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    捕 虜
   
  高崎のその学校裏の森のなかにゃ、二、三軒借家どんが建っとったばってん、あんまり借 手もなし、ようしめ切ってありよったが、日独戦争ん頃ドイツの捕虜が家族ば呼うでよかご つなって、捕虜の奥さんてん、子供てんがその家あたりに住んでござったたい。

  ほーんに、たてよこ大っか女中さんが来とった。大女じやったたい。ご主人な伯爵さんて ろち云うこつで、その伯爵さんな青島(チンタオ)で捕虜になって連れて来られてじやったけ ん、奥さんと子供さんと女中さんが、後から来てあすこの家に住んでじゃったたい。ドイツ 人の捕虜は一体に清潔で、行儀の良かったたい。そして子供たちゃ、どげん寒かときでん、 ズボンと靴下の問は、なあにん着らんで膝坊んさん丸出しじゃったが、あげんしとる方が強 よ育つてろち云うこつじゃった。

  ドイツ人の捕虜は花好きで、うちの火事の跡の屋敷に、椿の珍らしかってん、すみれてん、 いろいろ花の咲きよったけん、よう花もらいに来よらっしゃったたい。何人でん連んのうて、 日本の兵隊さんが鉄砲かついで、二人ぐらい付いては来よったばってん、あの頃は捕虜は、 割合大切にされとったこたる。大正八、九年頃にはもう帰っとったこたる。捕虜収容所の跡 にゃ、カンナてん、カラ菊てん、いろいろな花のそうに咲いとりよった。捕虜が植えとった つち云うこつじゃった。

  捕虜ちゃ、日露戦争のとき、四十八の東側、のちの戦車隊のとこに、収容所の出けた。堀 立て小屋のこたる藁葺の、南北に長がか一棟じゃった。ロシヤの捕虜は、毛ばかりのこたる 大っか帽子被って、ひげだらけん者が多かりょった。来たはなは戦争汚れで臭うして、どん こんならじゃったげなが、のちにゃ美しうなったげな。あの頃も案外、楽にしてあったらし うして、護衛兵はついとるばってん、よう街の方にどん散歩に行ったりしよったふうじゃん。

  女学校にも見学にござったてろち云うこつじゃった。同窓会誌にそんときの写真どんが載っ て来たこつんあったもん。ロシヤ兵たちゃお酒好きで、飲うじゃ出来んち云うたっちゃ飲ん だてろで、ぐでんぐでんになって、落てんごつ車に縛りつけられて帰りよっとば見かけたこ つんあったが、いつか通町か何かで、樽の店先にあるけん、お酒ち思うたらしうしてツカツ カ寄って来て、自分でせん引抜いて桝で角うちしたところがそりが酢じやったげなたい。ど げん店の主人が「ス、ス」ち云うたつちゃ、言葉の通ぜんもんじゃけん、ギューッち呑んで からの顔がなんとん、かんとん云えじゃったげなたい。

  いつか夜さり、火事騒ぎの起ったたい。ぞうきんに石油しませて火つけて、収容所の藁屋 根に放り上げたげなたい。そっで燃ゆるこつが!うちの裏からでん、火のまる塊(くれ)のぼ んぼん上がって燃ゆるとん見えたたい。捕虜でん一所懸命消火ば手伝うもんがあるかち思や、 はぜの根方にどん寝そべって見よる者もあったげな。収容所ん焼けたなら、ロシヤに帰らり うち思うて、火ばつけたつげな、ち云う噂じゃった。

  ロシヤ人な、鳥賊てろん鮹てろんな食べんげなたい。そりが判らんもんじゃけん、いつか 晩のお菜に、いか、たこば持ち込うだげなりゃ、みんな腹かいて、寄って来て、がやがや云 うげなもん、ようと調べたげなりゃ、あげんとは食べんとげなたい。そっで、またそのお菜 や取り換えたち云うこつじゃった。

  あっちへんな、宗教の儀式がやかましかげなたい。お祈りの時間ち云うとがあって、お祈 りするとげなたい。その時間になると、お祈りしよる声じゃろか、うちへんまで、グドグド グドち、何じゃり声の聞こえて来よった、


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