SNK >> デジタルアーカイブ >> 初手物語
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村の医者どん | ||
国分んお医者さんな、馬場ん田元の清水の八幡さんのすぐ南の三ッ角の家じゃったたい。 安元温故さんち云よんなさった。其跡はのちお医者さんで大牟田に居んなさるち云うこつじ ゃった。 昔しゃお医者さんにかかるもんも少なかったごたる。村の者な、かねて米ば貫き合せて、 お医者さんに一年分のお礼ちうて上げよったごたる。国分のお医者さんな安元、野中のお医 者さんも安元養元さんち云よんなさったが、うちは、野中の安元さんにかかっとった、養元 さんな昔のお医者さんばってん、ほんに見立てん良かったもんの。 息子さんも二人ながらお医者さんで兄さんの方は上郡で、(浮羽、竹野、山本、の旧三郡)開 業しなさった。弟さんの博さんが、お父っつあんの後ばつぎなさった。博さんも、ほーんに よかお医者さんで年はうちのお父っつあんぐらいじやっつろか、兄さんの方は博さんより、 まあだ良かち云う話じゃった。 お医者さんとはほんに心安うしとったけん、近所に往診に来て、昼頃にどんなった時や「め し喰はせんのー」ち云うて入って来よんなさったたい。なにん上ぐるこたるもんの無か時や、 玉子どん煮て上げよった。そん頃は、お豆腐も何時いらんな国分にはなかったもんじゃけん 夏になると其頃は、かまぼこ、ちくわも出けはおらじゃったもんの。 安元さんな野中の中通りてろ云うとこじゃっつろ、玉子宮さんの近所でチョロチョロ川が 流れとった。お宮の横ば通ってちょっと西の方さん行くとお医者さん方で泉水どんがあって 赤鯉てん何てん入っとった。子供のときちょっと悪るかくらいならおもとがついて歩いて行 きよった。熱どんがあると、おもとに負はれて行った。浦川原(うらこうら)の藪の根ばこう 行って、野中の藪んそば通って、早みちして、畑の中の道ば行くと、畦道じゃけん、溝どん があって、ポイと飛び越えたりして、行かにゃならじゃった。 安元の博さんの息子さんが、ああた達ん頃、国分の学校の先生しとんなさった安元先生た い。後、博さんなちょーいと死んなさった。野中んとこば私が学校に行きよったりゃ、そ こ辺の者たちが「安元おいしゃさんな、死んなさったげなばーい」ち云よった。 避病院に行きよんなさったけん、チプス患者が先生に自分の布団ばひっ被せたけん、うつ んなさったち後から人の云よった。 石田さんち云うて通町八丁目にお医者さんのおんなさったっと、よか競争相手じゃったち 話じゃった。石田さんな、こう肥えて、大っか人で、人力車の美しかつに定紋の着いとっと に、こぼるるごつ乗って、その頃避病院な十二軒屋にあったけん毎朝んごっ行きよんなさっ とに会よった。後の市病院の院長さんの石田光次さんのお父っつあんたい。あたしどんより、 一つか二つ少なかお嬢さんのおんなさったつに三井郡の方からご養婿しなさったつが光次さ んたい。 避病院ちゃ初手はみんな入りたがらじやったたい。入ると、お医者さんの、一服盛らっし ゃるげなてんち云うて。そりゃ其頃までは、伝染病の手当も今たちごて、死ぬ者が多かりょ ったけんそげん云よったつじゃうが、いね出さるる時や、泣きの涙で送りょったげなたい。 もう会えんち云うて。 |