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    呉服屋
   
  久留米は明治頃は森新てん、荒甚てろんち、大っか呉服屋のあったたい。森新の方がいつ まつでん残って戦後にゃのうなったばってん。荒甚なまあだ早よのうなった。

  山本辺やその一族が、荒甚のよかお得意じゃったらしかたい。うちもそげなふうで、荒甚 から買よった。お正月には大っか塩鰤持って、荒甚からお歳暮ち云うて来ると、うちから大 っか梅の花枝てん、お正月の活花ばやるとが習慣のごつなっとったたい。

  初手ん呉服屋は今んごつ反物ば店にひろげとくちゅうこつはなかったたい。店にゃ反物の 木口ばこっちに向けて積み上げといて、その前に番頭さん、丁稚どんがずらーっと並うで坐 っとったたい。どげな物がほしかち言うと番頭さんが「何とかちゃん、何とかば持っておい で」ち言うと「ハーイ」ち言うて棚からてん、奥の方から色々反物ば持って来ると、番頭さ んが、そりば拡げて色々お客に説明して売り込みよったたい。

うちは、いつでん北の端に坐っとる一番番頭さんじゃろたい年寄った番頭さんに云よったた い。顔見知りで心安かったけん買いよかったたい。うちんとも買うばってん、織屋しよった ころは、織子てんなんてん織屋関係の女達てん出入内の者が、お正月に挨拶に来るとお年玉 ち云うて、裾よけば一枚づつやるとが習慣になっとったけん、ネルの色物てん、縞物ば幾巻 つつか買うたりもしよったたい。

  なんでん買いに行くとゆっくりしたこつで、向うから上がれち云うけん、上がるとお茶て んなんてん、時にゃお料理の出るこつもありょったたい。昔や一体に呉服屋ちゃそげなふう じゃった。

  森新のくさい、高崎のぢいさんなちょいと変わって御座ったもんの。あのぢいさんの代だ けで、あげん大きうなったつかどうかようは知らんばってん、なんせあの人の代で大きうな ったてろちうこつじゃった。見掛けは、ほんな百姓ぢいさんのごつしてあったたい。よそに 行くにも質素ななりで、わらじがけでどこにでん行きござったげな。いまの鹿児島本線の汽 車の出来初めは国からじゃなしに鉄道会社じゃったもん。高崎新兵衛さんち云うそのぢいさ んな、その鉄道会社の大株主じゃったったい。

  いつか、いつもん通り粗末なわらじばきで、一等車に乗って帰って来ござったげなりゃ、 車掌が、田舎ぢいさんが乗りちがえたち、思うたこたるふうで「間違うて乗っとんなさるじ ゃろ」ち云うげなもん。そりから高崎さんの株主券ば、見せてじゃったけん、車掌がびっく りして、何べんでん頭下げて行ったげな。ちょいと気の毒かった、ち乗り合わせとんなさっ た山本の作之進さんのお話しょんなさった。そげなふうで、ほんに質素な人じゃったげな。

  高崎さんな大っか樹の生えとるとこば好いてござったち云うこつで、学校の裏あたりの大 っか樹の生えとるとこば、ずーっと買うてあったたい。
なにか思惑もあったけんじゃろ ばってん。四十八の西北の隅から、野中通って国道さん行っとるあの広か道が、始めは今ん ごつ東の村中ば通らんで、いまの学校と高良川の間のにきば通るごつなっとったげなが、高 崎さんのその道の通り筋になるち云うとこで、白壁家の町屋んごたる家どん、今の小学校の 西の方に建ててござったが、道が野中のとこから急に曲って、東の村内ば通るごつなったけん、 予想のはづれて、のちには建ち腐れになってしもとったたい。
その野中のにきで、道の急に 曲っとるとこば「鶏曲り」ちそのころん人達が、あだなつけとった。その道の出来るとき、 村の役人連中が鶏で飲ませたてろ、飲まされたてろで、道が曲ったち云うごたる話のありよ ったたい。たしかお父っつあんの村長の頃じゃったち思うが…。


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