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    風 呂
   
  うちはずーと前は五右衛門風呂じゃった。
  一番古るか型じゃったかも知れんが、くどのごつ、土てん石てんで出来とる炉の上に、大 っか鉄の釜じゃり鍋じゃりんごたっとの掛っとっとの上に、桶の据っとりよった。焚口は壁 の外側たい。くど焚くごつ外から焚くとたい。鉄釜と桶とのさかいのあたりに木の棚のあっ て、その棚ば踏みつけて這入らんと、足の熱うして這入られんたい。

釜と桶のつぎ目がどげなふうになっとったもんじゃり、小まかときのこつで、ようと覚えん ばってん下手しよると桶の傾いてお湯のゾーッち流れ出て仕舞よったたい。いつかあたしが 一番風呂には入って、風呂桶のなかから、外の手桶ば身体のり出して取ろでちしよったりゃ、 いきなり桶の傾いて、お湯のゾーッち流れ出て仕舞うたたい。

そっで、また水入れて沸かし直したこつのあったたい。のちにゃ桶風呂の子持風呂になって、 そげなこつもなかごつなったばってん。元は家敷のなかの枯木の枝や根ざれ柴てん、なにか 材木屑んごたるもんでん何でん焚かるるけん五右衛門風呂がよかち云よったたい。初手は風 呂桶が今んごつ大っかってんな材料もなかけんなかったたい。
普通の風呂桶のそりも五右衛門てん、子持風呂てん、鉄砲てんち云うとじゃったたい。

  子持風呂ちゃ桶の広う使わるるとたい。石風呂ちもありよった。そして一軒々々風呂沸か すとはおおごつのけん、組々で共同で沸したり風呂屋ちお金取って入るゝとこもあった。八 枝は弥蔵さん方が風呂屋じゃったげな。土間に五右衛門風呂どん据えてあったふうじゃん。 あすこがやんでうちの今んとこの西北側の、うち寄りのとこに、八枝ん共同風呂ん出来とっ たたい。

石風呂の子持風呂でお湯沸しゃ組の者が廻しでしよったげな。沸くとカチカチカチ 拍子木どん打って、沸いたこつ知らすっと、みんな、ボローボロお湯入り来よったこたった。

  いっ時今んとこに家のくらしば改革するち云うて来とった時や、その共同風呂が家の直ぐ西 北の方じゃけん、お湯入りのときゃ、ワイワイ、ガヤガヤで、仰山なこつじゃった。別にか こいしてあるわけでんなかもん。藪てんはぜの木のかげにどん、なっとったが、被いもなか もんじゃけん、雨ん降るときゃ沸きゃおらじゃった。着物な、はぜの木にどん引掛けてあっ たこたった。

  その頃まで男も女も混浴じゃったげなたい。八枝の風呂は明治ん末頃やんだふうで、うち の土地じやったとこに石の風呂桶ん久しうごろごろしとったが、のちには道のわきの深か溝 さんころがし込んでありよったが大分後になって誰かがその石風呂ば買うて行ったてうちじ ゃった。

  東のもえ(共同)風呂は高皇宮の田ば売って大っか浴場ば作るまで、倉次さんがえ(家)の西 北角にあったたい。風呂の屋根は何じゃり板か竹かで、上ば葺いてあったこたった。その頃 までは混浴じやったが後には混浴は出けんち云うこつで、その小まか風呂桶ば、真ン中で、 板でせっ切ってあったもんじゃけん、どげんかして、は入りゃおっつろが、狭まかこつじゃ っつろ。

大正になってからじゃっつろか、営所ん前通りに小川ち云う人ん風呂屋始めて、どうやら何 人でん一緒に入らるゝごたる風呂が出けて、かかり湯どんがあって、いまの銭湯のこたっと になったたい。


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