云うて笑よってじ ゃったが、お父っちゃまん、家のこっは放からかして、網打ちてん何てんにばつかり行きな さるけん、そげん云うてひやかしござったったい。


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