SNK >> デジタルアーカイブ >> 初手物語
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倉富家の人達 | ||
倉富は元肥前の竜造寺の一族で戦国の末頃筑後の森部さん来なさって、其あとがあの辺一 帯に土着しなさったっげな。 森部に来なさった時ゃほんな年の暮れで、どこかの倉の中でお正月迎えなさって、宝来造 るとに、お三宝も無かけん、桝に宝来ば、かざんなさったげな。後々迄倉富一族はお正月の 宝来ゃ桝にかざりょんなさったつは、その故事になろうたっち、うちのばばさんのお話しよ んなさった。 森部に来なさってお子さんの弟さんの方が石垣に分家しなさったげな。その跡はまあだ石 垣の方に住んどんなさるげなたい。 石垣に分家しなさったお方のお子さんの弟ごの方が又徳童に別家して、代々大庄屋てん何 てん勤めなさって大地主じゃったたい。 中頃徳童から初代丹右衛門さんの上古賀に分家しなさったときゃ、沢山田畑ば分けて上げ なさったげな。この初代丹右衛門さんな宝歴騒動の時百姓方で罰されたりしなさったげなば ってん、土地のこつてん治水のこつてん功労のあって、後にゃ士分にお取り立てになったげ な。俳句てんもほんに上手で、財産もごーほんふえたげなたい。上古賀の倉富の門の扉の朝 あく音は、一里四方聞こゆるち云よったげな。一里四方ちゃちょいと云い過ぎかも知れんば ってん昔ゃ空気の澄んであたりの静かじゃったけん、だいぶん響きゃおっつろの。 丹右衛門さんの娘婿さんに太田平右衛門さんの弟御の三左衛門さんが成って上古賀の二代 目になんなさったげなが若死にしなさったけん、垂井から弥兵衛さんが後入りの婿に、なん なさったげな。うちの良右衛門さんの弟ごたい名も又右衛門ちなんなさって、まあだこまか った後の丹右衛門さんてん、徳童の奥さんになんなさった娘ごの養育てん、財産の切り盛り ばして行きなさったげな。 うちのおふち、あたしのばばさん(真藤重三郎後妻)のお父っつぁんな、その上古賀の後 の倉富丹右衛門さんたい。そのお方が、ちった開けたこつば好いとんなさったもんじゃろた い。いつか突抜き井戸ば堀って、噴水ば出そうでちしなさったばってん、いっちょーん水の 出らんげなもん。耳納山の水脈の来とっちばし思うて掘んなさったじゃろばってんの。そり からある朝誰かが門の扉に落首しとったげなたい。 丹によむさん 水が出ん丹 火が出ん丹 あんぼん丹 と人が云う丹 初手の入は、そげなユーモアん利いてばしおったじゃろ、よーなんでん面白うおかしう茶 化しょったもんの。 その丹にょむさんな子供さんの何人かあったばってん、みんな失のうて、うちにおいっと ったばばさん一人になんなさったけん、亀王(かめお)の竹下から鉄之助さんば養子にしな さった。鉄之肋さんなお母さんの里ば継ぎなさったったい。そして始めは久留米の今田の縁 家の布屋稲益から奥さん呼びなさったが若うして失しなさったけん、後妻にあたしの伯母さ んの行っとんなさった。 鉄之助さんな始めは地方の名誉職てんいろいろなこつにつとめよんなさったばってん、胸の 悪るなって、家のこつは人まかせで、あっちこっち長崎じゃなんじゃち、夫掃で転地療養ど んしてさるきょんなさったけん、大分傾きかけちゃおったばってん、昔の大地主もだんだん 失うなったったい。しまえにゃ、東櫛原にうちの持家のあったけん、そこさん来とんなさっ て、あすこでおかくれた。 そっでそのあとの家の整理にゃお祖父っつぁんとばばさんとで行って、色々財産の片付けど んがあったたい。そっでばばさんな、出入りの者が子供ん多して大ごつてん、あの末ん子は 出来んでよかったつにてん、こぼそうもんなら叱りつけて云うて聞かせよんなさった。「あ たしも末に生れたけん、いらん者、いらん者ち云はれて来たばってん、そのいらん者が家の 整理したり家の面倒見たりせにゃならん。どげん末ん子でん、いらん者てんなんてん云うちゃ 出来ん」ち。 鉄之肋さんに子供んなかったけん、徳童の本家の胤厚さんの三番目の男の子強五郎さんば 養子にして、岡野の健之丞さんの二女のますしゃんば奥さんに貰いなさったたい。 強五郎さんの一番兄さんが恒二郎さんで、西日本新開の前身、福岡日々新聞の姶め頃の役 員しとんなさって、代議士の候補に出なさったこつのあった。そん時三井郡の佐々木正蔵さ んも出なさったたい。お父っつぁんな、かねて佐々木さんな知合いじゃったたい。 そりに倉富の方に加勢すろもんじゃけん、佐々木派の壮士ちその頃云よった袴どん穿いたつ どんが、何人でんぞろぞろ刀持ってうちに押し掛けて来て、格子の間の畳に刀突き立てゝ、 どうして倉富に加勢するかちやかましう云い立てたたい。 そりから「そりゃ佐々木さんな知合いばってん、恒二郎さんな母親の里の本家で血縁者じゃ けん、倉富ば応援するとたい」ち云いなさったけん、「そげなこつなら仕方なかたい」ち引 き揚げて行ったげな。当選したつは佐々木さんの方じゃったたい。どうして、其頃の代議士 選拳はいつでんそげな壮士どんが「いれ(投票)んなら、こうするぞ」ち刀振り廻しょった ごたるふう。 恒二郎さんの次が勇三郎(枢密院議長男爵)さんたい。勇三郎さんの東京からお帰りがあ ると、いつでん、ばばさんにお土産が来よった。ばばさんのおかくれてからは縁遠うなった ばってん。 強五郎さんのお父っつぁんの胤厚さんな、久留米の大隈の園田から養婿においっとったた い。奥さんのオクニさんとよう大隈にお里帰りがありょった。行きにゃ必ずうちに一泊して おいりょった。うちのばばさんとオクニさんな、いとこち云うこつじゃった。 胤厚さんな学者さんで、あたしが覚えとっとに、まあだ「くわい頭」ちゅうごたるふうに、 髪結うとんなさった。いつかおいって例の通り泊んなさって、大隈さんおいりがけに、オク ニさんの、「ほんに爺さん連れて来ると大事じゃけん、こんど来る時ゃ一人で来るたいのー」 ち冗談云うてお帰ったげな。そりから間ものう胤厚さんのおかくれて、そのつぎオクニさん のおいったときゃ一人になっとんなさったけん、「ほんにあげなこつ云よんなさったが、云い 当て、しまいなさった、冗談にでん云うこつじゃなか」ち、ばばさんの話しょんなさった。 恒二郎さんのお子さんが啓しゃんで、岡野のおふみしゃんが奥さんになんなさったたい。 姉さんのますしゃんが叔父嫁さんで妹のおふみしゃんが甥嫁さんち云うこったい。 強五郎さんな舅お父っつぁんのすぐあと村長さんになんなさったたい。強さんも大分長う 村長して.大東亜戦争の始った頃までしとんなさって、やめなさった後何かで表彰されなさ って、帰りがけに、やっば脳溢血しゃっつろ.倒れなさったまゝで、とうとう逝ってしまい なさったたい。 |