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    櫨ちぎり
   
  櫨ちぎりは旧の十一月頃からじゃった。何日でんかかりよった。ちぎり人な大方、村のお やぢさんてん、若け者てんが雇われて何人でん大人数来よった。

  一番初めは今の営所ん北側の崖ん上から始めて、今の営所自衛隊たい、あの中さんちぎっ て行って、村の外廻りばずうっとちぎって廻りよった。上津荒木から鞍内のさけぎの方、日 の隈んにきさん、仕舞にゃうちの近くさん来よった。今ん東国分小学校の建っとっとこにも だいぶん櫨の植わっとったけん。

  寒かとき、高か木の上に登って、風のひどか日だん、ゆらーゆら揺れよったけん、えすか りょったらしか。営所の北側の崖の上の櫨てんな大っかったけん、梯子も七間梯子てろち、 長がかも長かも、長か梯子ば、ひをひをさせて持って行きよった。おまけに崖の上にそりば 立つるけん目の廻うごたったげなたい。その長か梯子にゃ、阿呆丸ちゅうあだ名ばみんなで つけとったげな。

  村ん外廻りちぎる時やお弁当のおかずはお煮しめとお漬物どんじゃった。角桶のゆんなり の大っかつのありよったたい。ありに入れて行きよった。村内ちぎるごつなると、温(ぬ)く か物食べさするごつ、お花(おから)のお汁てん、おむし(味噌)のおつけ(汁)てんに、いも、 大根人れたっとお漬物じゃった。七升炊きの大鍋ば、藁で大っか輪ば作っとって、その大鍋 ごとポトンち輪のなかに入れて荷うて持って行きよったたい。そっで村内になると、はぜち ぎりさんどんも温(ぬ)くか物食べられてよかっつろたい。

何ん無かばってん、お汁でんお煮しめでん、沢山炊くけん、ほんに美味しかもん、あたしゃ 小まかときゃ、自分のお茶碗、お椀、お皿にお箸と持っておばやいと一緒にお昼ご飯食べに、 櫨ちぎりんとこさん、よう行きよった。外で食ぶるとじゃけん珍らしうして美味しかもん。 鞍打の南んさけぎち云うとこには、ばばさんが茶店出しとったけん、そこにどん、よう寄り よった。

  櫨ちぎりんときゃご飯炊き女が、お茶沸してん櫨のむしろ敷きに行くけん、代りに上女中 がご飯な炊きよった。里芋でん毎日ごーほなしこ洗はにゃんけん、大っか桶に芋と水ば入れ て、捧ば組み合せたつでゴロンゴロン洗よった。

  櫨ちぎりの見かじめにゃお父っつぁんの若かときゃ行きょんなさったばってん、役場てん 何てん忙がしうなってからは、ほかん者がしよった。今田からいっとき、とっしゃんち若か 人ん来とんなさったけん、その人てんに行って貰よったごたる。後にゃ誰が行きよったじゃ り。

  ちぎった櫨は車力に積んで持って帰って来ると、下ん段の門ばあけてそこから引き入れて、 倉ん前で天秤(キンヂョー)で計りよったたい。みんな日一ぱい仕事して帰って来るけん、う ちに着いたときゃ暗うなるもん。大っか俵に詰めて、大体百斤俵げな。
そっで初手は、大っ かこつば「櫨俵(ドーラ)んごつ」ち云よったたい。提灯てん、小とぼしてんに火ともして、 重さば計って向うの方から何斤ち云うと、付け木に重さ書きつけ、帳面にも書き込うでその 付木は其俵にさしはそで、倉さんかつがつ入れよった。あたしが高等小学ぐらいになったり ゃ、その書役ばさせられよった。

  下ん段の倉は、もう一っ建ちゅうち云よったところが、下屋(げや)おろしたっちゃ良かろ で下屋おろしたげなけん、もとん倉が穀類で、あとからん下屋が櫨てん藍ねせ場てんじやっ た。だだッ広(びろ)うなっておかしか格好になっとったたい。倉の二階の屋根ばそんなりず ーっと引張ってあったもん。もとん倉ん二倍とはいわんごつなっとった。上ん段にある藁葺 の古るか穀倉は後には取り壤してあった。

  櫨の実の値段な、あたしがそげん帳面付けどんさせられよった頃は、高かときは、一斤四 餞安かときで、二銭ぐらに下がりよったげな。いつか、お父っつぁんてんおっ母さんてんの、 早よ売りすぎた四銭になったてん、早よ売ってよかった二銭に下ったてん、話しょんなさっ たっば小耳にはそだこつんあったたい。

あたしゃ何きろんの値段てんなあんまり知らじやったばってん、その話だけはまあだ憶えと るたい。うちの櫨の実の一番獲れよった頃は、一万何千斤かあったふうじやったばってん、 四十八の建ったり後特科隊の出けたりで、よか櫨畑がのうなった上、うちも左前でかつがつ 畑売り払うもんじゃけん、あたしが代になった時きゃ、ほんのわづか、人にちぎってもらう ごっなったたい。

  初手は櫨畑の下は日蔭で何でんあんまりよう出けじゃった。麦どん作る畑もありょったが、 里いもてん、「そば」どん作りょった風ばってん、地味のおろよかとこだん、ただ作りさせよ ったとこもあったたい。草ん生えんぶんがまし、どこで。

  そげな風で営所ん建っ時、敷地になったうちの畑にゃ大っかつ、小まかつ、ごーほん櫨の 植わっとったけん、そりば何日迄に片付けんなら、お上で始末するち云うこつで、あたで打 越(御井町)の山ば段段畑にして、植え直さるるとは植え直し、直されんとは薪にしたたい。 男達大人数雇うて、梅雨時じやったけん、蓑笠つけて大ごつした。

  そん時あすこの山から、大っか抹茶茶碗のごたるとの、ほーんに破れて出たたい。何せ急 いで仕事しよるもんじゃけん、満足なつは、たった一つで後はどこかかげたり、破れとった。 何やら良かごたるのーち云よったりや、道具屋が思はん高値で買うて行ったたい。薬はかか っちゃおらんごたった。

あの山の上は塚の有って、あとで転売されて一丁田の人が竹の子藪になしたとき、その塚穴 にくちなわがほーんに居つたつば、かまぎに入れて焼いたげな。すぐ其後で家中気の狂うた げなけん、塚とくちなわんたたりち、人のほんに評判しよったたい。
大正の末頃、じゃったかのー。


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